眠れる者の目覚め, ハーバート・ジョージ・ウェルズ

屋上


奥の部屋の換気装置のファンは回転してその隙間から夜空をのぞかせ、くぐもった音があたりに響いていた。その下に立っていたグラハムは聞こえてきた声にはっとした。

見上げると回転の隙間に自分を見つめる一人の男の暗くぼんやりとした顔と肩が見えた。次の瞬間、黒い腕が伸ばされ、すばやく動く回転翼がそれにぶつかった。小さな茶色い染みをその薄いブレードの端に付着させたまま翼は回転し続け、何かが音もなくそこから床へと滴り落ち始めた。

グラハムが下を見ると、自分の足に血が点々とついていた。奇妙な興奮の中、彼は再び上を見た。人影は消えていた。

彼は身じろぎもせずにじっとしていた――その全ての感覚が現れては消える黒い染みへと集中していた。やがて彼は、ごくわずかにかすかな黒っぽいちりが外の空気に乗って漂ってきていることに気づいた。それが彼に向かって断続的に渦を巻くように落ちてきて、ファンから吸い上げられる流れの脇を通り過ぎていった。瞬く灯りの光に、そのちりが白く輝き、それから再び暗くなった。彼の周りは暖かく照らされていたが、彼は自分からほんの数フィートの範囲に雪が降っているのだとわかった。

グラハムは部屋を歩き回り、それから換気扇のところへ再び戻った。その近くを人間の頭がさっと通ったのが見えた。ささやくような音が聞こえる。その後、何か金属質の物体を叩く意味ありげな一撃、何か苦労しているような音、声、そして回転する翼が止まった。雪のかけらが突風とともに部屋に吹き込み、床に触れる前に消えた。「怖がらないで」声が言った。

グラハムは回転翼の下に立っていた。「誰です?」彼はささやいた。

少しの間、ファンのゆれる音の他には何も聞こえなかったが、次の瞬間に人間の頭が開口部へ慎重に突き出された。その顔はグラハムからはほとんど逆さになっていた。その黒い髪は溶けた雪のかけらでぬれている。腕は上方の暗がりに突き上げられていて何か見えないものをつかんでいた。若々しい顔の輝く瞳、額には血管が浮き出ていた。男はなんとか自分の姿勢を保とうとしているようだった。

数秒の間、男もグラハムもどちらもしゃべらなかった。

「あなたが眠れる者?」見知らぬ男がついに言葉を発した。

「ええ」グラハムは答えた。「私に何の用です?」

「私はオストログから派遣されました、閣下」

「オストログ?」

換気扇の向こうの男が頭をひねり、その横顔がグラハムに向けられた。突然、慌てたような叫びが起こり、侵入者が後ろに飛び退いて、動き出したファンの一閃からなんとか逃れた。そしてグラハムが見上げた時には、ゆっくりと舞い落ちる雪の他には何も見えなくなった。

何者かが換気扇のところに戻ってくるまでにはおそらく十五分ほどもかかっただろうか。しかし最後にはさっきと同じ金属的な衝突音が再びして、ファンが止まるとあの顔が再び現れた。この間、グラハムはずっと同じ場所に留まって、興奮に震えながら用心深く見守っていた。

「あなたは誰です? 何の用なのです?」彼は尋ねた。

「私たちはあなたとお話しさせていただきたいのです、閣下」侵入者は言った。「私たちは――だめだ、これ以上は持ちこたえられない。あなたのもとにたどり着こうと私たちは苦労したのです――この三日間」

「助けてくれるのですか?」グラハムはささやいた。「逃げられるのですか?」

「そうです、閣下。あなたが望むのであれば」

「あなたは私の味方――眠れる者の味方なのですね?」

「そうです、閣下」

「どうすればいいですか?」グラハムは尋ねた。

何かもがくような様子があった。見知らぬ男の腕が現れたが、その手からは血が流れていた。男の両ひざが視界の、漏斗状にすぼまったふちの上に現れる。「私から離れておいてください」男は言うと、グラハムの足元に両手と片方の肩をついて激しい音をたてて着地した。解放された換気扇が音をたてながら旋回を始める。見知らぬ男は寝返りを打つとすばやく跳ね起きて、息を切らせながら立ったまま、痛めた肩に手をやり、輝く目でグラハムを見つめた。

