統治二論 後篇 社会政治の真の起源、限界及び目的に関する論文, ジョン・ロック

第十四章 君主の特権について


一五九 今日のすべての穏健な君主政体、あるいは他のすぐれた機構を有する政体における如く、立法権と行政権が別々の人の手中にある場合には、行政権を有する者の思慮分別に幾多の国務を一任することが、社会の福祉のために必要とされる。即ち立法者が共同社会に役立つことを万事予見し、一々法律を制定することによって、その対策を講じておくわけにはゆかぬから、法の執行者が自ら掌握する権力を行使して社会の福祉に寄与すべき権利が、自然の慣習法によって認められているのである。特に立法部が都合のよい時に召集されて国内法を備えるに至るまで、法律による指導が与えられていない場合、行政権の行使の認められることが多い。且つまた、世の中には法律を以ては到底、対策を講じ得ぬ要件が多いから、そういうことは当然、自ら行政権を掌握する者の思慮分別に一任されるべきであり、その際は、社会の福祉と利益の要求に応じて彼から命令が下されねばならぬ。更にまた、場合によっては、法律それ自体が行政権、というよりは寧ろこの自然と支配との根本理法――即ち社会の一員となり得る者はすべてあたう限り保存されねばならぬということ――に席を譲るべきが至当とされることがある。そのわけは、例えば罪のない人の住居は、隣の家が焼けている時でも、その火を喰止めるために、これを取りこわさないというように、法律の厳格、厳正なる遵守を要求すると、それが却って害になるような多くの事故が世に起り得るし、また法律は人を差別的に取扱わないから、却って報酬を受けて赦免されるに値するような行動をとって法律に触れる場合が往々あり得るものだ。それ故、支配者としても、多くの場合、法律の峻厳を緩和し、ある種類の犯罪者を赦免すべき権力を持つのが適当である。けだし、支配の目的が全国民を出来るだけ保存するにある以上、有罪者も、それが罪なき者に対して何等の損害とならぬことが分れば、赦してやるべきである。

一六〇 このように法律から指図されずに、時には法律にそむいてまで、公共の福祉のために思慮分別に従って行動出来る権力が君主の特権と呼ばれているのである。即ちある統治政体には、立法権が常時存在せず、また通常その人数が多すぎて、そのために法律の執行に必要な迅速な処置を講ずるには緩慢にすぎることが往々にある。また公共社会に関係する事故や危機を予見し、法律を制定することによって対策を講じておくことは無理である。更にあらゆる場合に際し、そしてそれに抵触するあらゆる人に対して、断乎たる峻厳さを以て臨んでも害にならぬような法律を制定することは不可能である。それ故、法律が命じていないことで、任意の選択によってどうにでも出来る多くのことをなし得る行動の自由が行政権に許されている次第である。

一六一 この権力は共同社会のために、またその支配当局に委ねられる信託とその政治目的とにふさわしく行使される限り、確実な君主の特権であり、異議を唱える者もいない。というのは、国民は特権がその予定された用途――即ち彼等の福祉――のために、彼等はまあ我慢ができると言った程度に行使されて、それに明かに反するというようなことがない限り、信託の線に沿うて支配されているかどうかの点を取上げて、微に入り細に入り吟味批判するようなことは滅多にないし、決してないとも言えるのである。だが行政権と国民との間に、君主の特権として要求されたものについて問題がひとたび生ずれば、それは斯様な特権の行使が国民の利害いずれの方向に向けられているかによって、容易に解決されるだろう。

一六二 諸政治社会の揺籃時代には、人の数の点では共同社会と家族とは大差なかったが、法律の数の点でも同様であっただろうと容易に考えられる。そして統治者が父親のように彼等の福祉のために気を配った時、その支配はほとんど全く特権の行使であった。少しばかり制定された法律で間に合ったし、その他は支配者の分別と配慮によって用が足りた。だが、誤解と阿諛あゆとにわざわいされた暗愚な君主が、この権力を公共の福祉ではなくて、自分自身の個人的な目的に利用するに至った時、国民は明確な法律を設け、自分達がこの特権から不利を蒙ったことに気付いた諸点において、君主権に限定を加えようと欲した。そして彼等やその先祖達が、この特権をただ正当にしか――即ち国民の福祉のためのみにしか――行使しなかったところの賢明な君主には極度の自由行動を認めて、彼の裁量に委ねていた諸問題の場合において、彼等は今や君主の特権に対して制限を加える宣言をなした。

