社会契約論――政治的権利の諸原則 第一篇, ジャン・ジャック・ルソー

第五章 常に最初の契約に遡らねばならぬ


私が、今まで論駁して来たことを、仮にすっかり承認したところで、専制主義の擁護者等の立場はそのために一向よくなりはしない。群衆を鎮めることと社会を統治することとの間には常に大きな相違があるのだ。ばらばらに分散している人が、一人の人に次々に奴隷とされたとしても、たとえその人の数がどれ程多くとも、それは依然として主人と奴隷とであって、国民と元首とではないと私は思う。それは集合 aggrégation と言いたければ言ってもよいが、それは結合 association ではない。それには公共財産もなく、政治体 Corp politique もない。この人は、よし世界の人間の半ばを奴隷にしても依然として一個人に過ぎない。この人の利益は他人の利益と別のものであって、常に私利に過ぎぬ。この人が死んでしまえば、彼の帝国は、統一を失ってばらばらになったままでいる。それはまるで、樫の木が火に焼かれてしまい、腐朽して灰になるのと同様である。

グロチウスは人民は国王に自己を譲り渡すことができると言った。そこで、グロチウスによると、人民は、自己を国王に譲り渡す以前にも人民だということになる。自己を与えるということその事が既に人民的の行為であり、公衆の評決を前提としてるものである。そこで、人民が国王を選挙する行為を調べて見る前に、人民が人民となる行為を調べて見る方がよい。何となれば、この行為は、必然的に前者に先だつ行為であって、社会の真の基礎だからである。

実際、前もって何等の契約もないならば、全員一致で選挙が行われないかぎり、少数者が多数者の選挙に従う義務が何処にあるのか。しこうして、支配者を欲する百人の者が、これを欲しない十人の者のためにそれを可決する権利が何処にあるか。多数決の法則そのものが既に契約の産物であり、少なくも一回の全員一致を前提としているのである。