君主, ニッコロ・マキャヴェリ

軽蔑され憎悪されるのを避けること


さて、上で言及した性質については、重要なことは述べてきましたが、それ以外のことについて、つぎのような概要のもとに手短かに論じてみようと思います。つまり、一部前にも言いましたが、君主は、憎まれたり軽蔑されたりするようなことを、どうやって避けたらよいかを考えておかなければならないということです。これをうまく避けるたびに、その役割を果すことになり、他の非難を浴びてもなんら危険を恐れる必要はないのです。

なににもまして、君主が憎悪されるのは、すでに述べたように、強欲となり臣民の財産や婦女子を侵害することであり、君主はこの二つを差し控えなければなりません。そして臣民の財産や名誉に手を出さなければ、大多数の人は満足して生活し、それで、君主は少数の者の野心とだけ闘えばよく、その野心は簡単に多くの方法で抑えこむことができるのです。

君主が移り気で、軽薄で、軟弱で、心は狭く、優柔不断だと思われると、軽蔑されます。それで君主は、暗礁から身を守るように、これらから身を守らなければなりません。そして、自分の行為に偉大さや勇気や真剣さや剛毅さが示されるよう努力すべきです。また臣民を私的に扱うさいにも、その判断が撤回不能であることを示し、だれも彼を欺いたり言いくるめたり望むべくもないという評判を守らなければなりません。

自分のこうした印象を作った君主は高く評価され、高く評価される君主は容易に陰謀を企てられることはありません。というのは、彼が優れた人物で、その民衆から崇敬されていることが知れわたっていれば、攻撃するのは困難なのですから。こういうわけで、君主は二つのことを懸念しておかなければなりません。一つは、その臣民に関る国の内部からの懸念であり、もう一つは、外国勢力に関る国外からの懸念なのです。国外からの懸念は、しっかりと武装し良好な同盟関係を結べば防げるもので、またしっかり武装していれば、良い友好国は見つかるものです。情勢が陰謀でかき乱されているというのでなければ、国外関係が平穏なら、国内はいつも平穏でしょうし、国外情勢が騒然としてる場合でさえ、君主が準備万端整えて、私が述べてきたとおりに生活していれば、自暴自棄とならないかぎり、君主はあらゆる攻撃に耐えていけるでしょう。それはスパルタのナビスの事績について述べたとおりです。

しかし、その臣下については、国外情勢が騒然としているときは、彼らが秘かに陰謀を企てることだけを懸念すべきですが、そのことからは、君主は憎悪され軽蔑されるのを避け、民衆が彼に満足しているようにしておけば、容易に身を守ることができます。これまで長々と述べてきたように、このことを達成することが、君主にはもっとも必要なことなのです。君主が陰謀に対抗するもっとも効果的な対策の一つは、民衆から憎悪され軽蔑されないことなのです。というのは、君主にたいして陰謀を企てる者は、いつでも君主を除くことで民衆が喜ぶと期待するものなのです。しかし陰謀家が民衆を怒らせるだけだとわかれば、彼が直面する困難には際限がないので、そうした計画を実行する勇気は挫けます。経験が示すとおり、これまで陰謀は多数なされましたが、成功したのはわずかです。なぜなら、陰謀家は単独では行動できず、また仲間にひき入れることができるのは、不満を抱いていると思える連中しかなく、不平分子に本心を明かすや、そいつが満足する素材を与えるしかなくなるのですから。というのも、陰謀家を告発することでも彼は利益を得られ、それだから、この計画から得られる利得が確かなもので、それ以外は不確かで危険に満ちているという点では、陰謀家に誠実であるためには、仲間にするのは無二の親友か、君主の筋金入りの敵しかないのです。

そして、問題を小さな範囲に限定すれば、陰謀家の側には、恐怖や嫉妬や彼をおののかせる刑罰という予想しかないのに、君主の側には、君主権の威光や法律、彼を守る友人や国家の保護があるのだ、と言えましょう。だから、これらすべてに加えて民衆の好意があれば、向う見ずにも陰謀を企てるのはだれにも不可能でしょう。一般に陰謀家はその策略の実行の前にはたじろぐものですが、この場合には犯罪の結末にも恐れを抱かざるをえないのです。なぜなら、それに関して、民衆を敵にまわし、そうして逃れる望みを持てないからです。

