統治二論 後篇 社会政治の真の起源、限界及び目的に関する論文, ジョン・ロック

第三章 戦争状態について


一六 戦争状態とは敵意と破壊との状態である。故にまず人が言葉あるいは行動によって、他人の生命を奪おうとする意図、それも一時の激情に駆られたり、短気にはやまった結果ではなく、冷静に落着いて決心した意図を宣言すれば、彼と相手との間に戦争状態が生ずる。かくして相手の力としのぎを削るその生命は、相手によって、また相手を護ろうとして彼の側に加担し、その戦を擁護する者によって、いつ奪われるかも知れぬ危険に曝されることになる。この際に私は、私を破滅させるぞと脅かす者を殺す権利を持つのが理に適っており、正当なことである。何故ならば、自然の根本理法によって人は出来るだけ保存されるべきであるが、全部を保存することが出来ない時は、罪のない者が優先的に安全を保証されねばならぬからである。そして人は己に戦を挑んだり、己の存在に敵意を現わした者を殺して構わない。それは人が狼や獅子を殺して構わないのと同じ理由による。というのは、彼等は理性に基づく慣習法の羈絆きはんに拘束されず、暴力、腕力にのみ支配されるのであるから、一種の猛獣として扱ってよいのである。即ちもし人がその掌中に陥ると必ず殺されてしまうような、危険極まる、有害な動物として扱ってよいのである。

一七 かくして、他人を己の絶対権力の支配下におこうとする者は、そうすることによって彼を己との戦争状態に陥らしめることになる。それは彼の生命を奪おうとする企みを宣言したものと見做さるべきだからである。即ち同意も得ずに私を己の掌中に陥れようとする者は、一度そう出来たとみれば、勝手気ままに私を取扱い、その場の出来心で私を殺しもするだろうと断定して正しいと思う。何故ならば、私を己の絶対権力の支配下におこうとする者は、力ずくで私の自由に反する状態――即ち奴隷状態にしてしまおうとするのでない限り、そんなことをしたいと思わないであろうから。このような暴力を免れることが私の保存に関する唯一の保証であり、私は理性の命ずるままに、私の保存のために築かれた防壁とも言うべき自由を奪おうとする者を、それを脅かす敵と見做す。それ故に私を奴隷化しようと企てる者は、そうすることによって私との戦争状態に身を投ずることになる。自然の状態の下において、そこにいる誰かの所有する自由を奪おうとする者は、その自由がそれ以外のあらゆるものの基礎である以上は、他のものをもすべて奪おうと目論でいると当然考えられなければならぬ。それは社会の状態の下において、その社会あるいは国家の人々の所有する自由を奪おうとする者が、彼等から他のものをもすべて奪おうと目論でいると考えられ、かくて戦争状態にあると見做されなければならぬのと同じである。

一八 このようにして、泥棒がある男から金とか、あるいは何か好きなものを奪うために暴力を使用して彼を制圧しようとしただけで、いささかも彼を傷つけないし、生命を奪おうとする企みを言明しなくても、彼がその泥棒を殺すことは合法化される。何故ならば、私の自由を奪おうとする者が私を制圧する権利も持たずに暴力を用いたなら、その暴力が何であるにせよ、私を己の意のままに屈伏させた時に、その他のものをすべて奪うようなことを彼がしないと、どうして想像出来るだろうか? だから私が彼を私との戦争状態に身を投じた者と見做すこと――即ちもし私に出来れば彼を殺すことは合法的である。というのは、戦争状態を招き、その場合の攻撃者となる者は誰でも当然そういう危険に身を曝すべきであるからである。

