四 政治権力を正しく理解し、その起源が何であるかを知るためには、各人が自然の状態の下にはどんな地位にあるかを考えねばならぬ。思うにそれは全く自由に己の行動を律し、適当と思うままに財産及び己の身柄を処し、他人の鼻息をうかがったり、その意志に依存したりしない状態であろう。
それはまた平等の状態であり、あらゆる権力、権限は互恵的であって、他より多く持つ者は一人もいない。なんとなれば同じ種類、等級の生物は無差別に生れ出でて、自然からの利益をすべてひとしく享有し、同じ能力を行使する故に、また彼等は相互間においても平等である筈だ。そして万人の君であり、主である神がその意志をはっきりと表明し給い、一を他の上におき、それに明白な約束に基づいて支配、主権の確実な権利を与え給うた、とするのでない限り、従属とか服従があってはならぬことは何よりも明かなことである。
五 この人間自然の姿における平等をあの賢明なフッカー(訳註:リチャード・フッカー、一五五四?―一六〇〇、英国の聖職者)は本来明白な、疑いもない事実と見做している。故に彼は人間の間の相愛の義務の基礎をそこにおき、それに基づいて人間が相互に負っている諸々の務めを定め、更に公正と仁愛という偉大な原理をそこから引出している。彼の言葉に曰く、――
「人々は皆相似た自然な欲望、動機を持つことから、彼等は自分自身のみならず、他人をもひとしく愛すべき義務があることを自ら知るに至った。蓋し平等であるものは必然的に皆同一の尺度を持たねばならぬからである。もし私があらゆる人の手から善きものを、誰人もが心に欲する限りの善きものさえを、受取りたくて仕方がなかったなら、私自身も他人の同様な欲望を満足させてあげるように注意しないで、どうしてこういう私の欲望が少しでも満足させられると期待出来ようか? この同様な欲望は他の弱い人々においても、同一の人性を備えている限り、存することは勿論である。またこの欲望に反するものを他人に受取らせることは、私がそのような目にあった場合に、私自身を悲しませるのと同じ程度に、あらゆる点において必ず他人を悲しませることになる。故に、もし私が害悪を加えれば私も害悪を蒙るものと期待せねばならぬ。何故なら、私が他人に示す以上に、他人が私に愛を示さねばならぬ理由はないからである。従って、人間自然の姿においては平等である他人から出来るだけ愛してもらいたかったら彼等にも全く同様の愛を与えねばならぬという義務が当然課せられる。われわれ自身及びわれわれ自身と同じである他人との間のこの平等の関係から、自然の理法がいかなる種々の法則、規範を人生指導のために作り出したかを、知らぬ者は一人もいない」(『教会政治』第一巻)。
六 然しこれは自由の状態であっても、放縦の状態ではない。その状態の下に人は自らの身体あるいは所有物を自由に処分してよいのだが、自分自身あるいは自らの所有するいかなる生物さえも自由に破壊することは、それをそのままで保持するよりも何かもっと立派な用途に必要とされるのでない限り、許されるものではない。自然の状態にはそれを支配する自然の理法があり、それによって各人は拘束される。そして理性こそ自然の理法だが、それにただ相談をかけるにすぎない人間も自分達がすべて平等であり、独立しているのだから、他人の生命、健康、自由、財産を侵害すべきではないということを理性から教わるのである。蓋し人間は皆全能にして限りなく賢明なる造物主の作品である。最高の主の命により、その命を帯びて地上に送られた召使である。また人間は神の私有財産であり、人間相互のほしいままにではなく、神の欲し給う限りの間、存続せしめられる作品である。そして各人同様の権力を有し、皆で自然という一つの共有財産に与っているのだから、下等動物が人間のために創られたと同じくわれわれも相互の用途のために創られたかのように、相互破壊を正当化する従属関係をわれわれの間に考えることは出来ない。人間は皆自己を保存すべきであり、故意にその地位を棄ててはならないのと同じ理由から、自己保存が生存競争裡に登場しない限り、出来るだけ他人を保存せねばならないし、犯罪者を罰する場合を除いて、他人の生命、あるいは生命の保存を助長すべきもの、即ち、自由、健康、手足、財産を奪ったり損じたりすることがあってはならない。
