統治二論 後篇 社会政治の真の起源、限界及び目的に関する論文, ジョン・ロック

第七章 政治社会即ち市民社会について


七七 神は人間を孤独な生活を営むことはよくないと自ら判断ができる生き物に創り給うた。従って神は人間に社会生活を営ませるため、彼が是非ともその必要を感じ、そういう生活を便利と思い、それに趣味を感じ、やむにやまれずして社会を作るようになし給うたのであるが、同時に神は人間が社会生活を続け、それを享有するにふさわしいように、彼に悟性と言語を与え給うた。最初の社会は夫と妻の間に生じ、それが両親と子供との間の社会の端緒となった。更に程なく主人と召使との間の社会がそれに加えられるに至った。そしてこれらの社会はすべて寄り集って一家族を形成し得たし、通常、実際にそうなったのである。そこでは家族の主人が男であれ、女であれ、家族特有のある種の支配を行ったにも拘らず、これらの夫妻、親子、主僕間の社会はその一つ一つを見ても、また全部一緒に見ても、「政治社会」には達していなかった。そのことはこれらの社会の各々の目的、羈絆きはん、限界を考えてみれば分るだろう。

七八 夫婦間の社会は男女間の自由契約によって作られ、それは主にその主要目的たる生殖に必要な相互の肉体の交わりと権利とに存するのであるが、それと共にそこからは相互支持と扶助、利害の共通もまた得られる。それらは彼等の関心と愛情を一致させるのに必要であるばかりか、彼等が共同で生む子孫にとっても必要なのである。即ちその子孫には、自分で万事やってゆけるまで、彼等に養育され、扶養されるべき権利があるからである。

七九 けだし男女両性間の結合の目的は単に生殖ばかりでなく、種の存続にもあるので、この両性間の結合は生殖の後に、子供達を養育し守り立てて行くために必要である限り、続くべきである。子供達は独力で生計を立て、万事自らやってゆけるようになるまでは、彼等を生んだ人によって扶養されねばならない。限りなく賢明な造物主が手ずからの作品に対して設けたこの規則には、われわれが見る通り下等な生物も着実に従っているのである。草を食んで生きている哺乳動物においては、両性間の結合は生殖行為が終れば後は続かない。それは子が草を食んで生きてゆけるまで母獣の乳頭で充分に養い得るので、雄は生ませるだけで雌や子のことは構ってやらないし、それらが生きてゆくことのためには何も貢献出来ないからである。だが猛獣の場合には結合はもっと長く続く。それは母獣が自分で捕えた餌食だけでは、母獣自身の生命を保ち、且つ数多くの子を養うことは出来ないため(それは草を食んで生きてゆくよりもずっと骨の折れる、しかも危険な生き方である)、雄の援助が彼等の共有する家族の扶養のために必要だからである。その家族は独力で餌食を捕え得るようになるまでは、雌雄の親が共同して世話してやらなければ生きてゆけないのである。すべての鳥類にも同じことが見られる(ただし、ある家禽類は沢山餌を与えられるため、雄鳥は雛鳥に餌をやったり世話をしてやる仕事を免除される。従ってこの種の鳥類は除外される)。その子供達は巣の中で餌を必要とするので、雄鳥、雌鳥は子供達がその羽を使えて、独力で生きてゆけるようになるまでは引続きつがいのままでいる。

八〇 人類の男女両性が他の生物よりも長く結合の状態に結ばれる主な理由は、それが唯一の理由でないにせよ、次のことにあると思う――即ち先に生れた子が暮しのために両親の援助に依存する状態を脱して自分で生計を立てることが出来るようになり、当然両親から受取るべき助力をすべて得てしまうよりもずっと早く、女性は子を孕み得るし、事実上更にもう一度身ごもるのが普通であり、また新しい子を生む。そのために、父親は既に彼が儲けた子供らの世話を見てやらなければならぬから、他の生物よりも長い間同じ婦人と夫婦社会を続ける義務を与えられるのである。他の生物の場合には、その子供達は親の生殖期が再び廻って来る前に独力でやってゆけるようになるので、夫婦の絆は自ら絶たれる。彼等は婚姻の神ハイメンから、例年廻って来る季節になって新しい配偶を選ぶように再び召し出されるまでは自由である。この点でわれわれは偉大なる造物主の知恵に感嘆せざるを得ない。即ち神は人間に当面の必要を充たすだけでなく、将来のために貯えるという能力をも与え給うたので、夫と妻の社会は他の生物の間の雌雄よりも長く続く必要が生じた。それは夫婦の共通の生みの子のために扶養を用意し、物資を貯えるように、彼等の勤勉を励まし、利害を更によく一致させるためである。このことは、自由恋愛的雑婚もしくは夫婦関係の容易な頻々ひんぴんたる解消によって大に妨害を蒙るであろう。