一九 そしてここでわれわれは自然の状態と戦争の状態とを明かに区別し得る。両者を混同した者もいたが、それらは平和、好意、相互扶助及び保存の状態と、不和、悪意、暴力、相互破壊の状態の二つが互いに遥か隔たったものであるのと同様、全く別のものなのである。人々が彼等の間に裁判権を持つところの共通の優越者を現世に認めずに、理性の命に従って生きてゆく状態、それがまさしく自然の状態である。これに対して、他人に暴力を用いたり、そういう目論みを公言する者があっても、現世にその救済を訴えるべき共通の優越者の存在しない状態、それが戦争の状態である。そして人が社会の中に存在し、同胞臣民であっても、彼が攻撃者である限り、彼との戦争状態の権利を相手方に許されるのは、このように訴え所がない場合である。かくして、泥棒が私の持っているものをすべて盗んでしまっても、法に訴える以外には彼を害することは出来ない筈なのに、僅かに馬か上衣を奪おうとして私を襲った時に、彼を殺すことが出来る。それは私を保存するために作られた法律が、一度失くしたら二度と取り返しようのない私の生命を目前の暴力から救うために、間に入ってものを言うことが出来ない時は、私には自己防衛と戦争状態の権利が認められ、自由に攻撃者を殺すことが出来るからである。何故なら攻撃者は、取り返しのつかない害悪が加えられるかも知れぬような事件の救済のために、われわれ共通の裁判官や法律の決定に訴える余裕を与えてはくれないのである。権威を持った共通の裁判官のいない所では、人は自然の状態に陥る。他方、正当の権利なしに、人の身体を暴力で支配する者があれば、共通の裁判官がいようが、いまいが、いずれにおいても、人は戦争の状態に身を投ずることになるのである。

二〇 しかし、現行の暴力が終ってしまうと、同一社会にあり、両者等しく法の公平なる決定に服従しなければならぬ二人の間には、戦争状態も終りを告げる。そのわけは、そうなれば過去の害悪に対し訴えて救済を求め、将来の危害を防止する道が開かれているからである。しかし、自然の状態における如く、成文法及び権威ある訴え所である裁判官の欠如のために、全然これを訴えることが出来ない場合は、一度始まった戦争状態は、罪なき被攻撃者がいつでも相手を殺してもよい権利を保留したままに、依然として続き、遂に攻撃者が平和を提言し、彼が既に加えた不正、害悪を報償し、相手方の将来の安全を保証し得るような条件で和解を欲するに至って初めて終るのである。否、法律及び公けに制定された裁判官に訴える道は開かれていても、明かに法を曲げたり、一部の人々やある党派の暴行や加害を擁護し不問に附せんとして露骨に法を歪めたりして、救済が拒まれる場合には、やはり、戦争状態が依然としてそこに存在し続けると想像せざるを得ない。なんとなれば、たとえ正義の裁きを下すべく任命された役人の手によってなされたものであっても、そして、また、本来法の目的はその庇護下にある万人に公平無私にそれを適用して、罪なき民を保護し救済するにあるのに、その法の名や仮面もしくは諸相を振りかざして、いかに迷彩を施しても、彼等の暴行や害悪は依然として暴行であり害悪である。法の公平無私の適用が誠実に行われない場合はいつでも、被害者に対して戦争行為がしかけられたのである。従って、これらの被害者は地上においては救済を求むべき訴え所を全然もたぬから、かような場合、彼等にはただ天の神という唯一の訴え所が残されてあるのみである。

二一 争議者間の黒白を決すべき権威なきところでは、いささかの紛争でも戦争状態に終りやすく、そして、この神以外に訴え所のない戦争状態を避けたいのが、人々が社会を組織し自然の状態を脱しようとする一つの大なる理由である。それに訴えて救済が得られるところの一つの権威、即ち地上の一の権力の存在するところでは、戦争状態の継続は除かれ、争議はその権力によって裁決される。エフタとアンモンの人々との間の黒白を裁くべき、かような裁判所、即ち地上の優越支配権が存在していたならば、彼等両者は戦争状態にはならなかったであろう。然るに、事実は、エフタはあのように天の神に訴えねばならなかった。即ち、「願わくば審判をなし給うエホバ、今日、イスラエルの人々とアンモンの人々との間を裁き給え」と(『士師記』第一一章二七節)。エフタはかように訴願し彼の訴えに信頼しながら兵馬を戦場に進める。それ故、「誰が裁き人たるべきか?」という疑問が起るところの、かような争議においては、誰がその争議を裁決すべきかを意味するものではない。誰でもエフタが『士師記』においてわれわれに語る言葉「審判さばきをなし給うエホバ裁き給え」を知っている。地上に裁き人の居ない時、訴えは天の神に向けられる。故に、あの「誰が裁き人たるべきか?」の疑問は、他人が敢て私との戦争状態に身を投じたか否か、そして、そこで私はエフタがした如く、天に訴えてよいかどうかを、誰が裁くべきかを意味するものではない。それは、私自身のみが私自身の良心において、裁き得るのである――最後の審判の日に、全人類の最高裁判官に対して、私はお答えするのだから。