七 そして人間が皆他人の権利を侵害したり相互に苦痛を与えることを禁じ、全人類の平和と保存を欲する自然の理法が遵守されるため、人間自然の状態の下にあっては、自然の理法の実行は各人の手に委ねられる。それによって各人はその理法の侵害を防止する程度に、その違反者を罰する権利が与えられる。蓋し自然の理法は、この世の人々に関する他のあらゆる諸法則と同じく、自然の状態の下にあってその理法を実行する力を有し、それによって罪のない者を保存し犯罪者を抑圧し得る人がいなければ有名無実のものになってしまうであろう。そして、自然の状態の下にあって、自分に害を与えた他人を罰することが誰か一人に許されれば、誰でもそうしてよいだろう。というのは、完全に平等な状態の下にあっては、当然一人の他に対する優越とか権限はないのだから、その理法の実行に当って、誰かがしてよいことは万人が必ず行う権利を持たなければならないのである。
八 かくして自然の状態の下にあっては、一人の人間が他の人間に対して権力を持つに至り得るが、それは決して、犯罪者を捕えた時に己の意志が激情化したり、限りない脱線的な発動を見ることによって、彼に対して用いられるような絶対的な気ままな権力ではない。それはただ冷静な理性と良心の命に従い、その罪に応じて、これを賠償せしめ、抑圧するに足る程度に、犯罪者に報復するための権力である。思うに人が他人を合法的に害し得ること、即ち、われわれのいわゆる刑罰の存在はこの賠償と抑圧との二つの理由によってこそ初めて可能なのである。犯罪者が自然の理法を侵害する場合、彼は、神が人間相互の安全のためにその行動の基準として定め給うた理性と常識的正義以外に他の規則を設け、それによって生きると公言することになるからこそ、人類にとって危険なものになるのである。かくして人間が侵害と暴力から護られるために作られた羈絆が彼によって弱められ、絶たれてしまえば、それは全人類及び自然の理法によって備えられた彼等の平和と安全に対する侵害となる。各人が人類一般を保存するために与えられた権利に基づいて有害なものを抑圧し、必要とあらば破壊して構わないし、またその理法を犯した者にそうしたことを後悔させるような害悪を与えることが許されるのはこのためである。そうすることによって彼や、また彼の例から他の者が、そのような悪行を思い止まるようにさせることが出来る。そして各人が犯罪者を罰し、自然の理法の実行者となる権利を持つに至るのはこの場合であり、この根拠に基づいてである。
九 然し勿論これはある人々には非常に聞き慣れぬ学説と思われるであろう。だがその人達はそれを咎める前に、君主あるいは国家が国内で犯された犯罪の廉で外国人を死刑に処したり、罰したり出来るのはいかなる権利によるものであるか、私にはっきりと教えてもらいたい。その国の法律は立法部の表明する意志から生じた国法としての裁可によっても、その効力が外国人にまでは及ばないことは確かである。それは外国人にはものを言わないし、言うとしても彼はそれに耳を傾ける必要はない。その国の臣民に対してその法律の発動を許す立法権も外国人に対してはどうすることも出来ないのである。即ちイギリス、フランス、もしくは、オランダにおいて立法の大権を有する者も、アメリカ土人に対しては、世界の他の人々と同様になんらの権威を有しないのである。従って各人が自然の理法によってそれに反する罪を、その犯件が処罰を要求していると冷静に判断するままに、罰する力がないとするなら、どうして一国の為政者達に外国人を罰することが出来るのか、私には分らない。彼に関して為政者達は、人各々が自然の状態において他人に対して所有し得る権力以上には、なんらの権利をも持つことは出来ないのであるから。
