『戦争と平和』が量においても質においても、はたまた取材の範囲においても、世界文学中ホメーロスの『イーリアス』と比肩するに足る一大叙事詩である事は、今更異議をさし狭む余地もない既定の事実である。この作は一八〇五年から一八二〇年に亘る、ロシア歴史上重要な時期を再現したもので、ボロジノの戦い、ナポレオンのモスクワ占領、モスクワの炎上、フランス軍の退却など、ロシア国民に取って忘れる事の出来ない記憶すべき大事件が、極めて詳細に描写されているのみならず、アレクサンドル一世、ナポレオンの二皇帝の外、幾多の史上の人物が物語の舞台面に現れて、読者の眼前に活躍するなど、スケールの雄大なことは真に匹儔を見出す事が出来ないほどである。
トルストイがこの創作に着手したのは、彼がモスクワの医師ベルスの娘ソフィア・アンドレーヴナと結婚して、自家の領地ヤースナヤ・ボリャーナに新家庭を作り、上もない幸福と、輝かしい希望と、明るい平静な心境を楽しんでいた一八六四年、即ち文豪が三十六歳の時であった。静かな田園の風光、若く美しい賢明貞淑な妻、充ち足りた生活、長い放浪と摸索の後に到達した心の安定、こうした条件の下に置かれた彼が、何か大きな労作に筆を染めたいと言う要求を感じたのは、極めて当然な事である。
しかし『戦争と平和』の大作は偶然の機会から生まれ出たものである。外でもない、最初トルストイは、自家の親戚トルベツコーイ公爵などが連座した「十二月党」の革命運動に興味を感じて、この運動を主題とした長篇小説『十二月党』に着手したが、この事件に関する種々な文献や歴史を調べているうちに、彼の興味はいつしかその革命家達の過去に遡って、そこにより多くの芸術的感興を発見し、遂に最初の計画を放擲して、ナポレオン戦争時代を取り扱った長篇歴史小説の創作に移った。彼は最初この物語を『一八〇五年』と題して一八六五年から六六年へ掛けて、雑誌『露国報知』へ連載したが、その後次第に感興が増して、次へ次へと事件を押し進めて行った。こうして一八六九年いよいよ彼の労作は終りを告げ、題も『戦争と平和』と改められた訳である。
しかしもしこの作が単なる歴史小説として終始したならば、もしトルストイがこの国家の歴史の中に自分の家庭の歴史を編み込まなかったならば、この作品の魅力は大部分失われてしまったかも知れない。実際『戦争と平和』には戦争や皇帝や将軍や外交官などが、他の所謂歴史小説などに見る事の出来ない、透徹した鋭利な観察と、現実的な人間味溢れた描写に依ってまざまざと生かされているとは言え、作の重心を形作っているのはこれらの歴史的要素ではなくて、ボルコンスキイ公爵及びロストフ伯爵両家の私生活なのである。それどころかトルストイは、歴史上の英雄傑士はむしろ名声や栄誉の空しい傀儡であり、虚偽な外面的欲望や目的に支配されている哀れむべき不具者として、読者の眼前に照らし出している。この点がホメーロスの叙事詩などに表われた、絶対的英雄崇拝と正反対の極に立つものと言える。
現在においてこの「否定的叙事詩」(これは卓越せる文学批評家兼社会学者たる故オフシャニコ・クリコーフスキイの下した定義である)の興味の中心を成しているボルコンスキイ公爵家及びロストフ伯爵家の二家族が、文豪トルストイを生み出した二家族、即ちヴォルコンスキー公爵家及びトルストイ伯爵家に外ならぬ事は、洽く世に知れ渡った事である。我が家の歴史に深甚な興味を抱いた作者は、種々な文書や周囲の人々から蒐集した事を、歴史の背景の上に再現しようと決心したのである。
『戦争と平和』に描かれた諸人物と、実在のモデルとを比較して見るのも、あながち無用の業でなかろうと思う。文豪の父ニコライ・イリッチは、トルストイの小説中のニコライ・イリッチ・ロストフと同様、軽騎兵の将校として一八一二年の戦役に従い、平和締結後、退職した人で、単純で快活な熱情的の好士官であった。青年時代、歌留多の勝負に耽溺して家産を傾けたという事実も作中に描写されている通りだし、自家の財政を回復するために、年の若くない醜いヴォルコンスキイ公爵令嬢と結婚した事も、小説のニコライ・ロストフと全然符節を合わしている。
