戦争と平和 第十編, レフ・トルストイ

十


父の野辺送りを済ますと、マリヤは自分の居間に閉じ籠って、誰も傍へ近寄せなかった。小間使いが戸口へ来て、アルパーティッチが出発の事について、お指図を伺いに参りましたと告げた(それはまだアルパーティッチがドローンと話をする前であった)。マリヤは長椅子に横たえていた身を起こし、閉め切った扉ごしに、自分は決してどこへも行かないから、一切構わないで置いてくれと言った。

マリヤが臥(ふせ)っていた部屋の窓は西に向いていた。彼女は壁に面して長椅子に横たわったまま、革の枕についているボタンを指先で弄(まさぐ)りながら、ただこの枕ばかり見詰めていた。彼女の漠とした想念は、ただ一つのものに集中されているのであった。彼女は死の避け難いことと、これまで知らずにいたけれど、父の病気の時以来姿を現した、自分の心の浅ましさを考えているのであった。彼女は祈りたいと思ったけれど、そうする気にもなれなかった。現在の心持ちで神に向かう勇気がなかったのである。彼女はこうした姿勢のままで長い間、横になっていた。

太陽は家の反対の側へ回って、開け放した窓越しに、夕暮れらしい斜(はす)な光線を部屋の中へ投じながら、マリヤが見詰めているモロッコ革の枕の一部分を照らした。彼女の思想の歩みは急に止まってしまった。彼女は無意識に身を起こし、髪を直しながら立ち上がって、晴れ渡ってはいるけれど風の強い夕景の凉味を、我ともなしに吸い込みながら窓に近寄った。

『そうだ、今こそお前はゆっくり夕景色を眺めるがいい! あの人はもういないから、誰もお前の邪魔をするものはないのだ』彼女はこう独り言ちながら、椅子にぐったり身を投げて、窓仕切りの上へ突っぷした。

誰やら優しい小さな声で、庭の方から彼女を呼び掛けながら、その頭に接吻した。彼女は振り返った。それは黒い服を着て、喪章を付けたブリエンヌであった。彼女はそっとマリヤに近づき、溜息をつきながら彼女に接吻すると、いきなりわっと泣き出した。マリヤは彼女の方を振り返った。以前二人の間に生じた衝突や、彼女に対する嫉妬などが、一時にマリヤの胸へ浮んで来た。けれどまた彼が最近ブリエンヌに対する態度を変えて、この女を見るのも嫌がっていた所から見ると、自分が内心、父を責めていたのは間違いだったに相違ない。『そうだ、一体わたしに――父の死を望んでいたわたしに、人を非難する権利なんかあるだろうか!』と彼女は考えた。

マリヤの想像にはブリエンヌの境遇がまざまざと浮んで来た。彼女は近頃マリヤの傍を遠ざけられていたが、それでも矢張り令嬢の手に運命を左右されながら、他人の家で暮さなければならなかった。マリヤは彼女が可哀そうになって来た。マリヤは優しく物問いたげな目付きで相手を眺めながら、彼女に手を差し出した。ブリエンヌはいきなり泣き出した。そして令嬢の手に接吻しながら、令嬢を襲うた不幸を嘆き、自分もこの不幸の関係者だと述べるのであった。そしてこの不幸の中における唯一の慰安は、令嬢が悲しみを共に分かつのを許してくれることだとも言った。それからまた以前のあらゆる誤解は、大きな悲しみの前に消えてしまわなければならぬとか、自分は誰の前へ出ても公明正大であるとか、あの人も自分の愛と感謝を、あの世から見ていて下さるだろうとか、そんなことも言うのであった。令嬢は彼女の言うことを聞いていたが、言葉の意味はまるで分からないで、時々彼女を見詰めたり、その話に聞き入ったりするだけであった。

「ねえ、お嬢さま、あなたの立場は二重の意味で恐ろしいのでございますよ」しばらく黙っていた後ブリエンヌはこう言い出した。「それはもう、あなたが御自分のことをお考えになれなかったのは――今でもそんな事がお出来になれないのは、わたしもよく存じておりますわ。だけど、わたしはあなたを愛しております以上、これだけは是非申し上げなければなりません……アルパーティッチがこちらへ参りましたかしら? あの人は出発のことを何とか申しまして?」と彼女は訊いた。

マリヤは答えなかった。誰がどこへ行かなければならないのか、彼女には合点が行かなかった。『一体今のような時に何か事を始めたり、考えたりなんか出来るものだろうか? どっちだって同じ事じゃないか?』彼女は答えなかった。