一〇 法律を破り、理性の正しい支配から逸れるようなことをすれば、人はそれだけ堕落し、自ら人間性の原則から脱して有害物となったと公言するに至るのであるが、そういう罪の他に不法行為が行われて、誰か他の人がその罪のために損害を蒙ることがよくある。その場合に何か損害を蒙った人は(他人とも共有の処罰権の他に)それを加えた人から賠償を要求する特別の権利を有する。そしてそれを正当と見做す第三者は誰でも不法を蒙った人に加わって、犯罪者から受けた危害を償うだけのものを彼が取るのを助けて構わない。
一一 この二つの異なった権利(一は同様な犯罪を抑圧し禁止するために罪を罰する権利であり、その処罰権は各人にある。他は賠償を取る権利であり、それは不法を蒙った人々にのみ属する)の結果として為政者は、為政者であることによって、一般の処罰権を己の手中におさめ、しばしば公共の福祉にとって法律の施行が不必要とされる時には、己の権能によって犯罪の処罰を免除することが出来ても、ある個人が蒙った損害に関して当然払わるべき償いをも免除することは出来ない。損害を蒙った当人こそ、己の名においてそれを要求する権利をもち、彼のみが償いを免除し得るのである。即ち損害を蒙った人には自己保存権により、犯罪者の所有物や奉仕を己のものとする力が与えられるが、それは全人類を保存し、またそのためになんでも自分に出来る合理的なことを為し得るという権利によって、各人に、二度と再び犯されないために罪を罰する力が認められるのと同じである。このようにして、自然の状態の下にあっては、人は誰でも殺人犯人を殺すことが出来るが、その目的の一は同様な犯罪(いかなる賠償もそれを償うことは出来ない)を他の者が繰返すのを、そんなことをすればあらゆる人から罰せられるのだという実例を示して思い止まらせることである。更にまた、神が人類に与え給うた理性及び一般の規則、基準を否定し、ある人間に対して不当な暴行と殺害を加えることによって、全人類に宣戦を布告した、従って、獅子や虎のように、人間がそれとは安全な社交を結び得ない野獣の一として殺されても構わない、そういう凶悪な犯罪者の攻撃から世人を安全に護ろうとするのが第二の目的である。かくして、「およそ人の血を流す者は人其血を流さん」(訳註:『創世記』第九章六節)との偉大なる自然の理法がこれに基づいて定められた。カインは誰でもかかる犯罪者を殺す権利があると固く信じていたので、弟を殺した後で、「およそわれに遇う者われを殺さん」(『創世記』第四章一三節)と叫んでいるが、このことはそれ程はっきりと全人類の胸の中に刻み込まれていたのである。
一二 同じ理由から人は自然の状態の下において比較的軽度の違法をも処罰し得る。では死刑にしてもよいか? 多分そういう質問がなされることと思うが、それに対する私の解答は次の如くである。あらゆる犯罪に対する処罰は犯罪者には、そうすることが割の合わぬ取引だと充分に思い込ませて後悔の理由を与え、彼以外の者を恐怖せしめてそのような罪を犯すことが出来ないようにさせるという、その程度のきびしさに止むべきものである。即ち自然の状態の下で人の犯し得るあらゆる犯罪は、自然の状態の下においてもまた平等に、且つ国家におけると同程度に罰せられるべきである。ここで自然の理法の詳細や、その刑罰の手段にまで筆を及ぼすことは当面の目的外のことだが、確かにそのような理法があり、それは理性動物としてその理法を研究する者にとっては、国家の成文法と同じく分り易い、平明なものである。それどころか、恐らく理法を理解する方が、言葉で表現された(訳註:国家成文法におけるの意)、矛盾し、隠された利害を追求する、人間の思いつきや込入ったからくりを理解するよりも容易であるだけ、一層平明であろう。蓋し諸国の国内法の大部分はまさにそうであって、それは自然の理法に基づいて設定される限りにおいてのみ正当であり、それによって調節され、説明されるべきものなのである。