文豪の母方の祖父ヴォルコンスキイ公は、即ち作中のボルコンスキイ老公爵である。彼はエカチェリーナ女帝の寵臣として、飛ぶ鳥も落とす程の権勢を恣にしていたが、一朝事にふれて失脚したため、父祖の領地ヤースナヤ・ポリャーナに隠棲して、たった一人きりの愛娘マリヤ(作中の公爵令と同名)と共に晩年を送った。但し小説に描かれたような、戦乱の渦中における伝奇的な死に方はしなかった。彼は非常に峻厳な、時として残忍なくらいな性格の所有者であったが、その冷静な頭脳と合理的な領地の支配ぶりは、周囲の人々や農民の間に深い尊敬を呼び醒ました。しかし全体において生活の基調をなしていたものは、自分の家柄は古く且つ尊いものであって、自分及び自分の一族は特に優れた恵まれたる人種である、と言う牢乎として抜くべからざる根強い意識であった。この貴族的意識は程度の相違こそあれ、『戦争と平和』の主立った人物全体に認められる特徴であって、そのために前に名前を挙げたクリコーフスキイは、この小説をロシア国民歴史の重要なる一時代を如実に再現したものとして、「貴族地主的叙事詩」なる別名を与えているくらいである。
トルストイの母は彼が二つの年に亡くなった上に、どういうものか写真や肖像画が一枚も残らなかったので、彼は全然母を記憶していなかったのである。しかし彼は人々から伝え聞いた思い出に依って、美しい精神的な母の面影を心に描いていた。その一部を彼は既に処女作『幼年時代』においても表現したが、『戦争と平和』のマリヤ令嬢において始めて完全な肖像が出来上がった訳である。トルストイの母マリヤは、作中の公爵令嬢と同じく醜い容貌の持ち主であったが、その当時の時世としては優れた教育を授かっていて、四つの外国語を自由に駆使し、ピアノに堪能で芸術的天禀をも備えていた。その外に彼女は非凡な話術の名人で、四方山の世間話に自分の創り出した架空談など取り交ぜて、いつまでも聴者を倦ましめない珍しい才能を持っていた。トルストイ自身も、母が父よりも精神的に卓越していた事を認めている。この点も『戦争と平和』の描写と一致している訳である。トルストイの優れた資性才能が、母方のヴォルコンスキイ家の血を引いている事は疑いを入れない。
トルストイの母はヴォルコンスキイ公爵家の一人娘で兄弟がなかったが、彼は芸術家的直感によって、マリヤ令嬢に兄を持たせる事を、叙事詩の構成上必要と感じたので、アンドレイ公爵なる人物を創造して、ピエール・ベズーホフと共に、小説中の最も重要な位置を与えたのである。この二人の主人公は作者トルストイの性格の相反せる二つの面を具象化したもので、ほとんど全部トルストイの創造と言ってもいいくらいであるが、アンドレイ公爵の方には部分的に実在の人物との類似点を発見する事が出来る。外でもない、アンドレイがアウステリッツの戦場で負傷して捕虜となり、ナポレオンに親しく面接する機会を得たと言う一条は、ヴォルコンスキイ公爵家の親戚の一人、ニコライ・グリゴーリエヴィッチの閲歴にヒントを得たらしく想像せられる。なお生の権化とも言うべき驚嘆に価する近代文学の一典型たる女主人公ナターシャのモデルとなったのは、トルストイ夫人の妹タチャーナであるが、作者自身の証言に依れば、伯爵夫人自身の特質もその中に舂き交ぜられているとの事である。
この浩澣な『戦争と平和』一篇を玩味し研究するには、仮に芸術的要素と、思想的要素とに分け、更に後者を一般的人生観と、小説中の重大な部分を形作っている、戦争哲学の二つに細別するのが便宜であろう。
まず第一の分類たる作の芸術的価値については、今更事新しく述べるまでもあるまい。トルストイはこの大作に着手する以前、自分の描かんとする時代に関して、ありとあらゆる書籍や記録を渉猟して厳密な取捨選択を施し、親しく史上の古跡を訪れて細心な観察考究を遂げ、尚その上に自身の内部経験や、クリミア戦争従軍当時の見聞に、自由で豊富な想像を加えたものを素材とし、且つ表現においても不世出の天才が彫心鏤骨の苦心を重ねて、稿を革める事数回に及んだ努力の結晶であるだけに(実際芸術的良心の極度に発達したトルストイは、自分の草稿に完膚なきまで抹殺、改正、記入を施して、ほとんど彼自身さえ判読に苦しむほど推敲を重ねたものを、ソフィア夫人に与えて清書させた後、更にまたそれを元の面影のないくらい修正する。これが常に数回、甚だしきに到っては六、七回に及ぶと言うのは世人周知の有名な逸話である)十九世紀の初葉における大きなロシアの社会生活が、動き躍る無限の絵巻物となって眼前に展開せられ、読者は巨匠の筆の力に依って、いつしか一世紀前の貴族や、農民や、無名の少女の生活に同化し、彼らと共に泣き且つ笑わずに居られない。真に写実主義文学の到達し得る極致である。我々は何らの誇張なしにこの小説を、十九世紀が生んだ最大の芸術品と言うに躊躇しない。