この問題については数多くの事例を挙げることができますが、私たちの父の代の記憶に残る一例で満足してきましょう。ボローニャの君主、アンニバーレ・ベンティヴォリオ公(現アンニバーレ公の祖父)は、公への陰謀を企てたカンネスキ家に殺害され、その一族では幼少のジョヴァンニ公[42]だけが生き延びたのでした。その暗殺の直後、民衆は蜂起して、カンネスキ家の者を皆殺しにしたのです。これはその時代、ボローニャでベンティヴォリオ家が受けた民衆の好意から発っしたものでした。この好意はとても大きく、アンニバーレ死後には国家を統治できる者がだれも残っていなかったけれど、ボローニャ人たちは、その頃には鍛冶屋の倅だと思われていたが、ベンティヴォリオ一族の者がフィレンツェにいると聞きつけ、彼をさがしにフィレンツェに使いを出し、その市の統治を彼に委ね、ジョヴァンニ公がやがて統治できるようになるまで、彼が市を支配したのです。

こういうわけで、民衆が君主を尊重しているときは、君主は陰謀を気にすることはないと、思います。しかし、民衆が敵対しており、君主に憎悪を抱いているのなら、君主はすべてのこと、すべての者に懸念を抱くべきです。きちんと秩序立った国家と賢明な君主は、なにごとにつけ、貴族がすてばちにならぬよう、民衆が安心立命できるよう図ってきました。というのも、これは君主のもっとも重要な目標の一つだからです。

当代のもっともよく秩序だち統治された王国のうちに、フランスがありますが、そこには王の自由と安全が依ってたつ多くのすばらしい制度が見いだされます。その中で第一のものは高等法院とその権威です。なぜなら、王国の創設者は貴族の野心やその大胆さを知っており、彼らを抑えこむには、その口に轡をくわえさせることが必要だと思っていました。その一方で、民衆が、恐怖に基づいて、貴族に憎悪を抱いていることも知っていたので、民衆を保護したいと思ったのですが、しかし、このために、王が特別に関心を払いたくはなかったのです。それで、貴族から民衆寄りだと非難され、民衆から貴族の味方だと非難されるのを避けるため、王にたいする非難を起こさずに、強者を挫き弱者に味方する裁定者を設置したのです。これ以上に優れており、しかも細心の注意を払った布置はないでしょうし、王と王国の安全をこれ以上に確保するものもないでしょう。このことから、もう一つ重要な結論を引き出すことができます。それはつまり、君主は非難を受けるような事柄は他人に手に委せて、自分の手には温情のあるものだけを残しておけばよいということです。さらに言えば、君主は貴族を尊重しながらも、そのことで民衆から憎しみを買わないようにすべきだと思うのです。

おそらく、ローマ皇帝の生き死にを検証して、その多くが私の意見の反証となっており、そのうちの何人かは高貴に生き、精神の偉大な資質を示しながらも、帝国を失なったり、陰謀を企てた臣民に殺害されたりしていると言う人たちが現われることでしょう。そこで、この反論に答えるために、ローマ皇帝の幾人かの性格を思い起こし、その破滅の原因が私の主張するとこと異らないことを示しておきましょう。同時に考察にあたり、当時の事情を研究する人には注目に価する事柄について、意見を述べることにします。

哲人皇帝マルクスからマクシミヌスまで帝国を継承した皇帝たちを全員取り上げれば十分でしょう。それは、マルクスとその子コモドゥス、ペルティナクス、ユリアヌス、セウェルス、その子アントニヌス・カラカラ、マクリヌス、ヘリオガバルス、アレクサンデル、マクシミヌスの諸帝です。