一三 この聞き慣れない学説――即ち自然の状態の下にあっては各人が自然の理法の執行力を有するという学説に対しては、人々が彼等自身に関する訴訟事件の裁判官になることは不合理であり、彼等は自分が可愛いために彼等自身及びその友人を身贔屓するだろうという異議が当然唱えられることと思う。また他方、人々はその邪しまな性質、激情、復讐心に駆られて、他人を罰するのに極端に走り、かくしてその結果、混乱と無秩序が生じてしまう。だからこそ神は人々の不公平と暴力とを抑制するために支配を設け給うたのではないかと。私は次のことを容易に認める。即ち自分の兄弟に害悪を加える程に邪しまな人間に、自ら正しくその非を責めることが出来そうもないことは容易に考えられるから、そういう人間が自分自身に関する訴訟事件の裁判官になるとすれば、その際の自然の状態の不都合さは容易ならぬものがあろう。かくして社会政治とはこの不都合を是正するにふさわしい救済策なのである。だが私はこの異議を唱える人々に、専制君主も人間にすぎぬということを思い出してもらいたい。そして、もしも人間が自分自身に関する訴訟事件の裁判官になることから必然的に生ずる弊害に対して、政治がその救済策となり、従って自然の状態にいつまでも我慢しているべきでないとするならば、それはいかなる種類の政治であろうか? また多数の人民を支配する一人の人間が彼自身の訴訟事件の裁判官となる自由を有し、彼の全臣民に対して勝手気ままを行って、彼の意志を遂行する役人共に異議を申立てて彼等を制圧する自由を、全然誰にも与えない有様の政治がどれ程自然の状態に優るものであるのか、私は是非知りたいものだ。しかも彼が理性、誤謬、激情のいずれに導かれるにせよ、臣下は彼のなすところにはいかなることにも服従せねばならぬではないか。自然の状態にあっては、誰も他人の不正な意志に服従する義務はないし、裁判する者が自分自身あるいは他人の訴訟事件を過って裁判すれば、彼は他の人々に対してそのことの責任を負うのであるから、この方が遥かにまさっている。
一四 一体どこで人間が自然の状態の下にいるか、またかつて存在したか、という疑問が強い異議として、しばしば尋ねられる。それに対する当面の解答は次の如くで充分であろう。即ち世界中の「独立」政府の全君主あるいは支配者が皆一種の自然の状態の下にあるからには、世界には明かに今までもまたこれからも同じ自然の状態の下にある人々が多数いない筈はない。私は今、独立共同社会の全統治者という名を用いたが、その際彼等が他と同盟を結んでいるか否かは問題にしないのである。即ち人間の間の自然の状態を終らせるものはどんな契約でもよいのではなく、一社会に入り、一政治統一体を形成することを相互に同意する契約でなければならぬからである。それ以外の約束や契約を人間が互いに結んでも、なお自然の状態にとどまることがある。例えばギァルシラッソー・ド・ラ・ヴェガによって彼の『ペルー国史』に記されたところの、無人島における二人の人間の間の、あるいはアメリカの森林における一人のスイス人と一人のアメリカ土人の間の、交易等のための約束や取引は彼等に対して拘束力を有する。しかし、彼等は相互関係においては、完全に一種の自然の状態にある。そのわけは、約束を守る信義は社会の成員としてではなく、ただ人間としての彼等の義務となるからである。
一五 自然の状態の下における人間などは存在しなかったと言う人には、私はただ賢明なフッカーの典拠(『教会政治』第一巻一〇節)を反証として引用するだけでは充分と思わない。そこで彼は言っている。「今まで述べて来た法則は」――即ち自然の理法は――「人が未だなんら団体を設けず、彼等の間で何をなすべきか、何をしてはいけないかについて厳粛な契約などを未だ決して結ばないといえども、まさに彼等が人間であることによって絶対的な拘束力を有する。しかもわれわれは独力ではわれわれの自然が欲求するような生活、即ち人間たるの威厳にふさわしい生活を送るに足るだけの品物を充分に備えることが出来ず、従って全く独力で孤独な生活を送るようなわれわれに伴う欠点や不足を埋合わせることが出来ない限り、われわれは当然他人との社会的交友を求めざるを得なくなる。人間がまず最初に政治社会として互いに結合したのはこのためである」しかし、私は更に次のことを断言したい。人間は自然の状態ではあの孤立の有様であり、遂に彼等自身の同意によって互いにある政治社会の一員となるまでは、その状態を続けるのである。私は本論に引続いてこのことを必ず明かにしてみせよう。