『戦争と平和』における作者の人世観は、作中の重要な二人の主人公、アンドレイ公爵とピエールの研究によって大体を窺うことが出来よう。この二人の人物は先に述べた如く、トルストイの内面生活の相反せる両極を具象化したものであって、生まれながらの貴族であり特権階級の一員であるトルストイは、アンドレイ公爵に体現せられ、空想家であり真理の探求家である彼の半面は、ピエール・ベズーホフに鮮やかな力強い表現を得ている。アンドレイ公爵は古い名門の家に生まれた生粋のアリストクラートである。従って数世紀に亘って純化し洗練された肉体と知能の所有者であり、且つその当時における最高教育を受けた人である事は言うまでもない。そして前に述べた遺伝的な優越感と矜持の念、引いては一切の他人に対する侮蔑感が、根強い本能となって内部に働いている。しかし貴族的な潔癖と、訓練せられた理知や意志の力に制せられて、決して暴虐や不合理を他に加えるような事がないばかりでなく、新時代の思潮に影響されて、極めて進んだ人道的な理想すら抱いている。それ故、彼は政府の農奴解放令に約半世紀も先立って、自己の領地の農奴解放を計画し、数代の国務鞅掌と領地経営に依って作り上げられた、明晰冷静な事務的才能を以てこの計画を実行したのである。けれども一切の感傷的な空想に縁のない、理知的観察家たる彼には、早くもその当時から萌芽を見せ始めた人民崇拝の分子などは微塵も存しなかった。彼が農奴を解放したのは、単にそれを教養ある進んだ人間の精神的義務と感じたに過ぎないので、農民に対して何らの愛をも感じなかったばかりでなく、彼らを人間とさえも見なさなかった程である。彼がこの改革を断行したのは、農民に対する同情のためではなくて、農奴制のために道徳的に頽廃して行く地主自身を救うためだ、というエゴイスチックな言葉を放っているのは、全然反抗的な誇張ばかりとは言えない。
翻ってピエールの方を見ると、彼は同じくロシア有数の大地主でありながら、アンドレイ公爵に見られるような特権階級的心理が、全然皆無であると言ってよい。なぜと言うに、ボルコンスキイ公爵家が建国以来の由緒ある貴族の家柄であるに反して、ピエールの父ベズーホフ伯爵は、エカチェリーナ女帝時代に輩出した成上り者の一人で、しかもピエールはその庶子だからである。そのうえ彼は並々ならぬ善良な心をもった、真摯で単純で無邪気な子供のような青年であると同時に、優れた教育を受け、且つ知的感受性に富んだ代表的知識階級の一人であった。こう言う条件を備えたピエールが特権階級的本能を蔵して、他人を蔑視したり、自己の優良卓越を意識したりする傾向に欠けているは、むしろ当然であろう。ピエールとアンドレイ公爵を比較すると、二人があらゆる点において相反せる極に立っているのを発見する。アンドレイが解剖と批評に長けた観察者なら、ピエールは常に自己の内部生活に没頭し切って、一種の霧を通して外部の世界を眺めている放心家であり、アンドレイが現実派であるなら、ピエールは理想派である。アンドレイが事務の人で実行家であるに反して、ピエールは抽象的な永遠の問題に頭を悩ます、典型的なロシアの知識階級である。アンドレイは名誉心が強くて、社会的活動家としての資格を十分に備えているが、ピエールはこの方面においては全然無能力者で、農奴解放の失敗の如きはその顕著な例である。最後のエピローグに、社会革命を目的とする秘密結社に関係したのも、社会的活動に対する要求のためではなく、むしろ内部的思想の開展によって導かれたのである。
ピエールはその当時の人心を動かした、あらゆる思想的誘惑を経験した。メイソンの教義、神秘的人生観、ナポレオン侵入当時の愛国心の発作、博愛主義、急進主義、こうした多くの stadia を経過する間に、彼はしばしば激しい精神的危機に遭遇したけれど、彼の健全な直観力は常に深い迷路から彼を救い出した。この間において最も注目に価する興味ある出来事は、ピエールのプラトン・カラターエフとの邂逅であろう。カラターエフは『戦争と平和』の本筋から言えば挿話的な意味しか持たない人物であるけれど、その描写の芸術的に完成している点において、驚嘆すべき偉大なる創造である。彼は軍隊に取られた一農夫であるが、些かの軍隊臭味をも有しないで、ロシア農民に固有な素質をそのまま純粋に保存している。彼は単純と真率と、何物を以ても傷つける事の出来ない円満と快活の具象化であった。そこには勿論幾分の理想化の痕も窺われるが、しかしその理想化は低級な作品に見られるような、調子外れの響きや安価な讃美を含んでいない上、尚ピエールの目を通して見たと言う所に肯定を見出し得る。