「確かにあなたは眠れる者のようだ」男は言った。「眠っているあなたを見たことがあります。誰でもあなたに会えるという法律があった頃に」

「私がその昏睡していた男です」グラハムは言った。「やつらは私をここに幽閉しているのです。目覚めてからずっとここにいます――少なくとも三日の間」

侵入者は何か言いかけたようだったが、そこで何か聞きつけると、扉の方にすばやく目をやって、突然グラハムを置いたまま、何か聞き取れない言葉を早口に叫びながらそちらに向かって走った。輝く鋼鉄のくさびが男の手の中で光り、男は扉の蝶番にドン、ドンとすばやく打撃を繰り返した。「気をつけろ!」声が叫んだ。「ああ!」その声は上から聞こえてきた。

グラハムが視線を上げると二本の足の裏が見え、彼はそれをよけたが片方の足が肩に当たって、その重みに地面に押し倒された。彼は膝をついて前へ倒れ込み、重みは頭の方まで伝わった。膝立ちになって体を起こすと上から現れた二番目の男が彼の前に座り込んでいた。

「あなたが見えなかったもので、閣下」息を切らせながら男が言った。男は立ち上がるとグラハムが立つのを手助けした。「お怪我はありませんか、閣下?」息を切らせながら彼が言った。換気扇に重い打撃が何度も加えられ始め、グラハムの顔のすぐそばに何かが落ちてくる。震える白い金具の端が踊って、脱落し、床の上に転がった。

「これはどうしたわけです?」グラハムは叫び、困惑したように換気扇を見た。「あなたたちは誰なんです? 何をしようとしているのです? わけがわからない」

「下がって」見知らぬ男が言い、再び重たい金属片が落ちてきた換気扇の下から彼を引いて下がらせた。

「私たちと一緒に来て欲しいのであります、閣下」新しく現れた男が息を切らせながら言って、グラハムは再び相手の顔へ視線をやった。その額にできた新しい切り傷が白から赤へと変わり、そこから数滴の血が滴っているのが見えた。「あなたの民があなたを求めているのです」

「どこへ行こうと? 私の民だって?」

「市場のあたりのホールです。ここにいるとあなたの命が危ない。私たちは調査していたのです。ずいぶん調べましたが、なんとか間に合った。評議会は決定をおこないました――まさに今日です――あなたは薬漬けにされるか、殺されます。全ての準備が整っています。人々は訓練を終えています。転向した警官、エンジニア、道路管理者の半分は私たちの側にあります。ホールは人でいっぱいです――叫んでいるのです。都市全体が評議会に対して叫び声をあげている。武器もあります」男は手で血をぬぐった。「ここではあなたの命は無価値で――」

「しかしなぜ武器など?」

「人々はあなたを守るために立ち上がっているのです、閣下。何事だ?」

最初に下りてきた男がしーっと音をたてると彼はすばやく振り向いた。後から現れた方が後ずさり、他の者に身を隠すよう身振りで指示し、開く扉の後ろに隠れるように動いた。

直後にハワードが現れた。片手に小さなトレイを持ち、その厳しい顔はうつむいていた。はっとして彼が顔を上げると背後で扉が勢いよく閉まって、トレイが左右に傾き、鋼鉄のくさびが彼の耳の後ろを打った。切り倒された木のように彼は倒れ込んで、手前の部屋の床に斜めに横たわった。殴りつけた方の男はおずおずと身をかがめて、しばらく相手の顔を調べていたが、立ち上がると扉のところでの自分の作業に戻った。

「位置について!」声がグラハムの耳に響いた。

次の瞬間、唐突にあたりが暗闇に包まれた。無数にあった天井近くの壁の灯りが消されたのだ。グラハムが換気扇の開口部に目をやるとその上で舞い散る幽霊のような雪とためらうように動き回る黒い複数の影が見えた。回転翼の上に三人が膝をついていた。何かよく見えないもの――はしご――が開口から降ろされ、ちらつく黄色い灯りを持った手が見えた。

彼は一瞬ためらった。しかしこの男たちの振る舞い、その機敏な動き、その言葉は、彼自身が抱いていた評議会への恐怖や助けが来て欲しいという考えを後押しし、ためらいは長くは続かなかった。その上、彼の民が待っているのだ!

