君主, ニッコロ・マキャヴェリ

君主がしばしば頼りにする要塞やその他のものは役に立つか、それとも有害か


1.ある君主は、国家を安全に保持するために、臣民から武器を取り上げ、べつの君主は、支配下の町を派閥争いによって維持しようとします。互いの敵意を助長する君主もいれば、統治の始めに信頼を寄せなかった連中を味方につけるために力を尽くす君主もいます。ある君主が要塞を築くと思えば、ある君主はそれを打ち倒して破壊します。その決断がなされた状況の詳細がわからないと、こうしたことのどれ一つにも最終的な判断を下すことはできないのですが、事態の許すかぎり包括的に、論じてみましょう。

2.新興の君主で、臣民から武器を取り上げた人は一人としていませんでした。むしろ、臣民が武装していなければ、武装させるのが常でした。なぜなら、臣民を武装させることで、その武器は君主の武器となり、不信を抱いていた連中は忠実になり、忠実だった臣民は忠誠を守り、こうしてその臣民は支持者となるからです。それに、すべての臣民に武装させることができないにしても、武装させた者には恩恵を施すと、他の者はもっと思うがままにあつかえるし、この処遇の差は、まったくそのとおりだと了解されて、それによって武装している者は君主に依存するようになり、また武装していない者は、危険が大きく、服務も重い者がそれだけ報酬が大きいのも当然と思い、君主を大目に見るのです。しかし、彼らの武器を取り上げると、臆病のせいか忠誠心が欠けているせいで彼らを信頼しないと示すことになり、すぐに不興をかうでしょうし、どちらの見解も君主にたいする憎しみを生み出します。武装しないではおれないので、君主は傭兵に頼るようになるのですが、その性格はすでに示しました。傭兵は優れていたとしても、強大な敵や不信を抱いた臣民から、君主を守るには十分ではありません。ですから、言ってきたように、新興の君主国の新興の君主は武器を配布するのが常なのです。歴史にはこうした事例がたくさんあります。しかし、君主が新しい国家を獲得して、元からの国に属領として付け加えるときは、その国を獲得するときに自分の味方となった者以外は、その国の人々から武器を取り上げることが必要です。そのうえで、時間をかけ機会をみはからっては、その人々を温和で軟弱にしていかなくてはなりません。このようにして、国内の武装した人間は元の国の自分の側にはべる自軍の兵士だけとなるよう、事態を扱っていかなければならないのです。

3.私たちの父祖で、しかも賢者と言われる人たちは、ピストイアを保持するには派閥闘争が要るが、ピサを保持するには要塞が要る、と言うのが常でした。この考えにしたがって、自分たちに服属する町を容易に領有するために、そのいくつかではもめ事を助長してきました。こうしたことは、イタリアが均衡を保っていた時代には十分効果があったのでしょうが、今日では指針として受け入れがたいと思います。なぜなら、派閥闘争がいつまでも有効とは思えず、むしろ分裂した都市に敵が襲来すると、最弱の党派は外部の勢力を助けるのが常で、その他の党派は抵抗できなくなるので、たちまちそれを失なうに決っているのですから。ヴェネツィア人は、思うに、こうした理由につき動かされ、服属する都市でグェルフ党とギベリン党との派閥闘争を助長したのです。流血沙汰になるのは許さなかったとはいえ、その間の紛争を煽ってきました。そうやって、市民は意見の相違に困惑させ、一致団結してヴェネツィア人に対抗しないようにしたのです。このことは、見てのとおり、後にはそん思惑通りにはなりませんでした。なぜなら、ヴァイラの敗走の後、一つの党派が勇気を奮いたたせて、国家を奪い取ったのですから。力のある君主国ではこうした派閥闘争を許されるものではないのですから、こうした方法は君主の弱体を示すもです。臣民を御すのを容易にするのにこうした方法を取るのは、平和な時代でこそ役に立つものの、戦争になると、この政策は当てにならないことがわかってしまうのです。

4.疑いもなく、君主は直面する困難や障害を克服すると、偉大なものとなるのです。それだから運命が特に新興の君主を偉大なものにしたいとき、そうした君主は世襲の君主よりも名声を得る必要が大きいので、敵を出現させて彼に対抗するよう目論むのです。そうやって、それに打ち勝つ機会を与え、敵が立て掛ける梯子を登るようにして、高みに上げるのです。こういうわけで、賢い君主は、機会があれば、策を弄して自分への反感を助長し、そうやって、それを粉砕することで自分の名声を高めるのだと、多くの人たちは思っているのです。

