一四九 立憲国家がそれ自身の基礎の上に立ち、それ自身の性質に基づいて行動する時――即ち共同社会の保存のために行動する時には、そこには唯一つの最高権力しかなく、それが立法権である。これには他のものはすべて服従するし、またしなければならぬが、しかも立法権とはある目的のために行動する、信託を受けた権力にすぎず、立法部がそれにおかれた信託に反する行動をとることが分れば、国民には立法部を免職させたり、更迭させたりする最高権力が依然として許されているのである。即ちある目的を達成するために信託を以て委ねられた権力は、すべてその目的によって制限を受けるから、その目的が無視されたり、反対されたりすることが明かになれば、いつでも、その信託は当然喪失されねばならぬ。そして権力はそれを与えた人々の手に移され、彼等が自分達の安全、無事のために最適と思う処にそれを新たにおくことが許される。このようにして共同社会は絶えず最高権力を保持し、何人たるを問わず、たとえ彼等の立法者であっても、臣民の自由と私有財産とに相反するような計画を立て実行する程の愚行、不正を示せば、共同社会としてはかかる試みや企てから自己を救うことが出来るのである。即ち誰も、いかなる人間社会も、他人の絶対意志と専制支配に対して自己保存権を、従ってまた自己保存の手段を引渡すべき権力はないからして、まさにかかる奴隷状態に陥らしめんとする者があれば、彼等は当然自分達に手放す権力のない己の生命を常に保存し、その社会加入の目的でもあった自己保存という、この根本的な、神聖且つ不変の法則を侵害する者の危険から免れるべき権利を有するのである。かくてこの点において、共同社会にこそ常に最高権力が存在すると云い得よう。但し、それがなんらかの政体の支配下にあると見られる場合にはそうではない。何故なら、この国民の権力とは、政府が解散して始めて発生すべきものであるからである。
一五〇 政府が存続する限り、常にどんな場合にも、立法権が最高の権力である。というのは、他に対して法律を与え得るものは必ず他よりも優越せねばならぬからである。立法権とは社会の各部、各員に対して法律を制定し、人々の行動を規定し、それに背く者があれば法の執行権を認め得る権利を有してこそ、初めて社会の立法権と言い得るのである。従って立法権は必ず最高権でなければならず、社会の各員、各部の有するその他の権力はすべて立法権に由来し、それに従属するのである。
一五一 ある共同社会において、立法部が常には存在せず、行政権が、立法部にも与かるところのただ一人の人間に与えられる場合には、そのただ一人の人間がまた最高権を有すると言っても妥当であろう。それは彼が自分自身の中にすべての最高権力、即ち立法権を有するというのではなくて、彼が最高の執行権を有し、彼からすべての部下の官吏が彼等の幾多の従属権力のすべてか、少なくともその大部分を派生させているからである。また彼の同意がなければ法律を制定することも出来ぬから、立法部には彼に優越する者はなく、そしてまた彼が立法部の他の部分(訳註:即ち国会を指す)に服従せしめられることに同意するとは考えられず、この意味において最高権力を有すると言っても充分に正しいだろう。だが恭順忠誠の誓は彼に対して立てられるが、それは最高の立法者としての彼に対してではなくて、彼と他の人々との共同権力によって制定された法律の最高の執行者としての彼に対してである。即ち恭順とは法律に基づく服従にすぎぬから、彼が法律を破れば服従を要求する権利を失うし、それを主張し得るのも、法律の権力を附与せられた公人としてである。従って、彼は国家の映像や影、即ち代表者として、社会がその法律の中に表明した意志に基づいて行動せしめられる者と見做さるべきであり、かくて彼の意志、権力はすべて法律の意志、権力である。だが彼がこの代表者の地位と公人としての意志を放棄し、彼自身の個人的な意志に基づいて行動すれば、彼は堕落して権力も意志も持たぬ、そして、服従を要求する権利もない単なる一個人になってしまう。即ち社会の各員は社会の公の意志にのみ服従の義務を負うのである。