八一 人間はこれらの羈絆きはんに縛られているので、人間における夫婦の絆は他の種の動物におけるよりも堅く、長続きするのではあるが、しかし、人は当然次の質問を提出してよかろう。即ち、この夫婦の契約によって生殖と教育が保証され、相続のことにも配慮が払われるのであるが、何故これは他の自由契約のように同意によって、ある一定の時期に、ある条件の下に終らしむることが出来ないのか? そのものの性質から言っても、またその目的から言っても、それが常に終身の契約であるべき必要はないではないか? 即ち、このような結婚の契約はすべて恒久的なるべしと規定する何等の成文法にも拘束さていない、自然の状態の人々に関してはそんな必要がないではないかと言うのである。

八二 夫と妻はただ一つの共通の利害を持つのではあるが、それぞれ異なった悟性を有するからには、往々二人が異なった意志を持ったこともまた避けられぬだろう。従って最後的決定(即ち支配)がどこかに置かれねばならぬとすれば、その支配は男性の方が女性よりも有能であり、強い者であるとして彼の手に落ちる。しかしこの支配は夫婦の共通の利害や、共有財産になっているものにのみ効力を発するものであるから、妻としては契約によって特に彼女が当然持つべき権利を与えられたものを完全に、間違いなく所有することを許され、妻が夫の生命を自由に処分出来ぬのと同じく、夫も妻の生命に対して支配権を振うことは出来ない。かくて夫の権力は専制君主の権力とは大違いであり、妻は多くの場合、自然の権利または彼等の契約によって許されれば、自由に夫と離縁出来る。この際その契約は自然の状態において彼等自身によって作られたものにせよ、彼等の住んでいる国の習慣か法律に従うものにせよ、いずれでもよいのである。また子供達はこのような離縁の際には、斯様な契約の決定に従って、母親あるいは父親の養育すべきものとなる。

八三 結婚の目的はすべて自然の状態においてのみならず、政治支配下にあっても達成しなければならぬが、次の如き目的――即ち夫婦が一緒にいる間の生殖及び相互支持と扶助――のために、当然必要とされる夫婦いずれの権利、権力も為政者によって縮小されることはない。為政者はただ夫婦間に、上記の目的について争論が生じた場合に解決を与えるだけである。もしそうではなくて、仮に自然の状態において専制主権と生殺与奪の権が夫の手中に属し、それが夫婦間の社会に必要であるとすれば、夫にそのような専制権力が許されていない国ではどこでも結婚はあり得なかった害である。だが結婚の諸目的達成のためには、夫がそのような権力を所有する必要はなく、そんなものは全く結婚にとって用がなかったから、夫婦関係はかかる権力を夫に与えはしなかった。夫婦関係はそんな権力なくとも維持され、その目的を達成し得た。否、物資の共有、その支配権、相互扶助及び生活の維持、その他夫婦関係に属する諸事、即ち生殖と、子供達を独力の生計を立てるまで養育することとに伴うなんでも、夫婦を結びつける契約によって変更もし、調整も出来たのである。ある一つの社会関係の成立の目的にとって不必要なものは、その社会関係にも用はない。

八四 両親と子供達との間の社会、及び彼等一人一人に属するそれぞれ別個の権利、権力については前章において充分に論じたので、ここではそれについて何も言う必要はあるまい。またそれが政治社会とは遥かに異なったものであることは明白な事実だと思う。

八五 主人と召使という名前は歴史と共に始まった程の古いものであるが、今日では昔とは遥かに異なった状態にある二人に対して与えられる。即ち自由人はある一定の期間、自分が受取るべき賃金と交換に奉仕を行うことを引受け、その奉仕を他人に売ることによって、自分自身を彼の召使とする。そしてこのことによって彼は普通、主人の家族の一員とされ、その家族のおきまりの躾に服従させられるが、そのことによって主人は彼に対する一時的な権力を与えられるにすぎず、それは彼等の間の契約に含まれる内容以上の大きな権力ではない。しかしそれとは別の種類の召使が存在し、われわれは奴隷という特別の名で呼ぶが、彼等は正当な戦争中に捕えられて捕虜となった者で、自然の権利により彼等の主人の絶対的支配権と専制権力に服従せしめられる。これらの人々は私が言う通り、彼等の生命と、それに伴って自由をも奪われ、更に財産も失ったため奴隷状態にあり、なんら財産を所有する権力を持たぬため、そういう状態にあっては政治社会の成員を構成するとは考えられない。けだし政治社会の主要目的は財産の保存にあるのだから。