実際、虚偽に充ちた空虚な上流の社会に生活し、しかも抽象的な知的探究と自己反省に苦しんで、精神的危機に遭遇して居ったピエールに取って、運命に対してあくまで従順な、ナイーヴなほど善良なこのカラターエフの出現は、彼の生活に一転期を画する大きな出来事だったに相違ない。この人民崇拝の傾向はトルストイ初期の作にも現れている。『コサック』が即ちそれである。しかし彼の人民崇拝は広い意味におけるそれと少し異なっていて、つまり貴族的と言う形容言を付すべき一分派に属するものである。西欧の教育と上流社会の儀礼に食傷して、一切の人工的・約束的なものに飽満した人は、自然の数として全然新しい世界たる農民生活の無技巧さ、単純さに魅了されざるを得ない。従ってその人民崇拝は主義信念から発したものと言うより、心理的・感傷的分子がほとんど全部を占めているのである。それがために『コサック』の主人公は性急に過去の絶縁、人民との同化、自然との融合を焦慮って、間もなく惨憺たる幻滅を経験しなければならかった。しかしピエールはこうした人民崇拝が一代の風潮とならなかった、十九世紀初葉の人であるだけに、そう言う無鉄砲な努力はしなかった。彼はカラターエフに体現された農民精神の美と力の前に跪拝しながらも、堅実な足取りで自分自身の歩みを続けて、遂にカラターエフの無抵抗の教えと正反対の極に立つ、社会革命の道へ出たのである。つまり人民との接触は彼のために、民主的教育の活きた学校の役目を勤めた訳である。
既に前に述べた如く、アンドレイ公爵は作者トルストイの素質、知性、階級心理を鮮明に具象し、ピエールはその気分、内的経験、思索を体現した人物として、トルストイ研究者に深甚な興味を与えるものである。
最後に彼の歴史哲学を簡単に述べると、すべての歴史上の事件は少数の為政者や、外交官や、軍隊指揮者などに左右されるものでなくして、その事件に関与した無限小の分子、即ち民衆の意志や出来心の総和による、とこう言うのである。彼は数百万のキリスト教国の民が、単に皇帝の意志や将軍の命令に依って、互いに殺し合うというような事が、有り得べき筈がないと論断して、目に見えぬ群集の力を滔々数万言を費やして高唱力説している。こうした解釈はあながちトルストイが最初に発見した新説ではないけれど、思想を最後まで押し詰めなければ措かぬ、トルストイ独特の猪突的な(これはドストエフスキイの評語である)論法は、天才的な比喩や豊かな引証の助けによって、並外れた力強い印象を与えるために、この作の発表当時四方から――特にナポレオン戦争に参加した武官から、激しい非難攻撃の狼火が上がった。しかし、しばしば極端なパラドックスに堕したトルストイの説の中にも、常に半面の真理は存しているのである。無論、戦争における指揮官・参謀官の価値を全部否定するのは、極端に走った矯激な言葉であるけれど、部分的にはトルストイの主張する通り、激戦中、上官の指揮が徹底的に伝え得るものでないとか、あるいは所謂軍の士気が指揮官の無能に拘わらず、しばしば戦局に決定的な影響を与える、と言うような事実は到底否定することが出来ない。
全体として、彼が名もない下級の士官や兵卒の、素朴で純真なヒロイズムを高調する事に努めて、歴史上の偉人や英雄の価値を否定し減殺しながら、ナポレオン戦争中の功労者中ただ一人クトゥゾフのみには、この老将軍が積極的に何事もしないで、ただ人民の要求を感得してそれに順応したがために、容赦ない峻烈な抹殺の筆を加えなかったと言う事は、ロシア的人間観の発顕として意味深く感じられる。
ツルゲーネフなどは『戦争と平和』の芸術的面の価値を極力称揚すると同時に、この歴史哲学を先入見に囚われた錯誤であり、作品全体の調和を破る邪道であると言って否定しているが、しかし、『戦争と平和』が家庭内の私生活のみを取り扱った単なるロマンスでなくして、それと並行して真の歴史を描く事を目的としている以上、この戦争論も万人周知の史実を小説として発展させる上に、単調を破り変化を与える有力な手法であると言える。
とにかく歴史と評論とロマンスを組み合わせて、幾つにも分岐した筋を巧みに繰りながら、些かの混乱をも示さずに、この雄大豊麗多彩な大交響楽を築き上げたトルストイの天才は、真に文学上における一個の奇跡である。
米川正夫