統治二論 後篇 社会政治の真の起源、限界及び目的に関する論文, ジョン・ロック

第四章 奴隷状態について


二二 人が自然の状態において持つ自由とは、地上のあらゆる優越勢力に屈伏したり、人間の意志とか立法権に支配されることなく、ただ自然の理法をのみ己の規範として持つことである。又人が社会において持つ自由とは、国民の同意によって設立される立法権以外のものには支配されることなく、その立法権が国民からの信託に従って制定すべきもの以外には、いかなる意志の支配にも、法の拘束にも屈しないことである。従って自由とは、ロバート卿が「各人がその好むままに行い、自分勝手に生き、いかなる法則にも拘束されない自由な状態」(『アリストートルについての覚書』五五)であるとわれわれに説明しているところのものとは異なるのである。統治される国民の自由とは、恒久的な法律を生活の規範となし得る状態を言い、その法律はその社会の各人に共通する物であって、そこに設けられた立法権によって制定される。即ちその法律が命ずる範囲外においては常に自分自身の意志に従い、他人の移り気な、不確かな、はっきりしない、気ままな意志に屈伏しない自由の状態である。

二三 このように絶対専制権力から自由であることは、人間を保存するために極めて必要であり、またそのことと密接に結び付いている。故に人間はもしもこの自由を手放せば、己の保存と生命とを共に失わざるを得ない。即ち自分で自分の生命を自由に処分することの出来ぬ人間が、契約を結んだり自分が同意することによって、己を他人の奴隷にしたり、好きな時に己の生命を奪い得るような、他人の絶対専制権力に身を委ねたりすることは許されないからである。自分の生命に関して他人は自分以上に支配力を持たないのであるから、自分で自分の生命を奪うことの出来ない者が、どうしてその生命を他人の権力に委ねることが出来ようか? 成程、過って何か死に値するような行動をとったために、己の生命を保存すべき権利を喪失してしまえば、その権利を没収した者は、彼を自分の掌中に握ると、殺すのを延ばし、自分の用事のために利用するかも知れない。しかもそれは彼に害を加えることにはならないのである。何故ならば、彼は自分の生命の貴さよりも、奴隷であることの苦しさの方が大きければ、いつでも主人の意志に逆らって、欲するままに自らを死に致すことが出来るからである。

二四 これこそ完全なる奴隷状態であって、「合法的な征服者と捕虜の間に継続される戦争状態」に他ならぬ。何故ならば、両者の間に契約が結ばれ、一方が一つの有限的権力を所有し、他方が服従すべきことを互いに承認し合えば、その契約の有効期間中は戦争と奴隷の状態が停止するからである。前述の如く人は自分自身所有しておらぬもの――即ち自分の生命に対する支配力を合意によって他人に手渡すことは出来ないからである。

実を申せばユダヤ人その他の国民の間では人身の売買が行われたことがある。しかしそれは明かにただ賤役のためであって、奴隷として使用するためではなかった。というのは、売られた者は決して専制的な、気ままな、暴虐な、権力に左右されたのではなくて、主人はいつでも彼を殺すということは出来ず、ある時には奉公を免じて、釈放してやらなければならなかったからである。即ちこのような召使の主人は彼の生命を気ままに支配出来るどころか、勝手に傷つけることも出来ず、眼や歯を失った時、彼は釈放されたのである(訳註「人もしその僕の一の目、あるいは婢の一の目を撃てこれをつぶさば、その目のためにこれを放つべし。またもしその僕の一つの歯を打ちかかば、その歯のためにこれを放つべし」『出エジプト記』第二一章二六節)