八六 故に一家の主人が以上の妻、子供、召使、奴隷というすべての従属関係を家族内の支配の下に統一せしめた状態を考えてみよう。それはその序列、職分、及び数の上で小国家を彷彿させるとしても、その組織、権力、目的の点ではそれと大いに異なる。あるいは、もしそれが君主政体であり、家長がそこにおける専制君主であると見做さねばならぬのなら、専制君主政体というものは極めて弱められた不充分な権力しか持たぬことになろう。前述の如く家庭の主人が家庭内の幾多の人々に対して持つ権力は時間的にも、空間的にも、専制君主のとは非常に異なった、それとは別の制限を附せられたものであるから。けだし奴隷を除けば(しかも彼の家族の中に奴隷がいようが、いまいが、彼の家族にも、家長としての彼の権力にも変りはないのである)、彼は家族の誰に対しても、生死を決する立法権などは持たず、その権力は主人が女である時のものと変りはないのである。そして家族の中の各個人に対して非常に制限された権力しか持たぬ者は、全家族に対しても絶対権力を持つことなど出来ないのは確かである。だが家族その他の人間社会がいずれも、本来政治社会であるものとはどんなに異なるかは、政治社会それ自体が存する場合を考えてみれば分るだろう。

八七 既に示した如く、人間は生れながらにして、他のどんな人間とも、世界中のいかに多くの人々とも平等に、完全な自由を所有し、自然の理法の権利、特権をことごとく、何にも抑制されずに享有し得る資格を持っている。従って人間は自然の状態にあっては、ただ自分の所有物――即ち生命、自由、財産――を他人からの侵害や攻撃に対して保護するばかりでなく、他人がその理法を犯した場合に、その罪にとって当然であると信ずるままに裁判し、処罰すること、もし自分の意見として犯行の凶悪性が死刑を必要とする程の犯罪であると信ずるならば、そうすることも出来るのである。しかし政治社会というものは、そこに私有財産の保護権及び、そのための社会全員の犯罪の処罰権がなければ存在し得ぬし、存続する筈もないのである。故に自然の状態において許されるこの権力を各員が放棄して、共同社会の設けた法律に対して保護を訴えることを拒まれない限り常に自分の権力をそこに譲渡する場合に、またそんな場合にのみ、政治社会が存在するのである。従ってこのようにして各員個々の私的な裁判権はすべて排除されて、共同社会が仲裁者となり、それがあらゆる一派に対し公平な一定の常備の規則と、それを施行するために共同社会から権限を授かった人々とを用いて、その社会に属する人々の間に権利問題に関して起り得る不和をことごとく解決してくれる。また社会に対して誰かその一員が犯した罪を、法律の定めた刑罰によって罰してくれる。それ故に政治社会に誰が仲間入りしているか、いないかを見分けるのは容易である。連合して一団体を作り、訴えるべき共同の法律と裁判権を定め、彼等の間の争論を解決し犯人を罰すべき権威をそれに与える人々は相互に政治社会に属するのである。他方、勿論地上でのことだが、このような共同的に訴える機関を持たない者はなお自然の状態の下にあり、そこで各人が自分で裁判官となり、刑罰執行人となるのは、他にそれをなす者が存しないからである。これこそ前に示した如く、完全な自然の状態である。