「わけがわからない」彼は言った。「だが信用しましょう。どうすればいいか教えてください」

額を切った男がグラハムの腕をつかんだ。「はしごを登ってください」彼がささやいた。「急いで。やつらは聞きつけたでしょう――」

グラハムは伸ばした両手ではしごを手探りし、下の方の段に足をかけると、首をひねって肩越しに一番近くにいる男を見た。ちらつく黄色い光の中、最初に現れた男はハワードをまたいで乗り越え、扉のあたりでまだ作業をしていた。再びはしごの方に向き直るとグラハムは案内人に支えられ、上にいる者たちに手助けされて引っ張り上げられ、次の瞬間には換気口の外の何か固くて冷たくて滑りやすいものの上に立っていた。

彼は身を震わせた。気温の大きな違いに彼は気づいた。周囲には半ダースほどの人間が立っていて、軽い雪のかけらが手や顔に触れては溶けていった。しばらく暗いままだったが、一瞬、不気味な紫色がかった白い閃光が走り、それから再び全てが暗闇に沈んだ。

自分が巨大な都市構造物の屋上に出てきたのだということがわかった。この構造物がヴィクトリア朝時代の様々な家屋や通り、広場に置き換わったのだ。彼が立っている場所は水平で、巨大な蛇のようなケーブルがあらゆる方向に伸びている。たくさんの風車の丸い回転輪が、雪の舞う暗闇の中に、ぼんやりとした影となって巨人のようにそびえ立ち、不規則な風が吹いたり収まったりするのに合わせて様々な大きさでうなり声をあげていた。少し離れたところでは下から断続的に白い光が投げかけられ、渦を巻く雪に当たってしばしきらきらと輝かせ、闇夜につかの間の幽霊の姿を作り出していた。さらにあちらこちらの下の方では、何かぼんやりとした輪郭の風力機械が鉛色の火花を散らしていた。

自分の救助隊が周囲に立つ中で彼はこれらの全てを切れぎれに見て取って吟味した。誰かが毛皮に似た手触りの厚くて柔らかなコートを彼の近くに放り、彼はそれを着て腰と肩の留め具ベルトで固定した。状況が簡潔で確固とした口調で伝えられる。誰かが彼を前に押しやった。

彼の頭がまだ明瞭になる前に一人の黒い影が彼の腕をつかんだ。「こちらです」その影が言うと、促すように横について、平らな屋上の向こうのぼんやりとした半円形の光のもやの方向をグラハムに指し示した。グラハムは従った。

「気をつけて!」グラハムがケーブルの一本につまずくと声が言った。「ケーブルの間を行って、またがないようにしてください」声が言った。「急がなければ」

「その人たちはどこにいるのです?」グラハムは言った。「私を待っているとあなたが言った人々は?」

見知らぬ男は答えなかった。道が狭くなってくると男はグラハムの腕を離し、足早に道を先導していった。グラハムはわけもわからずについて行った。一分ほどして気がつくと彼は走っていた。「他の人たちは来ないのですか?」息を切らせながら彼は尋ねたが返事は無かった。彼の道連れはちらりと後ろを見てから走り続けた。彼らは、やって来た方向と直角に交わる、天井の無い金属の通路のようなところへ出て、それに沿って横へ曲がった。グラハムは後ろを振り返ったが、吹雪が他の者たちの姿を隠していた。

「来て!」案内人が言った。走ってしばらくすると、彼らは空高くで回転する小さな風車へと近づいていった。「止まって」グラハムの案内人が言って、彼らは回転翼の軸まで上に向かって走る無限に延びたベルトケーブルを避けた。「こちらです!」彼らは、吹き溜まる半分溶けた雪でいっぱいの溝に足首の深さまで埋まっていた。溝を挟む二つの低い金属製の壁はやがて腰ほどの高さにまで高くなっていった。「まず私が行きます」案内人は言った。グラハムはコートを体に巻き付けて後を追った。そうするうちに唐突に狭い深穴に出くわしたが、溝はそれを越えて向こう側の雪でけむる闇へと続いていた。グラハムが脇から覗いてみると深穴の底は真っ暗だった。一瞬、彼は逃げ出したことを後悔した。あえて再び見ようとはしなかったが、半分溶けた雪をかき分けて進みながら彼の頭はくらくらとしていた。