5.君主、特に新興の君主は、統治しはじめた頃は信用できなかった者のほうが、信頼していた者よりも、忠誠心があり役に立つとわかることがあります。シエナの君主パンドルフ・ペトルッチは、他の者よりも、信用しなかった者に国を支配させました。しかし、この問題については、一概に語ることはできません。というのは、個々人で様々ですから。ただこれだけは言えます。君主の座についた当初には敵意を抱いた者が、生計を立てるために助けを必要としている連中なら、いとも簡単に味方にすることができるのが常なのです。そして連中は、忠誠を込めて君主に一生懸命仕えるでしょう。それは、一旦与えた悪い印象を行動で打ち消すことが、自分にとってとても必要だということを、連中はよくわかっているからなのです。ですから君主は、あまりに安穏と仕えて、自分の立場を弁えない者よりも、この連中からのほうが、より大きな利益を引き出せるのです。そして事態が求めるので、人目につかない好意によって新な国を手に入れた君主にはぜひとも忠告しておかなければならないことがあります。それは、好意を示した者が、なぜそうしようとしたかの理由を、よくよく熟慮すべきだということです。それが君主にたいする自然な敬愛からではなく、ただ自分たちの政府にたいする不満によるものなら、君主がこの連中と親しくするのは、ただ大きな苦労と困難を背負いこむだけです。というのも連中を満足させるのは不可能ですから。そして古代や近代の事件からとられたそういう事例で、このわけをよく考えてみれば、君主は、以前の政府に不満を抱いているので、彼に好意を示し、その国を奪うよう激励した連中よりも、以前の政府のもとで満足しており、それで彼の敵であった者たちのほうと親しくするほうが、ずっと容易いことがわかります。

6.君主には、その国家をより安全に保持するために、君主に反乱を企てる者にたいする手綱とくつわの役目をはたし、最初の攻撃からの非難場所となるよう、要塞を築くという慣例がありました。この制度は昔から利用されてたので、素晴しいものでしょう。それにもかかわらず、ニッコロ・ヴァッテリ卿は国を守ろうとチッタ・ディ・カステッロの二つの要塞を取り壊しました。ウルビーノ公グィドゥバルドは、チェザーレ・ボルジアに国外追放されていましたが、領国に帰還すると、その属領のすべての要塞を土台から破壊しましたが、要塞がないほうが国を失ない難いと考えたのです。ボローニャに帰還したベンティヴォリオ家も同じような決断をしました。ですから、要塞が役に立つか立たないかは、状況しだいなのです。ある場合は役にたつが、別の場合は害をなすのです。この問題は次のように判断できるでしょう。外国勢力より民衆に脅かされている君主は要塞を築くべきですが、民衆より外国勢力に脅かされている君主は要塞なしにすませるべきです。ミラノの城塞は、フランチェスコ・スフォルツァが築いたものですが、国内のいかなる騒乱にもまして、スフォルツァ家の困難の種となってきましたし、これからもそうでありましょう。こういう理由で、可能な最上の要塞とは、民衆に憎まれないことです。なぜなら、要塞があったとしても、君主が民衆に憎まれるなら、要塞は君主を救ってはくれないのです。というのは、武器をとって反乱した民衆を支援する外国勢力に事欠くことはありませんから。当代ではこうした要塞がだれか君主の役に立ったということは、フォルリ伯夫人[43]の場合以外には見当たりません。彼女の夫ジロラモ伯が殺されたとき、彼女は要塞によって、民衆の攻撃をしのぎ、ミラノからの援軍を待つことができ、自分の国家を回復したのです。それに外国勢力が民衆を支援できないような情勢でした。後にチェザーレ・ボルジアが彼女を攻撃、彼女の敵である民衆が外国勢力と同盟すると、要塞はほとんど役に立ちませんでした。ですから、その時も以前の時も、要塞を持つことより、民衆に憎まれないことのほうが、彼女にとってより安全だったのです。万事考えあわせてみると、私は要塞を築いた人も築かなかった人も讃えますが、要塞を頼みにして、民衆から憎まれることには注意を払わない人は咎めだてるのです。

英訳の注

[43] カテリーネ・スフォルツァ。ガレアッツォ・スフォルツァとルクレツィア・ランドリアーニの娘。1463年生れ、1509年死去。1499年にマキャヴェリが羨望を受けながら派遣されたのは、このフォルリ伯夫人のもとへだった。フォルトゥナーティは伯夫人にこの任命を伝える手紙で言っている。「私は貴族たちから、彼らが誰をいつ派遣するかを知りました。彼らは、学識のある若いフィレンツェの貴族で十人委員会の書記官であるニッコロ・マキャヴェリに、私とともに直ちに出立するよう命じたのです。」パゾリーニ伯爵著、P.シルヴェスター訳『カテリーネ・スフォルツァ』を参照。


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