八八 従って、このようにして、国家はその社会に属する人々の間で犯された、当然罰せられるべきだと考えられる幾多の犯罪に対して、どのような刑罰を加えるべきかを定める権力を獲得し(それが立法権である)、また誰か社会の一員に対してその社会に属さぬ者から加えられた危害を罰する権力を持つに至る(それが戦争及び平和の権力である)。そして、これはすべて、出来得る限りその社会全員の私有財産を保存するための権力である。しかし社会の一員となった者は皆、自然の理法に反する罪を自分自身の個人的な判断の告発に従って罰する権力を放棄したわけだが、しかも、彼は為政者に訴え得るようなあらゆる事件に際して、罪の裁判権を立法部へ投げ出してしまえば、それと同時に、国家の判決を施行するために必要である時に、いつでも彼の力を使用する権利を国家に与えてしまったことになる。そのわけは、立法部が彼自身もしくは彼の代表者によって作られているからには、国家の裁きは実に彼自身の裁きであるからである。そして、ここにわれわれは政治社会の立法及び行政権の起源を見るのであるが、それは常備法律によって、国内で犯された犯罪がどの程度まで罰せられるべきかを裁断し、また当面の実情に基づく、その時々の判断によって、国外からの危害に対してどの程度までの擁護が行われるべきかを裁断し、更にこの両者の場合に、必要とあれば、全員の力を行使し得る権力である。

八九 従って多数の人々が結合して、一社会を構成し、その結果各人が自然の理法を実行すべき権力を放棄し、それを公共の手に譲渡する場合には、またその場合にのみ、政治社会即ち市民社会が存在する。そしてこれは自然の状態にある多数の人々が社会関係を結び、一最高支配権の下に一国家を形成する一国民となる場合に、あるいはさもなければ、既に存在する支配に加わり、それと合同する場合に常に形成される。即ち人はこれによって社会あるいは社会の立法部と言っても全く同じことだが、それに対して社会の公共の福祉の必要に応じて自分に代って法律を制定する権利を許すことになる。この権利が施行されるためには自分自身の援助を(自分が下した命令に与える義務がある如くに)提供すべき義務がある。人はこのようにして、すべての争論を解決し国家の一員たる者に加えられる危害を救済すべき権限を有する現世の裁判官を設けることによって、自然の状態を脱し、国家状態へ入るのである。その裁判官とは立法部あるいはそれによって任命された行政者、為政者のいいである。従って多数の人々がどんなに互いに提携しあっても、訴え所として、このような断乎たる権威を振う機関を持たなければ、彼等はなお自然の状態にとどまっているのである。

九〇 絶対君主政体はある人々からはこの世における唯一の支配形態であると見做されているが、実は政治社会と矛盾し、社会政治の形態では到底あり得ないことが、このことから明かとなる。即ち政治社会の目的は、自然の状態において各人が自分自身の事件の裁判官となる結果、当然生ずる不便を避け除くために、世に知れ渡った権威を定め、その社会に属する者に危害が加えられたり、彼等の間に争論が生ずる場合の訴え所とし、またそれにその社会の全員が従うべきだとするにある(註)。訴え所としての、また自分達の間での不和の解決者としての、このような権威の存在せぬ所の人々はなお自然の状態にとどまっているのである。絶対君主はその支配下に服する人々に関して言えば、まさにその通りである。

 「全社会の公権はその社会に含まれる各成員の上位にある。その権力の主な用途はそれに服するすべての者に法則を与えるにある。自然の理法あるいは神の掟がその反対を命ずることを必然的に強く訴え迫る道理が示されぬ限り、われわれはこのような場合、その法則に従わねばならぬ」(フッカー、『教会政治』第一巻一六節)

九一 何故ならば絶対君主は全権力、即ち立法権、行政権を共に自分だけの手中におさめていると考えられるので、公正に、差別なく、権威を以て解決してくれるような裁判官を見出すことも出来ず、また彼によって、あるいは彼の命令によって蒙るような損害や不便を救済し、除去してくれると期待出来るような訴え所は何人にも解放されていないからである。従って例えばロシア皇帝とか、トルコ皇帝とか、何でも諸君の好きな人でよいのだが、どんな称号を持つ者にせよ、そういう人は一切を己の支配下においているので、人類の他の者と共に居るだけ、それだけ自然の状態の下にもあるのである。けだし二人の人間が居る場合、彼等の間の権利の争いを解決するために常備法則がなく、また現世に訴えるべき共通の裁判官もいなければ、彼等はなお自然の状態にとどまり、その不便をことごとく忍ばねばならぬ。但し絶対君主の臣民というよりはむしろ奴隷に対しては、単なる自然の状態とは違った悲しむべき点が存在する。即ち普通、自然の状態の下にあっては、自由に自分の権利はこれだと判断し、自分のあらん限りの権力を振ってそれを維持出来るのであるが、その私有財産が絶対君主の意志や命令のままに侵害されれば、社会に属する人が当然持つべき害の訴え所がないばかりか、自分の権利はこれだと判断し、それを擁護すべき自由をも拒否されてしまう。これではまるで理性的動物という人間共通の状態から堕落したようなものである。そして無拘束の自然の状態の下にありながら、しかも部下の追従にいい気になって堕落し、権力で身を固めているような者から蒙る気遣いがあるとされる、あらゆる不幸、不便に身を曝すことになる。