一五二 行政権を委ねられた者が立法部にも与かる人間でない場合、その行政権は明かに立法部に従属し、それに対して責任を持ち、随意に変更され、置換えられることも出来る。故にこれは何者にも従属しないでよいような最高行政権とは異なる。然し最高行政権を与えられた者が立法部にも与かる場合には、彼がただ自ら加わって同意を与える程度以上に、彼が従属し、責任を負うているような、優越した立法部をもっていないのである。従って、彼が立法部に対し、どの程度まで従属するかは、彼自身の任意に判断されることであって、恐らく彼の従属性はほんの僅かしかないと断定して確かだろう。さて国家における上記の三権以外の司法、行政上の代行的並びに従属的権力については述べる必要はあるまい。それらは個々の国家の様々な異なった習慣や憲法に応じて無限の変化を現わし、あまりにも数が増大するので、それ等全部に対してある特定の説明を加えることは不可能なのである。だからわれわれの当面の目的にとって必要な程度に、それらの権力に関して目を留めたらよかろう。即ちそれらはいずれも明確な勅許や委任によって託された代行権以外には何等の権威を持たず、それらはすべて国家内の何か他の権力に対して責任を持つのである。
一五三 立法部が常に存在するということは不必要である――否、それどころか不便でさえある――が、行政権の存在は絶対に必要である。何故なら、常に新しい法律が制定される必要はないが、制定された法律は常に執行される必要があるからである。立法部がその制定する法律の執行を他人の手に託してしまっても、なお当然理由があればその手から取返して、法律に反する悪政を罰し得る権利を有する。同じことはまた連合権に関しても言えるが、連合権と行政権は共に立法権の補助、代行的並びに従属的権力だからである。そして立法権は前述の如く、立憲国家においては最高権であり、また立法部はこの場合、数人の人々より成ると考えられる。蓋し、もしそれがただ一人の人間より成れば、立法部は常に存在せねばならず、従って最高主権者として、当然、立法権と共に最高行政権をも握るようになるだろう。立法部が集合して立法権を行使し得る時期は、彼等に本来備わっている憲法が指定するか、あるいは立法部の休会期間如何によって定められる。もしそのいずれによっても定められず、また、別に彼等を召集する方法が規定されていない時には、その時期は彼等の随意とされる。即ち最高権力は国民によって立法部に委ねられているのだから、それは常に彼等の手中にあり、立法権を行使し得る時期も彼等の随意である。もっとも、彼等に本来備わっている憲法によって、一定期間に制限されたり、彼等の最高権力の決議によって、ある時期まで休会したりすれば別である。この場合は、その時期が来れば彼等は当然集合して、再び行動を開始し得る権利を有する。
一五四 立法部あるいはその一部が国民によって前記の時期に対し選出された代議員より成り、そして、彼等はその任期が終れば普通の臣民の身分に戻り、新たに選挙されなければ立法部には参与し得ない場合には、この選挙権もまた国民によって行使されるが、それはかねて指定されたある一定の時期か、さもなければ立法部が召集される時である。後者の場合立法部を召集する権力は通常行政部におかれ、その時期に関しては次の二つの中、いずれかに限られる。――即ちその一は、本来制定されてある憲法が立法部の集合と行動に一定の期間をおくことを要求し、その時期が来れば、行政権は立法部が規定の形式に則して選挙され集合するように、ただ行政事務的に命令を発する場合である。さもなければ、新たに選挙を行って立法部を召集する時期を、行政者の思慮分別に一任する場合である。例えば、社会の難局に際し、緊急事態に応じて、旧法の修正、新法の制定が必要とされたり、あるいは国民の重荷となり、脅威となる不都合を匡正し、予防する必要が生じたりすれば、行政者によって適宜に召集されるのである。