まず注意してほしいのは、他の君主国では貴族の野心と民衆の不遜と取り組めばよいだけですが、ローマ皇帝は兵士たちの残酷と強欲に耐えるという第三の困難を抱えこんでいたことです。これは多くの皇帝が身を滅ぼすという、とても厄介な問題でした。というのは兵士と民衆の両方を満足させるのは難しい事だからです。なぜなら、民衆は平和を愛するもので、それだから、彼らは現状満足型の君主を愛するのですが、一方、兵士のほうは、大胆で残忍で強欲な好戦的な君主を愛するのです。それにこうした特質を皇帝が民衆にたいして行使することを兵士たちはとても喜んだのですが、そうやって兵士たちは二重に支払いを受け、強欲と残忍さのはけ口を得たのです。こうして、生れながらか修練によって、大きな権限をもたない皇帝は、いつも打倒され、皇帝の多く、特に新に君主の座に就いた者は、この相反する二つの気性のもつ困難を認めながらも、兵士を満足させる傾向にあり、民衆が傷つけられることにはあまり気を懸けなかったのです。こうした成行きはしかたのないことでした。なぜなら、君主がだれからも憎まれないことはできないことで、まず第一に、君主はだれからも憎まれないように努力すべきですが、それが達成できなければ、もっとも力あるものから憎まれないよう、最大限の努力を払うべきなのです。ですから、こうした皇帝は、経験のなさから、民衆よりも兵士のほうにしっかり結びついた特別の愛顧をかける必要があったのです。こと成行きが君主の利につながるかどうかは、君主が兵士たちに権威を維持する方法を知っているかどうかによりました。

こうした理由から、マルクス・アウレリウス、ペルティナクス、アレクサンデルはみな質素な生活をし、正義を愛し、残忍を憎み、人情厚く、温和でありましたが、マルクスを除けば、悲惨な最期をとげました。マルクスだけは名誉のうちに生きそして死にました。なぜなら、彼は玉座を世襲の称号として引き継いだのであり、兵士にも民衆にもなんら負うところがなかったからです。そして後には、尊敬を受ける多くの徳を身につけて、生きているうちは両者をしかるべき秩序を保ち、憎悪されることも軽蔑されることもありませんでした。

しかしペルティナクスは、兵士の意にさからって帝位についた皇帝であり、兵士たちはコモドゥスの下で放埒に生きるのに慣れていたので、ペルティナクスが彼らに無理強いた質素な生活には耐えられなかったのです。こうして憎悪の原因をもたらしたのですが、その上に彼が老齢であったため軽蔑までが加わり、その統治のごく初期のうちに打倒されたのでした。そして、ここで注意しておきたいのは、憎悪されるようになるのは、悪い行いによってではなく、良い行いによるほうが多いということです。ですから、以前に言ったように、君主はその国家を保とうとすれば、しばしば悪行をせざるをえないのです。というのは、君主が自身を維持するために必要だと考える集団が、それが民衆であれ兵士であれ貴族であれ、堕落しているなら、その気風に合わせ、彼らを喜ばせざるをえず、それで、良い行いが君主を害することにもなるのです。

さてアレクサンデルに話を移すと、この人は非常に善良で、彼に与えられた賞賛の中でも特に、十四年にわたって判決なしに皇帝により死を賜わった者がいなかったことで称えられています。それにもかかわらず、彼はめめしくて、母親に統治を左右されるような人物とみなされて、軽蔑され、軍隊に背かれて殺害されました。

次にコモドゥス、セウェルス、アントニヌス・カラカラ、マクシミヌスという正反対の性格の皇帝に話を移しましょう。すると彼らがみな残忍で強欲なことに気がつきます。彼らは兵士を満足させるためには、民衆にたいしてあらゆる種類の不正を働くことに躊躇しませんでした。そしてセウェルスを除けば全員が非業の最期をとげました。しかし、セウェルスにあっては、非常に豪胆で、兵士には親しくし、民衆は抑圧したものの、うまく統治したのです。というのは、彼の豪胆さは兵士の目にも民衆の目にもすばらしいものに映り、民衆は驚愕のまま畏怖し、兵士たちは尊敬し満足していたからです。また、この人物の行動は。新君主としては偉大であったので、彼が狐と獅子の真似方を熟知していたことを簡単に示しておきたいと思います。この性質は、前に述べたように、君主がぜひとも模倣すべきものなのです。