それから溝の外へ這い登り、半分溶けた雪で湿った広い平らな空間を急いで横切った。空間の面積の半分ほどはぼんやりとした半透明になっていて下を行き交う光が見えた。この割れやすそうな材質に彼はためらったが案内人は気にする様子も無く走っていき、彼らは巨大なガラスのドームのふちへと続く滑りやすい階段のところまでつくとそれを登った。そうしてそのふちを彼らは周って行った。はるか下ではたくさんの人々が踊っているようでドーム越しにも音楽が聞こえた……。吹雪の向こうから叫び声が聞こえたようにグラハムは思い、案内人はいっそう急き立てて彼を急がせた。息を切らせながら巨大な風車が立ち並ぶ空間へと登ったが、風車の一つはあまりに巨大で、回転翼の下端が視界へと入ってきたかと思うとまた上がっていって闇夜と雪の中へ消えていくという有様だった。彼らはしばらくその支柱の巨大な金属製の透かし飾りの間を急ぎ、最終的に、あのグラハムがバルコニーから見たのに似た、動くプラットフォームの上へと出た。降り積もった雪で滑りやすくなっていたので手と膝をついて、このプラットフォームの街路を覆う斜めになった透明な天井を彼らは這い進んだ。

ガラスの大部分は結露していてグラハムからは下の様子がぼんやりとしかわからなかったが、透明な屋根の勾配がきつくなったあたりではガラスが透けて見え、気がつくと彼は下に広がる光景の全てをまじまじと見つめていた。案内人が急かしていたが、しばらくの間、彼はめまいに襲われてガラスの上に大の字になり、吐き気と麻痺に耐えた。はるか下では揺れ動くたんなる点群となって、永久に沈まない日の光の中、眠らない都市の住民が行き交い、動くプラットフォームが絶え間ない旅を続けていた。配達人や名も知らぬ職業の人々が垂れ下がったケーブルに沿って撃ち出され、華奢な橋には人だかりができていた。それはまるでガラスでできた巨大なミツバチの巣箱をのぞき込んでいるようだった。それが彼の真下に横たわっていて、彼の落下をふせいでくれるのは厚みもわからない頑丈なガラスだけなのだ。街路は明るく暖かに見えたが、一方で今のグラハムは半分溶けた雪で肌までずぶぬれで、寒さに足はかじかんでいた。しばらく彼は動けなくなった。「動いて!」案内人がその声に恐怖をにじませながら叫んだ。「さあ!」

グラハムは努力して屋根の勾配がきつくなったあたりへとたどり着いた。

案内人のやり方に倣って頂上部を越えると、彼はぐるりと向きを変え、小さな雪崩を起こしながら、非常に速い速度で反対側の傾斜を後ろ向きに滑り降りていった。滑りながら彼は、もし進む先に割れ目があったらどうなってしまうのだろうと考えた。ふちまで来るとぬかるんだ雪に足首まで埋まりながら彼はよろよろと立ち上がり、再び半透明の足場に立てたことを天に感謝した。案内人はすでに金属製の間仕切りを登って水平な空間へと進んでいた。

その上のちらつく雪のかけらの向こうにはまた別の巨大な風車の列がそびえ立ち、そこで突然、回転輪のくぐもった騒音の中に耳をつんざかんばかりの音が響いた。それはとてつもない大きさの、機械的なけたたましい音で、あらゆる方角から同時に聞こえてくるようだった。

「いなくなったことにもう気づいたんだ!」グラハムの案内人が恐怖のにじんだ調子で叫び、突然、目もくらむような光が差して夜が昼へと変わった。

吹き付ける雪の上、風車群の頂上から、鉛色の光を放つ球体を乗せた巨大な柱が現れたのだ。果てしなく広がる眺望の中でその光はあらゆる方向に向かって放たれていた。降る雪の中で目の届く限りの範囲にわたって光り輝いている。

「これは急がなければ」グラハムの案内人は叫び、彼を押して雪の無い金網状の長い道を進ませた。道は、わずかに傾斜した二つの雪面の間に引かれたベルトのようだった。感覚のなくなったグラハムの足に暖かさが感じられ、かすかな気流の渦がそこから立ち昇っていた。

