社会契約論――政治的権利の諸原則 第一篇, ジャン・ジャック・ルソー

第三章 強者の権利


どんなに強い者でも、その力を権利に変え、その服従を義務に変えなかったならば永久に支配者たるの地位を維持するに足る程には強くない。そこで強者の権利というものが生ずる。この権利はどう見ても皮肉な意味にしかとれぬが、その実、根本的原則として確立されているのである。けれども、この強者の権利という言葉はついに我々には説明されぬだろうか? 暴力は一つの物理的の力である。この物理力がどうして精神的の結果を生ずるのか私には解することができぬ。暴力に屈するのは必然の行為であって、意志の行為ではない。せいぜいのところ、それは用心から出た行為である。それが如何なる意味において義務になり得るだろうか?

しばらく、この所謂いわゆる権利が正しいと仮定しよう。するとその結果として、わけのわからない無茶苦茶が生ずるばかりである。何となれば、力が権利をつくるのだとすれば、結果はすぐに原因と共に変わってしまう。即ち、最初の力に打ち勝つ力は、最初の力から生じた権利をもぐからである。罰を受けることなしに反抗することができれば、その反抗は正当なものになる。そこで、最強者は常に正しいということになり、最強者になろうとすることより他には問題はなくなる。ところで、力が止むと共に消滅する権利とは一体何であるか? 力のために服従しなければならぬとすれば、義務によって服従する必要はない。しこうして、服従を強制されなければ、服従する義務はないことになる。そこで、この権利という言葉は、力に何物をも付加するものでない。この言葉は、ここでは、まるで無意味になる。

権力に服従せよという文句が、もし、力に屈せよということを意味するなら、この教えは間違ってはいない。けれどもそれは無用の教えである。私は、こんな教えは決して破られる気遣いはないと答える。全ての権力は神から来るものであるという説は私は認める(フィルマー、ボシュエ等は神権説を唱えている)。けれども、全ての病気もまた神から来るのだから、医者などを呼んではならぬということになるだろうか? 一人の強盗が森の隅で不意に私を襲ったら、私は、向こうが力づくで財布を奪うときばかりでなく、その財布を渡さなくてもすむ場合にでも、わざわざそれを渡す義務があるのだろうか? 何となればその泥棒がもっている拳銃だって要するに権力なのだから。

だから、力は権利をつくるものでなく、我々は正当な権力にしか服従する義務はないものであるということを認めることにしよう。かくの如くして、私の最初の問題がいつまでも帰ってくるのである。