一六三 故に、国民が君主の特権の一部を成文法によって限定させた時には、彼等はそれを侵害したことになるのだと言う者は、支配に対し謬見を抱くも甚だしいと言えよう。というのは、そうすることによって、国民は君主に属する権利を彼から剥奪してしまったことにはならないからである。彼等が自分達の福祉のために行使されるようにと期待してその君主あるいは先君の手中に漠然と委ねた権力も、他のことに利用されてしまっては、彼等が最初彼に持たせようと志したものではなくなったということを宣言したにすぎないのである。即ち、支配の目的は共同社会の福祉にあるのだから、どんな改革がその中で行われても、この目的に向けられたものである限り、誰に対する侵害とも言えない。支配に関与する誰もそれ以外の目的に走る権利を持つことは許されず、公共の福祉を害し、妨げることのみが侵害と言えるのである。これとは別の意見の者は、まるで君主が共同社会の福祉とは異なった別個の利害をもち、君主がつくられたのは共同社会の福祉のためではないように言うが、まさにこれこそ王政下に起り得る悪と混乱の禍根であり、源泉である。もし彼等の言う通りとすれば、君主の支配下にある国民は理性的動物の構成する社会として、彼等の相互福祉のために共同団体に加わったのではなく、その福祉を擁護し、増進するために、彼等の上に支配者を戴いたのでもないことになる。彼等は主人の支配下に屈する下等動物の群であって、主人自身の快楽または利益のために飼われ、働かされるものと見做されなければならぬだろう。もし、人間がこんな条件の下に社会に加わる程理性に欠けていて、犬畜生のようであるなら、君主の特権もさぞかし、誰かが希望しているように、国民に有害なことを行う専制権力であると言ってよかろう。

一六四 だが人間は理性的動物である限り、自由を許されている時に、自分自身を害するために己を他人に隷属させるようなことがあるとは考えられない(もっとも、善良、且つ賢明な支配者が居れば、恐らく、万事、その権力に厳密な限界を設けるようなことは、必要とも有効とも見做されないだろうが)。従って君主の特権というのも、法律が沈黙を守っている場合、また時には、法律の文字通りの意味には反することになっても、支配者が公共の福祉のために自己の自由裁量に従っていろいろな事を行うのを国民が許容し、成就後はそれに同意することに他ならない。即ち善良な君主は自分の手中に委ねられた信託を念頭におき、その国民の福祉を心懸けるので、特権――即ち善を行う権力――を持ちすぎるということはあり得ない。他方、暗愚、邪悪な君主は先祖達が法律の指図を受けずに行使した権力は、職権によって自分のものとなった特権であるから、それを公共以外の利益をはかり、促進するために行使しようと自分の勝手であると主張する。従って国民としては、その権力が自分達の福祉のために行使されていた間は、甘んじてそれを黙認したが、こうなっては自分達の権利を主張し、君主の権利を制限せざるを得ない。

一六五 従って英国史をひもとく者は、最大の特権が常に最も賢明且つ善良は君主の手中にあったことに気付くだろう。というのは、国民は名君の行動が全く公共の福祉の方に向けられるのを見て、何がその目的のために、法律の命令なくしてなされても異議をさしはさまなかった。また、何か人間的な弱点もしくは過失が(というのは、君主もまた人間にすぎず、われわれと同じように創造されたのであるから)、公的福祉から少し逸れた二三の小さい失政に現れても、名君の行為が主として、他ならぬ公共社会への配慮に向けられていたことは明かである。かくて国民は、これらの名君が法律を用いずに、また法律の文字通りの意味には背いて行動しても、常に彼等に満足すべき理由を見出したので、彼等が行うことには常に同意し、少しも不平をこぼさずに彼等の特権を拡大するがままにまかせておいた。君主があらゆる法律の基礎と目的――即ち公共の福祉――に一致した行動をとる以上、その法律を侵害するようなことはあるまいとした国民の判断は正しかったのである。