「さあ!」十ヤードほど向こうから案内人が叫び、待つ様子も無く猛烈に輝く光の中をすばやく走り抜けて、次の風車区画の鋼鉄の柱の群れに向かって行った。グラハムは驚きから覚めるとできるだけの全速力で後に続いた。追手が迫っていることは確実だった……。

二十秒ほどで彼らは、途方も無い大きさの回転輪の下の動く棒から投げかけられる、光と黒い影の格子模様の中に入り込んだ。グラハムの案内人はしばらく走り続けてから、突然、横に道を逸れ、巨大な支柱の足元の隅にある黒い影へと消えた。次の瞬間にはグラハムは彼の横にいた。

二人は息を切らしながら身をかがめ、あたりの様子をうかがった。

グラハムの目に映る光景は実にすさまじい、奇妙なものだった。雪はもうほとんど降り止んでいて、名残りの雪のかけらがときおり風景を横切るだけだ。しかし彼らの前の広く水平な空間はひどく白く、巨大な塊と動く影と漆黒の闇の長い帯、それに巨大で不格好な影の巨人だけがそれを汚していた。周囲にある全て、巨大な金属製の構造物、鋼鉄の大梁、非人間的なほど巨大に見えるそれらが組み合わさり、凪いだ風にほとんど動かない風車の先端は、巨大な輝く曲線を描いて、どんどん急になる勾配を上がって光るもやの中を進んでいった。雪で飾られたあたり一面に光が投げられ、梁や桁、ところどころ途切れながらもかき消されること無く走る果てしない帯を照らしながら、暗闇の中を上へ下へと通り過ぎていった。そしてその力強い動き、いたるところに見て取れる意図と設計の雰囲気がありながら、この機械群の雪に覆われた寂しげな様子は、自分たち以外にはどんな人間も存在しないのではないかと思わせるものがあり、それは道も人けもなく、人間がめったに訪れることのない、近づき難いアルプスの雪原のように見えた。

「やつらが追ってきます」先導者は叫んだ。「まだ目的地まで半分も来ていない。寒いですがしばらくここに隠れているほかありません――少なくとも雪がまたもっと激しくなるまでは」

頭蓋の中で彼の歯がかちかちと鳴った。

「市場はどこです?」あたりをうかがいながらグラハムは尋ねた。「人々はいったいどこにいるのです?」

聞かれた側は何も返事をしなかった。

おい!」グラハムはささやき、近くにかがみこむと身を固くした。

突然、雪が再び激しくなり、渦を巻き起こしながら黒い穴のような空から何かが滑るようにやって来た。ぼんやりとした大きなもので非常に速い。きつい曲線を丸く描いて降りてきたそれは大きな翼をひろげ、背後に白く濃い蒸気の軌跡を引きながら軽々と上昇したかと思うと、空中を滑走し、大きな弧を描いて水平に進んで再び猛烈な吹雪の中へと消えた。その機体のあばらのあたりにグラハムは二人の小さな人間を見た。とても小さな影だったが、活発に彼のいるあたりを調べていて、見たところ双眼鏡を使っている。つかの間、はっきりと見えたが、すぐに激しく渦巻く雪の向こうへとかすれていって、遠く小さくなり、一分もしないうちに消えた。

今です!」彼の道連れが叫んだ。「行きましょう!」

彼はグラハムの袖をひっぱり、二人は全力で走りながら風車の下の鋼鉄製のアーケードへ頭から飛び込んだ。めくらめっぽうに走っていたグラハムは、突然、自分の方に向き直った先導者にぶつかってしまった。気がつくと彼は十ヤードほどの暗い裂け目の間にいた。右も左も目の届く限りずっと延びて続いている。どちらの方向へも進むことはできなさそうに思えた。

「私がやるようにやってください」案内人がささやいた。彼は横たわるとふちまで這い進んで、頭を突き出し、片足がぶら下がるまで身をよじった。どうやら足で何かを探っているようで、それを見つけたかと思うと、身を滑らせて深い穴の方へとふちを乗り越えた。彼の頭が再び現れる。「足場があります」彼がささやいた。「暗いですがずっとあります。私がやったようにやってください」

