一、拙訳『戦争と平和』はかつて十年前、新潮社から出版を計画したが、やむを得ぬ事情のため前半で訳筆を置いて、後半は他の訳者によって完成される事となった。その後わたしは春秋社刊行の『トルストイ全集』(大正八年版)のために後半をも訳了したが、同全集は予約出版の方法に拠ったため、期日に制限せられて充分推敲する余裕がなく、遺憾の点が多かったが、今回右両書肆の諒解を得て、旧訳全部を廃棄し、この改訂訳を定本として世に問う事が出来たのを欣ぶ。本書を出版するに当たり、わたしは訳文の彫琢、語句の解釈等に出来得る限り注意を払って、訳の欠点を補う事に努力した。無論、完璧は望むべくもないが、とにかく以前のものと比較して、より多く原作に接近した事は断言し得る思う。偉大なる原著者に対して、多少良心の安らかなるを感じる次第である。
一、原文には非常に多くのフランス語が挿入されているが、印刷の関係その他の考量のため、旧訳においてはその全部を割愛して、単なる訳文に留めるべく余儀なくされた。今度もそれと同様の事情に制肘されながら、しかし原作の含む気分をせめて暗示なりとする必要を感じたので、程度において極めて些々たるものに過ぎないが、欧文の組み込みに努めた事を断って置く。
一、なお本書は人名の発音においても旧訳と異なる点が大分ある。例えば旧訳のバルコンスキイ、ラストフが、新訳においてボルコンスキイ、ロストフとなっているが如き類である。これはロシア語の母音Оが、力点を有せざる場合Аの如く発音せられるために、旧訳においては実際の発音に拠ったのであるが、一般諸外国では綴字のままに移されているので、固有名詞の唱え方が人によって区々となり、結局混乱を惹起する恐れがあるために、改訳に際し文字通りの発音に拠ることとした。疑惑のないように一言弁明する。
一、本訳の台本としたビリュコフ編『トルストイ全集』には、『戦争と平和』第一巻の前身『一八〇五年』の中から、その後、著者自身に抹殺削除された部分が集成されて付録となっているが、書冊が余り浩澣なものとなるので、極めて興味に富んだ資料であり読物であるにも拘わらず、遺憾ながら訳載を見合わせることとした。
一九二五年三月 訳者