ユリアヌス帝の怠惰を知ると、ローマに進軍し近衛兵に殺されたペルティナクスの死の仇を討とうと、彼が指揮していたスクラヴォニアの軍隊を説き伏せました。この口実のもとに、帝位への野心はみせず、ローマに軍を進め、発進した知らせが届く前にイタリアに入ったのです。ローマに到着すると、元老院は恐怖にかられて、彼を皇帝に選び、ユリアヌスを殺害したのです。その後、全帝国の主人となろうとしていたセウェルスには二つの困難が残っていました。その一つはアジアにあり、アジア方面軍の司令官ニゲルが皇帝を僭称していました。もう一つは西方にあり、アルビヌスも帝位をねらっていたのです。そして両者を同時に敵だと公言するのは危険だと考え、アルビヌスを欺いてニゲルを攻撃しようと決断しました。アルビヌスには、自分が元老院に皇帝に選ばれたが、その地位を彼と分ちたいと思い、カエサルの称号を彼に贈る、その上、元老院は彼を自分と同職に選んだと書き送りました。そしてアルビヌスはこれを真にうけたのです。しかし、セウェルスはニゲルを打ち破り、彼を殺し、東方情勢を収拾すると、ローマに帰還し、アルビヌスは彼から受けた恩義をほとんど顧みることなく、背信して彼を殺害しようとしており、この忘恩にたいして彼を罰せざるをえないと、元老院に訴えたのです。その後、彼はアルビヌスをフランスで探し出すと、彼から政権と生命を奪ったのです。ですから、この人物を注意深く検証すると、彼がもっとも獰猛な獅子であるとともに、もっとも狡賢い狐であることがわかります。彼はだれからも恐れられ尊敬され、軍隊からは憎まれませんでした。そして、彼が新君主としてうまくやれたことを不思議がる必要はありません。なぜなら、彼の暴力によって民衆が抱く憎悪からは、その優れた名声によって守られていたからです。

さて、彼の息子のアントニヌスも非常に傑出した人物で、極めて優れた性格を持っていました。それで、民衆の目にもすばらしいものに見え、兵士たちにも受けがよかったのです。というのも、彼は好戦的な人物で、どんな労苦にも耐え、美食やその他の贅沢を嫌っていたので、軍隊から敬愛されていました。それにもかかわらず、彼の蛮行と残虐さはひどいもので、前代未聞のもので、数えきれないほどの単なる殺人の後、ローマの大多数の民衆とアレキサンドリアの全人口を殺害したのです。彼は世界中から憎まれ、取り巻きの連中からも恐れられ、とうとう軍隊のただ中で百人隊長に殺害されたのでした。ここで留意しておくべきは、固く決意した命懸けの意地をもって慎重に加えられたこうした殺意からは、君主といえども逃れる術はないということです。なぜなら、死を恐れぬ者ならばだれでも、こういう害を加えることができるのですから。しかし、そうしたことは極めてまれだから、君主はそれをさほど恐れる必要はありません。しかし君主は自分が使用したり、国事のために周りに侍らせる者たちには、重大な危害を加えないよう、注意すべきです。アントニヌスはこの注意を怠り、百人隊長の兄弟を傲慢無礼に殺し、この百人隊長を日々脅威にさらしながら、しかも警護兵に加えていたのです。起ったとおり、それは無鉄砲な行いであり、結局は皇帝は破滅することになりました。

次にコモドゥスを見てみると、彼はマルクスの息子で、帝国を相続したのだから、それを維持するのはとても簡単なことでした。彼は父親の足跡をたどって、民衆と兵士を満足させていればよかったのです。しかし生来、残忍で獰猛だったので、軍隊を楽しませ堕落させて、民衆をほしいままに強奪したのです。その一方で、自分の威厳を保つこともなく、しばしば闘技場に降りては、剣闘士たちと闘い、皇帝の尊厳にはそぐわない、その他の破廉恥行為を行ない、兵士から軽蔑されるようになりました。一方からは憎悪され、もう一方からは軽蔑されて、陰謀を図られて、殺害されたのです。