 「このようなすべての相互間の悲嘆、危害、不正――即ち自然の状態における人間に伴うような不幸――を除去するためには何かある種の公共支配を定め、それに服従することによって、人間の間の和解と一致に到達するように努め、その結果、人々が誰に統治、支配の権限を許容しても、その支配者によってそれ以外の人々の平和、静穏、及び幸福な状態が獲得出来るようにする以外には道がなかった。人々は暴力と危害が加えられたら、自分達で防御者になれるということを常に知っていた。また、人々がどんなにして彼等自身の物品を求めるにしても、それを入手することによって他人に害を加えるようだったら、そんなことは許されるべきではなく、皆であらゆる有効な手段を講じてそれを喰止めねばならぬことを知っていた。最後に彼等は、各人が自分自身及び自分がごく愛している者のために依怙贔屓になる限り、誰も敢て自分自身で自分の権利を裁決しその決定に応じて権利を維持し続けようとしてよい道理はないことを知っていた。またそれ故に、彼等が一致賛成したある適任者に自分達すべてが命令されることに、相共に同意を与えなければ(元来この同意なくしては、ある一人が自分を他人に対して支配者だとか裁判官だとか思い上るべき筈がないのである)、不和と悶着は絶え間がないだろうということを知っていた」(フッカー『教会政治』第一巻一〇章)

九二 けだし絶対権力が人間の血を浄化するとか、人性の卑劣さを矯正するとか考える者は、ただどの時代の歴史でもよいから読みさえすれば、自分の考えの正反対が事実だと納得がゆくだろう。アメリカの森の中にいたら傲慢不遜で有害だっただろうと思われるような人は、多分王位に即いても大してよくならないだろう。そのような人が王位に即けば、おそらく学問や宗教は彼が臣下に対して行うことをすべて正当化する道具として発見されようし、彼の政治に敢て異議を唱えるような者はすべて武力を以てたちまち沈黙させられてしまうだろう。即ち絶対君主政治が人民にどんな保護を与えるか、その君主をどんな種類の国父とするか、またこの種の支配が完成する場合、それが政治社会にどの程度の福祉と安寧をもたらし得るか、ということは最近のセイロン島の物語の内容(訳註:十七世紀前半、ポルトガルのセイロン島における勢力をオランダ人が攻撃した頃の、原住民のキャンディ王朝による圧制を指す)を見ようとする者には容易に明かにされるだろう。

九三 なるほど、絶対君主政体においても世界の他の政体の場合と同じく、その臣民は法律に訴えることが出来、臣民相互の間に起る争論を解決し、暴力を抑圧し得る裁判官も存在する。この法律と裁判官は誰も必要と思い、万一それを取除こうとする者があれば、それは社会人類に対する公然の敵と見做されるに値すると信じている。だが本当にこれが人類社会に対する愛情、即ち、われわれが皆相互に抱く博愛の情から発するものであるかどうかは、当然疑ってよかろう。というのは、これは自分の権力、利益、偉大さを愛する者は誰でもなし得るし、また、当然しなければならぬことに過ぎない。例えば、人は自分の快楽と利益のためにあくせく働いてくれる動物が互いに傷つけあったり殺しあったりしないように大切にするだろうし、また当然そうしなければならないのと同じである。即ちその面倒を見てやるのは主人が彼等を愛するからではなく、自分を愛するからであり、彼等が自分に利益をもたらすからなのである。

