戦争と平和 第一編, レフ・トルストイ

三


アンナ・シェーレルの夜会は運転を初めた。紡錘(つむ)はあらゆる方面で規則正しく、止み間なしに音を立てた。「私の伯母(マア・タント)」の傍にはただ一人、頬の削けた、泣き出しそうな顔付きをした、かなりな年配の婦人が坐っていたが、このきらびやかな席には少々不釣合いであった。この二人を除(の)けて一座は三組に分かれていた。比較的男の多い組では僧正が中心となっているし、また若い人達の集った組にはワシーリイ公爵令嬢エレンと、艶やかで血色のいい、年の若い割に少し肥り過ぎた、ボルコンスキイ公の若夫人が交っているし、第三の組にはモルテマール子爵とアンナ・シェーレルが入っていた。

子爵は愛くるしい顔をした挙動(ものごし)のしとやかな青年であった。見受けたところ明らかに、自分は名士だと確信しているらしかったが、同席の人に柔順しく利用されるだけの、上品な躾けを受けていた。アンナはまたこの人を来客に対する饗応(もてなし)にしよう、とこう考えているらしかった。腕の優れた膳部長(メーテル・ドテル)は、汚い厨で見たらとても食べる気にならぬような牛肉の一片を、まるで超自然なほど見事なものにして膳へ進めるものである。それと同じくこの夜会でも、アンナ・シェーレルは最初子爵を、次に僧正を、何か超自然に都雅(とが)な物として、客人達にすすめるのであった。モルテマールの組ではすぐにアンギャン公爵(ルイ・アントワーヌ・アンリ・ド・ブルボン=コンデ(一七七二年-一八〇四年)。フランスの貴族。亡命中にナポレオン謀殺の嫌疑を受け、死刑判決を受けて処刑された。)の殺害事件が話題に上った。アンギャン公爵は彼自身の任侠心のために死んだので、またボナパルトの憤懣には特殊な原因があったのだ、などなど子爵は語った。

「Ah! voyons. Contez-nous cela, vicomte(ああ! そうですか、子爵、それをどうぞお聞かせ下さい)」とアンナは言った。彼女は、この文句が、何かルイ十五世時代の感じを持っている様な気がして嬉しかったのである。「どうぞそれをお聞かせ下さい」

子爵は承諾のしるしに会釈をして、愛想よく微笑した。アンナは子爵の周りに一つの組(サークル)を作って、彼の話を聞くようにと人々を誘(いざな)った。

「子爵は個人としてあの公爵にお近付きだったのでございます」とアンナは一人の者に囁いた。そして、「子爵は全くお話上手でいらっしゃいます」とまた一人に言った。「ね、立派な社会のお方だという事がよく分かりますでしょう」と今一人の人にこう言った。かくして子爵は、青物をあしらって熱い皿に載せたローストビーフのように、この上もなく都雅(とが)な、しかも有利な光に照らされて、一座の膳に上されたのである。

子爵はもう話を始めようとして、華奢な微笑を洩らした。

「こちらへいらっしゃいませんか、シエル・エレン」別な一組の中心となって離れた所に座っている、美しい公爵令嬢に向かってアンナはこう言った。

エレンはにっこり笑った。彼女は入った時と同じように、飛び放れて美しい女の常として、始終変わらぬ微笑を含んで立ち上がった。常春藤(きづた)や苔などで飾った、長い尾(トレーン)のついた白い夜会服をさらさらと鳴らしつつ、肩の白さ、髪や金剛石(ブリアント)の輝きを目立たせながら、彼女は左右に道を譲る男達の間を分けて、真っ直ぐに進んで来た。特に誰に目を注ぐでもなく、すべての者に一様にほほ笑み掛けながら、あたかも自分の姿――丸っちい肩や、当時の流行で思い切って拡げた胸や背中の美しさを、十分に眺める特権を各々に与えるものの如く、夜会の光輝を一身に集めて運びながら、彼女はアンナの方へ近寄った。エレンの様子に媚を売るような表情は陰ほども無く、むしろ反対に人の心を征服し尽すような、余りにも激しい力を持った自分の水際立った美しさに、幾分気が引けるらしかった。それほど彼女は美しかった。彼女は自分の美貌の作用を減じたくても、それが出来ないと言ったような風であった。

「Quelle belle personne!(何て美しい人だろう!)」と彼女を見た人はきっとこう言った。エレンが子爵の前に腰を下ろして、例の常に変わる事なきほほ笑みを以て彼を照らした時、子爵は何か異常な物に打たれように、両の肩をすくめて眼を落とした。

「マダム、わたしはこういう聴き手の前に出ると、全く自分の技術が心配になります」と彼は微笑しながら首を傾けてこう言った。

エレンは露わな肥えた手を卓(テーブル)についたまま、別に何か言おうともしなかった。彼女はただほほ笑みながら話の始まりを待っていた。物語の間中、彼女は真っ直ぐに座ったまま、卓に押し付けて形の変わった、肥えた美しい自分の手を時々見詰めたり、またそれより一層美しい胸を眺めて金剛石(ダイヤモンド)の首飾を直したり、幾度も着物の襞を正したりした。そして物語が一座に感動を与えた時にはアンナの顔を見て、すぐにそれと同じ表情を自分の顔に取って付けた。それから安心して輝くようなほほ笑みを漲らすのであった。