一五五 ここで次の問に対して解答が求められるかも知れない。即ち本来の憲法の規定により、あるいは緊急事態が社会に発生したために、立法部の会合と行動とが必要とされている時に、これを妨害しようとして、国力を掌握する行政権がその力を利用したらどうなるだろうか? 私はこう言いたい。権限を与えられぬのに、行政部が信託に背いて国民に暴力を振うのは、国民との戦争状態を意味するからして、国民は当然自分達の立法部を、その権力を行使できる状態に復帰せしむべき権利があるのである。即ち国民が一定の時期に、あるいは必要に応じて立法権を行使させようという意図の下に、立法部を設立したのに、社会にとって真に必要なもの、そして国民の安全と保存とがひとえにかかっているものを得ようとするのをなんらかの暴力によって妨害されれば、国民も当然暴力を振ってそれを除去すべき権利がある。要するにあらゆる状態、条件の下で、理由なき暴力に対する真の救済策は暴力を以てこれに対抗することである。理由なき暴力を行使すれば、その行使者は侵略者として戦争状態に陥らしめられ、またそのように取扱われるべき責を負わされる。
一五六 立法部の召集及び解散を行い得る権力は行政部に委ねられているが、行政部は決してそれによって立法部に対する優越を認められるのではない。無常転変の人事に対し、一定不変の規則を以って律することが出来なかった場合、国民の安寧を目的として、その権力が行政部に委託されたのである。即ち政府の創設者にどんなに先見の明があっても、将来の出来事をすっかり探知することなどはあり得なかった。彼等が爾後の立法議会のために正しい選挙期日と会期とを前もって決定して、あらゆる国家の急務に適確に対処し得るようにすることなどは無理だった。そこでこの欠点を除くために、常任の、公共福祉の監視を己の任務とする人の思慮分別への信託が最善の対策として発見されたのである。別に是非という必要もないのに、立法部の会合が絶えず、ひっきりなしに開かれたり、会期が長期間にわたれば、国民の重荷とならざるを得ないだろう。更に、それが早晚、一層の危険を伴う不都合をもたらすべきは当然である。だが一方、事件が眼まぐるしい変転を示しては、応急の援助を必要とすることが往々にあるだろう。そんな時に、議会召集が遅延すれば社会に危機を招くおそれがある。更にまた、往々、立法部の仕事が余りにも尨大となると、会期に限りがあっては議員の仕事に短すぎるし、民衆は慎重に熟慮を重ねてこそ得ることの出来た利益を失うかもしれない。以上のような場合、立法部が集まり行動するのに一定の期間、期日が定められてあっては、それでは短すぎたり、長すぎたりする度に、共同社会が重大な危険に曝されることになろう。これを防止するには、常任の、国事に精通した人の思慮分別に議会召集の問題を信託して、その特権を社会の福祉のために行使してもらうより他に、どんな方法があり得るだろうか? 社会の福祉のために法律の執行権を信託された行政者以外に、同じような適任者があるだろうか? かくて立法部の召集及び会期の日時が本来の憲法によっては規定されなかったとすれば、それが行政部の手に委ねられたのは当然である。それは気の向き具合に左右されるような専制権力としてではなく、ただ公共の福祉のために、時々の出来事により、また事態の変化に応じて必要とされるままに、議会召集権を行使して貰うという信託を受けた者としてであった。立法部の集合する期日が定められてあるのと、君主が自由に立法部を召集し得るのと、あるいは両者の混合した場合と、いずれがそれに伴う不都合が最も少ないかを尋ねるのは当面の私の仕事ではない。ただ行政権には立法部のかかる集合を召集し、解散し得る特権があっても、決して、それによって立法部に優越するのではないということを示すのが私の任務である。