一六六 絶対君主制は神が自ら全宇宙を治めるのに用い給うものだからそれが最善の政体だ、と証言しようとする議論によって言えば、このような、神にさも似たる名君主達は、専制権力を要求する資格を実際多少有していた。その故は、彼等は神の叡智と徳とに与かっているからである。「善良なる君主の御代こそ常に国民の自由にとって危険極まるものであった」という説はこのことに基づいている。なんとなれば、善良なる君主の後継者達が、全く別の考えを抱いて政治を行いながら、先君の行動を前例として取上げ、それを自分達の特権の基準としようとした時に、即ち先君によってただ、国民の福祉の為にのみなされたことが、後の暴君にとっては、気が向けばいつでも国民を傷つける為になし得る権利となったかのように思われた時に、しばしば争いが起され、社会の混乱を招いた。そしてその結果、ようやく国民は彼等の本来の権利を回復して、君主の特権でないことに間違のあるはずのないところのものを君主の特権に非ずと宣言出来るようになった。思うに、公共の福祉という限界を踏み越えなかった君主の特権に何等限界を設けようとしなかったのは極めてもっともなことではあるが、いやしくも、社会の一員たる者に、国民を傷つける権利が許される筈はないのである。要するに「君主の特権とは法規に左右されずに公共の福祉に貢献すべき権力に他ならぬ」。

一六七 英国議会の召集権は、その正確な日時、場所、期間に関して決定権を有するが、これは確かに国王の特権である。だがこれも、その時々の突発事件や、種々の機会の求めに応じて、国家の福祉のために行使してくれねば困るという信託を伴っているのである。即ち議会の会合のため、常にどこが最適地か、いつが最善の時期であるかを予見するのは不可能だから、これらの決定権は、公共の福祉に最も役立ち、議会の目的に最も適うようにと、行政権に委ねられたのである。

一六八 この君主の特権の問題においても「この権力が正しく行使される時に、誰が裁き人となるべきか?」という以前の疑問が提出されるだろう。私はそれに対して、常に存在して、以上の如き特権を有する行政権と、召集に関しては行政者の意志に依存するところの立法部との間には、現世の裁き人はあり得ないと答えよう。それは、万一、行政部あるいは立法部が権力を掌中に握ってしまってから、国民の奴隷化、破滅化を企てたり、それに着手したりすれば、立法部と国民との中間には裁き人は誰も存在し得ぬために、国民としては神に訴えるより他にはこれに対する救済策を講ずることが出来ないからである。現世には裁き人がいない他のすべての場合がこれと同じなのである。けだし、こんなことを企てる支配者は国民から委ねられていない権力を行使するのであり、国民も誰か人が自分達に対して害になるような支配を振うことには同意するとは考えられないのだから、かかる支配者の行動には当然の権利は認められない。そして国民が団体として、あるいは一個人として自らの権力を剥奪されたり、当然の権利なくして行使される権力下に隷属された場合、彼等は現世には訴え所がないのだから、彼等がこのような圧制は重大な問題で不問に附すべきでないと判断する時にはいつでも、常に自由に神に訴えてよいのである。それ故たとえ国民はその社会の憲法によっては、この場合に裁き人となって、判決を下したり有効な宣告を与え得るような優越権力をもつことは出来ないとはいえ、彼等は現世には訴え所がないながらも、神に訴えるだけの正当な理由があるか否かの根本的な決定権を自分のものとして保留しているのである。それは全人類に属する権利であり、人々の定めたあらゆる成文法に先行し優越する一つの理法に基づいて教えられたものである。そして、人は神に訴えるべき正当な理由をもつかどうかの判断を下す権利を手放すことは出来ない。なんとなれば、人は他人に隷属して、生殺与奪の権利を委ねることは出来ないし、神も自然も人が自己を放棄して、自己保存を怠ることを許さないからである。更に、人は自分の生命を奪うことが出来ないのだから、まして、他人にそれを奪うべき権力を与えることなど不可能である。そして、人はこの判断を下す権利が絶えず社会混乱の根拠になっているのだなどと考えてはいけない。何故なら、不都合が大きくなって、大衆がこれを感知し、うんざりして、それを是正させる必要ありと認めてこそ初めてこの権利がその効力を現わすからである。しかし、行政権即ち賢明なる君主は、何を好んでこの危うきものに近づいて手を噛まれる必要があろうか? これこそ、あらゆるものの中で、君主にとって最も避けるべき必要があり、また最も危険なものである。