エレンに続いて小柄な公爵夫人も茶の卓から移って来た。

「Attendez-moi, je vais prendre mon ouvrage(待って下さいまし、わたくし今仕事を取って参りますから)」と言って、「あなた何を考えていらっしゃいますの? わたくしの手提袋(レティキュール)を持って来て下さいませんか」彼女はイッポリート公爵に向かってこう言った。

公爵夫人は一同に向かってほほ笑んだり、話し掛けたりしているうちに、不意に席の転換をしてしまった。そして座に着くと楽しげに居ずまいを直した。

「さあこれでよくなりました」とこう言って話を始めるように頼みながら、仕事に懸(かか)った。

イッポリート公爵は手提袋(レティキュール)を持って来て、夫人に続いて席を変え、安楽椅子を夫人の傍近く引き寄せて腰を下ろした。

Le charmant Hippolyte(愛すべきイッポリート)は驚くばかり美しい妹とよく似ていたが、それよりもなお不思議に思われたのは、非常に似ている癖に恐ろしく容貌が悪いという事であった。顔の道具は妹とすっかり同じであるが、妹の方はすべてが生を楽しむような、自足した、若々しい、何時も変わりのない生き生きした微笑と、それから並々ならぬ古代的(アンチック)な肉体美とに照らし出されている。所が兄の方はそれと正反対に、同じ顔立ちが愚鈍の霧に蔽われて、何時も思い上がったような気むずかしい表情を呈しているし、それに体も痩せて弱々しかった。目も鼻も口も、みんな一つ所に抓(つま)み寄せられて、漠とした退屈そうな顰みっ面となって、手足は常に不自然な位置におかれてあった。

「それは幽霊の話じゃありませんか」公爵夫人の傍へ坐って、まるでこの道具がなくては話を始める事が出来ないかのように、柄の付いた眼鏡を目の辺へ押しあてながら、イッポリートはこう言った。

「Mais non, mon cher(決してそんな事じゃありません)」子爵はびっくりして肩を縮めながらこう言った。

「つまりわたくしは幽霊の話が大嫌いだってことなんですよ」と彼は言った。その調子はまるでこの言葉を言ってしまってから、初めてその意味を了解した、とでもいうような風であった。

その思い上がった調子のために、彼の言った事が非常に気が利いてるのか、それとも非常に馬鹿げているのか、誰にも想像が付かなかった。彼は暗緑色の燕尾服を着て、彼の所謂(いわゆる) cuisse de nymphe effrayée(脅かされた水精の腿)色をした洋袴(ズボン)に長い靴下、それに小さな靴を穿いていた。

子爵(ヴィコント)は当時行われた次の逸話を、非常に面白く物語った。アンギャン公爵はジョルジ嬢と会うためにパリへ微行でやって来て、そこでかねがね同じくこの有名な女優の情に預っていた、ボナパルトと出会った。ナポレオンは偶然この時、持病の卒倒で人事不省になった。公爵は思い掛けなく恋仇の生殺与奪の権を得たが、それを利用しようとしなかった。然るにボナパルトは後にこの義俠に対して、死を以て公爵に報いたのである。

物語は実に気が利いて興味深かった。殊に二人の競争者が不意に互いの顔を見分ける辺りが、何とも言えぬ程よかった。婦人達は興奮したらしい様子である。

「Charmant(ようございますこと)」と、アンナは促すように小柄な公爵夫人を見ながらこう言った。

「Charmant(ようございますこと)」と、小柄な公爵夫人は針を編物に突き刺しながら呟いた。その様子はちょうど物語の面白さ美しさが、仕事の続きを妨げるというような風付であった。

子爵はこの言葉少ない賞讃の価値を知って、感謝するように微笑しつつ話を進めた。しかしアンナは自分に取って恐ろしい青年を始終注視していたが、ふと彼が僧正を相手に何やら熱心に、大きな声で話しているのに気が付くと、この危険な場所へ救助に急いだ。全くピエールは政治上の権力平均について、僧正と談話を交換することに成功したのである。僧正は青年の朴直な熱心に興味を感じたものと見えて、自分の得意な思想を披瀝(ひれき)し始めた。二人の者が余りに元気よく、余りに自然な調子で話し合っているのが、アンナの気に入らなかったのである。

「方法はヨーロッパの権力平均と国際公法です」と僧正は言った。「それはただロシアのような実力のある、野蛮(バーバリズム)を以て聞こえている国が、何らの私欲も抱かずに、全ヨーロッパの勢力平衡を目的とする同盟の、盟主になりさえすれば沢山です――それでロシアは世界を救う事が出来ます」

「一体あなたはどこにそんな勢力の均衡を発見なさるおつもりです?」

しかしこの時アンナが近寄って、厳しい眼付きでピエールを睨んでから、イタリアの僧に向かって、どんな風にしてここの気候を凌いでいるかと訊ねた。イタリアの僧の顔は急に変わって、人を馬鹿にしたような、わざとらしく甘ったるい表情を帯びて来た。それは彼が女と話すときの癖らしい。

「わたしは幸いにも、こうして出入りさして頂いている社交界の人達の――殊に御婦人方の優れた知識と教育に、すっかり感心させられてしまいましたので、未だ気候の事など考える暇がありませんでした」と答えた。

もうアンナはピエールと僧正を手放さないで、監視の便宜上、皆と一緒の組に入れてしまった。