後に残るは、マクシミヌスの性格についてですが、この人は非常に好戦的な人物でした。もうすでに述べた、アレクサンデルの軟弱さに愛想をつかした軍隊が、アレクサンデルを殺害して、マクシミヌスを皇帝に選んだのです。この地位を彼はそう長くは保つことができませんでした。というのは二つの事から彼は憎悪され軽蔑されたからです。一つは、彼がトラキアで羊飼いをしていたことで、それで彼は軽蔑されたのです。(このことは皆によく知られていて、だれからも非常に辱かしいことだと思われたのです。)もう一つは、彼が支配権を得たとき、ローマに行き、皇帝の座につくのに出遅れたことです。それにまた、自分の属州長官にローマやその他帝国各地で残虐行為を行なわせ、それで極めて残忍だという悪評を得たのです。それで全世界が彼の生れの卑賤さに怒り、その野蛮さを恐れるようになりました。まずアフリカが反乱を起し、次に元老院とローマの民衆が背き、全イタリアが彼に陰謀を企て、それに彼の軍隊まで加わりました。彼の軍隊はアキレイアを包囲しながら、それをなかなか落せずにいましたが、彼の残忍さに嫌気がさし、あまりに敵が多いので彼を恐れなくなり、彼を殺害したのです。

ヘリオガバルスやマクリヌス、ユリアヌスについては、論じようとは思いません。彼らは、まるで見下げはてた輩で、たちまち一掃されました。それでは、この論述の結論として、次のように言っておきましょう。当代の君主たちは、その兵士の法外な満足を与えるという困難は、さほどではなくなっています。なぜなら、兵士になにほどかの恩恵を施さなくてはならないにしても、それはすぐに実行できます。こうした君主のだれ一人として、ローマ帝国のように、属州の統治や行政におけるような年季のはいった軍隊など持っていないのですから。それに当時は民衆よりも兵士を満足させることが必要でしたが、現在では、トルコとエジプトを除けば、どの君主にとっても、兵士よりも民衆を満足させることが必要となっているからです。なぜなら、民衆のほうがずっと強力になっているのですから。

上に述べたことからトルコを除きましたが、トルコはいつも十二師団の歩兵隊と十五万騎の騎兵を擁し、王国の安全と強大さはこれに依っています。それで、民衆への配慮を後回しにしても、軍隊を味方につける必要があるのです。エジプト王国も同様です。すべてが兵士の手中にあるため、民衆を無視しても、兵士たちを味方にしなければならないのです。しかしエジプトは他の君主国とは異なっていることに注意すべきです。それはキリスト教の教皇制に似ているので、世襲の君主国とも新興の君主国とも呼ぶことができないのです。なぜなら、老君主の子息が跡継ぎとなるのではなく、権限を持つ人たちに選出された者がその地位につくのです。子息はただ貴族であるにすぎないのです。それに、これは古くからの慣行であって、新興の君主国と呼ぶこともできないのです。なぜなら、新君主が遭遇するような困難は、そこにはなに一つないのですから。というのは、君主は新しくても、国家の体制は古く、それはまるで世襲の君主であるかのように、彼を受入れればよいだけのものに作られているからです。

さて、私たちの論議の主題にたち返ると、それをよく考えてみると、名を挙げた皇帝たちに致命的であったのは、憎悪か軽蔑のいずれかであったことがわかるでしょう。そして、ある人たちはあるやり方で、別の人たちは別のやり方で振舞い、そのうち、どちらか一方だけが幸福に終り、他の者は不幸に終ったということが、どのように生じたかも分ります。なぜなら、ペルティナクスとアレクサンデルは新君主であるから、帝国を世襲したマルクスの真似をするのは無用で危険なことです。同じように、カラカラやコモドゥスやマクシムヌスがセウェルスの真似をするのは、その足跡を辿っていけるほど豪胆ではないのだから、極めて破滅的なのです。ですから、君主国には新参の君主が、マルクスの行動を真似ることはできないし、またセウェルスの行動に従う必要もないのです。しかし、セウェルスからは、国家の基礎を固めるのに必要な部分を得て、マルクスからは、すでに安定し確固とした国家を維持するのに適切ですばらしい方策を得なければなりません。

英訳の注

[42] ジョヴァンニ・ベンティヴォリオ。1438年ボローニャで生まれ、1508年ミラノで死去。彼は1462年から1506年までボローニャを支配した。マキャヴェリの陰謀にたいする強い非難は、彼自身のごく最近の体験(1513年2月)から激しさを増している。その時、マキャヴェリはボスコーリ家の陰謀に加担したと申し立てられ、逮捕され拷問を受けた。


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