グラハムはためらいながらも、四つんばいになってふちまで這い進み、ヴェルヴェットのような暗闇をのぞき込んだ。吐き気を催しながら、しばらくの間、彼は進む勇気も退く勇気も持てなかったが、意を決してふちに腰掛けて片足を下ろし、そこで自分を引っ張る案内人の手の感触を感じた。ふちを滑って乗り越え、計り知れない深みへと降りる恐ろしい感覚を覚えたかと思うと、水しぶきが飛び散り、自分がぬかるむ溝、見通すことのできない暗闇の中にいるとわかった。

「こちらです」声がささやき、彼は、壁に体を押し付けながら、溶けた雪の滴りの中、その溝に沿って這うように進み出した。数分の間、彼らはそれに沿って進み続けた。たくさんの惨めな段階を通り過ぎ、何分も何分もひどい寒さと湿気と疲労の中を進んだように彼には思えた。少し経つと手足の感覚は失われてしまった。

溝は下に向かっって傾斜していた。彼の見たところでは、彼らは今では建物の上端から何フィートも下にいるはずだった。ブラインドが引かれた窓の幽霊のようなぼんやりとした白い影の列が彼らの上方に浮きあがっていた。彼らは、そうした白い窓の一つの上に留められた、ぼんやりと見える、見通すことのできない影の中へと消えていくケーブルの終端へとやって来た。突然、彼の手が案内人の手にぶつかった。「静かに!」案内人がとても小さな声でささやいた。

はっとして見上げると、あの飛行機械の巨大な翼がゆっくりと音もなく頭上を滑って、雪のちらつく灰青色の空が作る幅広の帯を横切っていくのが見えた。すぐにそれは再び見えなくなった。

「そのまま静かに。すぐに戻ってくるでしょう」

しばらくの間、二人とも動きを止めていたが、それからグラハムの道連れが立ち上がってケーブルの留め具へ向かって手を伸ばし、何かよく見えない器具を手探りした。

「それは何です?」グラハムは尋ねた。

返事はかすかなうめき声だけだった。男は身をかがめて動きを止めた。グラハムはその顔を薄暗い中でじっと見つめた。男は細長い空の帯を見つめ続けていて、グラハムがその視線を追うと遠くの方にかすかに小さくあの飛行機械が見えた。そうするうちにその両側に翼が広げられ、そいつがこちらに向かって進路を変えて、時々刻々と大きくなっていることに彼は気づいた。そいつは自分たちの方へ向かって裂け目をたどっていた。

男の動きがせわしなくなった。彼は二本の交差した棒をグラハムの手に押し付けた。グラハムにはそれが見えなかったが、彼は感触でその形を確かめた。彼らは細い綱であのケーブルから吊り下げられた格好になった。綱につけられた握り手は何か柔らかく弾力性のある物質でできていた。「その十字の棒を足の間に通して」案内人は狂乱状態でささやいた。「支持具を握ってください。しっかりと握って、離さないように!」

グラハムは言われるままに従った。

「飛ぶのです」声が言った。「どうかお願いですから、飛んで!」

一瞬、グラハムは何も言えなくなった。暗闇が自分の顔を隠してくれたことをグラハムは後になって感謝した。彼は何も言わなかった。体が激しく震え始める。空を飲み込むようにして自分に向かって突進してくるすばやい影を彼は横目で見た。

「飛んで! 飛んでください――お願いだから! さもなければ捕まってしまう」グラハムの案内人が叫び、激情に駆られて彼を前に押し出した。

グラハムは痙攣したようによろめき、すすり泣きの声をあげた。意図しない泣き声だった。そしてあの飛行機械が二人の上を通り過ぎる中、彼は、十字の棒にまたがってロープを必死で握りしめながら、暗い穴底へと前に身を傾けた。何かが裂けるような音がし、何かが激しく壁にぶつかった。ロープについた吊り台の滑車がたてるうなり声が聞こえる。あの飛行機械の乗員たちの叫びが聞こえた。一対の膝が自分の背にめり込む感触を彼は感じた……。彼は頭から空中へと飛び出し、風を切って落ちていった。体中の力を手に集中させる。絶叫したように思うが、息はできなかった。

彼は目もくらむような光の中へと突き進んで行き、それが手に込める力を強くさせた。あの走る道がある巨大な通り、吊るされたライト、縦横に走る梁が見て取れた。それらは彼の横を上へと猛スピードで通り過ぎていった。つかの間、彼は自分を飲み込もうと大きく開く巨大な丸い口を思い描いた。