一五七 万物流転のこの世の中にあっては、何ものも同じ状態に停滞するものはない。かくて、国民も、富も、商業も、権力も、その状態を変化させる。繁栄する大都市が荒廃して、程なく人からも顧みられず、荒れ果てた僻遠の地となると、他方、人跡稀な場所が発展して、富と住民とに充ちた人口緻密な地方となる。だが物事は常に同じように変化するとは限らないし、慣習とか特権はその理由がなくなっても個人的な利害関心によってなお続けられるものである。立法部の一部が(訳註:即ち下院を指す)国民より選ばれた代議員達より成る統治国において、時の経過と共にこの代議員選出法が最初その設定の基礎となった理由から甚だしく乖離し、また不釣合になることがよくある。理由もなくなった慣習への追随がわれわれをどれ程愚の骨頂に導くかは、有名無実の都市の例を見れば、満足のゆく程理解出来るだろう。即ちそこに残るものは廃墟ばかりで、住宅といえば僅か一軒の羊小舎、住民といえばただ一人の羊飼いが辛うじて見出されるにすぎないのに、人口多く、財宝豊かな一州全体と同数の代議員を立法議会に派遣しているのである。他国人はこれを見て愕然として足を留め、是正手段の必要を認めぬ者はいないだろう。だが大抵の人はその手段を一つでも見出すことが困難だと思う。何故なら、立法部の設立こそが社会本源の、且つ最高の行動であり、社会内のあらゆる成文法に先行し、且つ全然国民に依存するものであるから、立法部より下位の権力にはこれを改変することは出来ないのである。このようにして、立法部が一度設立されれば、国民には、今まで述べて来たような統治国においては、支配当局が存続する限り、行動の自由はなく、ために、上記の不都合も是正不可能と考えられるのである。
一五八 「国民の福祉こそ最高の法律なり」とは確かに正当な根本的な法則であり、これに真面目に従う者は危険な誤りを犯すことはあるまい。従って立法部の召集の権利を有する行政部が代議員選出に関し慣習を廃して、真の比率を遵守し、各地の議員数を旧来の慣習によってではなく、正当な理由に基づいて調整するとすれば、どうであろうか? この際、国民はいかに一丸をなして結合していても、その部分部分は彼等が公共社会のために提供する援助に比例しての外に、代表権を要求し得ない。かくて行政部によって議員数を調整すれば、それは新たに立法部を設立したと言うよりは、古くからある真の立法部を復活して、時の移り変りにつれ、気付かぬうちに、不可避的に生じた秩序の乱れを矯正したと判断すべきである。蓋し、国民としては公正且つ平等に代議員を選ぶことが関心事であり、目的でもあるから、最もこれに近いものを与えてくれる人は疑もなく支配統治の友であり、またその建設者でもあり、共同社会の同意と承認を受けるに違いないのである。ある問題が予見出来ぬ、不確かな出来事に左右されるため、確固不変の法律を以ってしては安全な指導が不可能であるような場合に、公共の福祉を自己の裁量で図るために、君主の手に委ねられた権力をこそ王の特権と称する。明かに公共の福祉のために、また支配統治をその真の基礎に基づいて建設するためになされることはすべて、君主の正当な特権であり、永久にそうであろう。新たに自治都市を創設し、そうすることによって、新代議員をつくり得る権利は、早晚代議員選出法が定まり、以前は代表権を持たなかった土地が正当な代表権を獲得し、同じ理由から、以前にはその権利を持った土地がこれを失い、かかる特権を享有するにはあまりにも取るに足らぬ存在となるだろうとの推定を当然伴っている。支配権を侵害するのは、政治の闇取引または都市の没落が生ぜしめたわれわれの代議制度の不合理な現状の変革ではない。むしろ、国民に危害、圧迫を加え、国民中の一部一党を擁立して他とは差別待遇し、それ以外の人々には不公平な服従を課するような傾向こそ、まさにそれなのである。正当且つ恒久的な方策に基づいてやれば、社会、国民一般に利益となると認めざるを得ないことは、何事にせよ、実行された時に自らを正当化する。国民が彼等の共同社会の本源的な統治機構にふさわしい、正当にして、間違いなく公平な方策に基づいて、代議員を選ぶようになれば、そうすることが誰の許可、あるいは提案によるものにせよ、社会の意志であり、行為であることは常に疑問の余地がないのだ。