何故ならばこのような支配状態では、この絶対支配者の暴力、圧迫に対していかなる安全策、防衛策があるかと問われたら、どうだろう? 否、こんな質問そのものが以ての外のことと許されないであろう。ただ身の安全をのみ追求する者は死に値すると、彼等は即座に答えるだろう。臣民同士の間では彼等相互の平和と安全を計るために、法令、法律、裁判官が存在しなければならぬことは彼等も認める。だが支配者はと言えば、支配者は絶対権力を持つべき者であり、斯様な社会施設などはすべて超越していると。支配者にはもっと大きな害悪を行うべき権力があるのだから、ある害悪を行う時に、それは正当であると言うのである。われわれが害悪や危害からいかにしたら身を守ることが出来るかなどと問えば、最も強力な手を振ってそれらを行っている支配者側は、すぐそれを謀反叛乱の声だと見做すのである。これでは、人々が自然の状態を放棄して社会関係を結んだ時、一人を除いて他はことごとく諸々の法則から拘束を蒙り、ただその一人のみがなお自然の状態における自由を保持し、しかも、その自由を権力によって増強し、罪の不問によって放縦なものとしても、人々はそれに同意したかの如き取扱い方である。これは、人間というものは臭猫polecatや狐がするかも知れない悪戯は避けるように注意しておきながら、獅子に貪り食われても平気どころか、それを安全と心得る程に愚かなものだと、人間を馬鹿にした考え方である。

九四 だが絶対君主追従者がどんなに人民の悟性をあざむこうとしても、人の感情を禁ずることは出来ない。だから、もし誰か一人の人間が、その地位が何であれ、彼等の属している市民社会の圏外に立ち、彼等がその人間から危害を蒙っても現世には訴え所がないことに気付けば、彼等は自然の状態にあることを曝露したその人に対しては、自分達も自然の状態にあると思いがちである。そして政治社会設立の第一の目的であり、そのためにのみ自分達が政治社会関係を結んだ唯一の目的でもあった、安全と保証を出来るだけ早く得るようにと、彼等は心懸けるものだ。即ち、恐らく最初は(更にその詳細に関しては本論の以下の部分で説明するつもりだが)ある一人の立派な、卓越した男が他の人々の間に傑出してくると、己の善行と美徳とに対して、一種の自然権威に対するような敬意を人々から払わしめるようになった。その結果、最高支配権は人々の間の不和を仲裁する権利と共に暗黙裡の同意によって彼の手中に委ねられたが、その際に彼等は彼の公正と賢明を確信しただけで、それ以外にはなんら注意が払われなかった。しかしながら時日の経過と共に、最初の時代の不注意な、見通しのきかぬお人好しによって始められた服従の習慣には権威がつき、更にある人々が主張するように、神聖という箔がついて来ると、支配権の相続者にも別の型の人間が現われた。そこで、人々は彼等の私有財産が、その時代になると実際に、安全でないことが分って来た(註一)(支配とは他ならぬ私有財産の保存をその目的としているにも拘らず)。ために彼等は、元老院にせよ、議会にせよ、名称は好きなものでよいのだが、人々の集合団体の中に立法部が設けられるまでは、安心感を抱けず、自分達自身が政治社会に属しているとは思えなかった。この立法部の設立によって、あらゆる各個人は自分達がその成員として定め設けたところの諸法律に対して、他のどんな卑賤な人達とも平等に服するようになった。そして一度法律が定められれば、誰も自分自身の権威によってその法律の力を避けるようなことは許されず、また何か自己の優越を口実としてその適用の免除を主張し、それによって自分自身のあるいは自分の部下の失策を許すことも出来なかった。政治社会にあっては誰もその法律を免れることは出来ない。即ちもし誰かある者が勝手なことをして構わないし、彼の行う害悪に対する救済と安全を計るために現世では訴え所もないとするならば、その人は全く未だ自然の状態にとどまり、その政治社会の一部でも一員でもあり得ないのではなかろうかと尋ねたい。ただし誰かが、自然の状態と政治社会とが同一だなどという、今までにどんな無政府主義者でさえ断定したためしのないことを言うなら話は別であるが(註二)。

註一「最初にある種の支配が一度定められると、その時は支配様式としては、それ以上のものは思いつかないので、何もかも人は皆支配者の賢明と分別とにまかせてしまい、遂に経験を重ねた結果この支配があらゆる側に対し非常に不都合であることに気付いた。それは丁度以前には救済薬として案出したものが、当然癒すべきであった傷口を却って拡げるにすぎぬものとなってしまったのに似ている。彼等は一人の人の意志に従って生きることが万人の不幸の原因となったことに気付いたのである。このために彼等は止むを得ず法律を定め、それによって万人が己の義務を前もって知り、それを犯すとどんな刑罰を受けるかが分り得るようにせざるを得なかった」(フッカー「教会政治」第一巻第一〇節)

註二「民法は全国家の法令であるからして、該国家の各部分いずれをも支配する」(フッカー、同上)