再び周囲は暗くなり、どんどんと落ち続けていく。握る手が痛み出し、そこで見えてきたのだ! 手を打ち合わせる音、ほとばしる光、彼がいるのは明るく照らし出されたホールで、足元には歓声をあげる大勢の人々がいた。あの人々だ! 彼の民たちだ! 演舞台が、ステージが彼に向かって迫り上がって来て、彼を支えるケーブルはその右側にある円形の開口へと消えていっていた。自分の落下速度が遅くなっていっていることを彼は感じ、そこで突然、とてもゆっくりになった。「助け出されたのだ! 世界の主人だ。彼は無事だ!」という叫び声を彼は聞き取った。少しずつ速度を落としながらステージが彼に向かって迫り上がってくる。そして――

自分の背にしがみついた男がまるで突然の恐怖に襲われたかのように叫ぶのが聞こえ、その叫び声に応えるように下からも叫びがあがった。もはやケーブルに沿って滑り降りているのではなく、ケーブルにつながったまま落ちているように彼は感じた。怒鳴り声や金切り声、叫びの大騒ぎが起きていた。伸ばした手に彼は何か柔らかいものを感じ、激しく着地する衝撃の振動が腕を伝わってきた……。

彼は落ち着こうとした。人々は彼の体を持ち上げていたのだ。後になって考えてみると、あの演壇へと運ばれて何か飲み物をもらったように思うが、自信はまったくない。案内人がどうなったのかには気づきもしなかった。ようやく落ち着いて考えられるようになった時には、彼は自分の足で立っていて、熱烈なたくさんの手が彼が立ち上がるのを手助けしていた。彼は壁にうがたれた大きなくぼみアルコーブの中にいた。これまでの彼の経験に照らし合わせると低層のボックス席が設けられているような場所だ。もしこれが確かに劇場であればの話だが。

とてつもない大音響が彼の耳に響く。雷鳴のようなとどろき、無数の群衆の叫び声だ。「眠れる者だ! 眠れる者は私たちとともにある!」

「眠れる者は私たちとともにある! 世界の主人――世界の所有者だ! 世界の主人は私たちとともにある。彼は無事だ」

だんだんとグラハムに見えてきたのは人が群れ集まる巨大なホールだった。個々の人間は見えず、ただ紅潮した顔の泡沫、波打つ腕と衣服だけがわかり、彼へと殺到して歓声を送る大群衆の超自然的な影響力を彼は感じた。遠くを眺めるとバルコニーや空中廊下、巨大なアーチ状の門があった。いたるところに人がいて、広いアリーナでは人々が押し合いへし合いしながら歓声をあげていた。近くの方に目を移すと切れたケーブルが大蛇のように横たわっている。ケーブルはあの飛行機械に乗った者たちによって上の方で切断され、丸まったようになってこのホールへと落ちてきたのだった。人々がそれを運んでどかしているようだった。しかし全体の印象はぼんやりとしていた。建物そのものが歓声の轟音に揺れ跳ねているようだった。

彼はよろめきながら立ったまま、周囲の人々を見回した。誰かが片手で彼を支える。「小さな部屋へ私を連れて行ってください」彼はしぼり出すように言った。「小さな部屋へ」それ以上は声が出なかった。黒い服の男が一人、前に進み出てだらりと下がった彼の腕を取った。目の前の扉を開く親切な男に彼は気がついた。誰かが席へと彼を導く。彼はよろめきながら席へと深く腰を下ろし、両手で自分の顔を覆った。彼は激しく身を震わせた。彼の神経はもう限界だった。グラハムはコートを脱ぎ捨てていたが、どうやってそうしたのかは思い出せなかった。自分の紫の下履きを見るとそれはぬれて黒くなっていた。人々が彼のまわりを駆け回って何事かが起きようとしていたが、しばらくの間、彼はそれに注意を払うこともしなかった。

彼は逃げられたのだ。無数の叫び声がそれを彼に教えた。彼は安全なのだ。ここにいるのは彼の味方の人々なのだ。しばし彼はあえぐようにすすり泣き、顔を覆ったまま静かに座った。周囲には数えきれないほどの人間の叫び声が満ちていた。


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