「Chère Marie(ねえ、マリヤさま)。ご存じでいらっしゃいますか」とブリエンヌは言った。「ご存じでいらっしゃいますか。わたし達は危ういのでございますよ、フランス人に囲まれているのでございますよ。今出掛けるのは危険でございます。もし今出掛けようものなら、きっと虜になってしまいます。そしてどうなることやら……」

マリヤは友の言うことが分からないので、ただじっと彼女を見詰めていた。

「本当にこの心持ちが人に分かったらばねえ……。わたしは今、何がどうなろうと、一切構やしないわ」と彼女は言った。「わたしどんなことがあっても、あの人の側を離れやしません……アルパーティッチは出発とか何とか言いましたが……あなたどうかあれと相談して下さい。わたしはなんにも――なんにも出来ません、そしてまたしたくもありません……」

「わたし、あの人と話しましたの。あの人はね、明日は立てるだろうと思っております。けれどわたし今となっては、却ってここに残っていた方がよかないかと思いますの」とブリエンヌは言った。「何故と申しまして、chère Marie(ねえ、マリヤさま)、考えてもご覧遊ばせ、途中で兵隊や一揆の百姓などに摑まったら、それこそ恐ろしい事でございますからねえ」

ブリエンヌは手提袋からフランスの将軍ラモーの布告(それは普通のロシア紙に印刷されたものと違っていた)を取り出した。それには住民が自分の家を捨てないで居れば、フランス官憲から相当の保護を与えられる旨を記してあった。彼女はそれを公爵令嬢に渡した。

「わたしはこの将軍に頼むのが一番だと存じますの」とブリエンヌは言った。「あなたにも相当の敬意を払うに相違ないと思いますわ」

マリヤは書面を一読した。涙の無い乾いた歔欷(すすりなき)が彼女の顔を引っ吊らせた。

「あなた誰からこれを貰ったんですの?」と彼女は言った。

「多分わたしの名前で、フランス人だと言うことを知ったのでしょう」ブリエンヌは顔を赤らめながらこう言った。

マリヤは布告を手にしたまま窓を離れ、真青な顔をして部屋から出ると、以前のアンドレイ公爵の書斎へ赴いた。

「ドゥニャーシャ、アルパーティッチを呼んでおくれ! ドローヌシカでも誰でもいいから!」とマリヤは言った。「そしてアマーリヤ・カルロヴナには、わたしの所へ来ないように言っておくれ」ブリエンヌの声を聞き付けると、彼女はこう言い足した。「早く立とう! 一刻も早く立とう!」フランス人の勢力内に陥るかも知れぬと言う考えに、ぞっとしながらマリヤはこう言った。

『わたしがフランス人の勢力内にいるなんて事を、アンドレイ公爵が知ったらどうだろう! 公爵ニコライ・アンドレーヴィッチ・ボルコンスキイの娘が、ラモー将軍に保護を願い出て、その恩恵を受けるなんて!』こう考えると彼女は恐怖の余り、身慄いして顔を赤くした。そしてまだ経験した事のないような、憤怒と誇り(プライド)を発作的に感じたのである。自分の立場の苦しさ――殊に腹立たしさが、生々(なまなま)と想像に描き出された。『あの連中――フランス人がこの家に入り込んで、ラモー将軍がアンドレイ公爵の書斎を占領する。そして慰み半分に兄の手紙や、書類を捜し出して読む事だろう。M-lle Bourienne lui fera les honneurs de Bogoutcharovo(ブリエンヌがボグチャーロヴォの尊敬を、有りったけ彼らに捧げるだろう)。わたしにはお情けで小さな部屋を一つ当てがってくれるだろう。兵隊共は十字架や勲章などを剥ぎ取るために、父の新しい墓を掘り返すに相違ない。そしてわたしを摑まえて、露亜西軍を敗かした手柄話をしながら、わざとらしくわたしの悲しみに同情する事だろう……』などと、マリヤは考えた。しかし、それは自分の心持ちでなく、父や兄の心持ちになって考えたのである。彼女はこう言う風に考えるのを自分の義務と感じた。彼女一個にとっては、自分がどこにいようがどうなろうが、すこしも変わりはなかったのであるが、しかしそれと同時に、彼女は自分を亡くなった父や、アンドレイ公爵の代表者と感じた。で、彼女はいつともなしに彼らの考えを考え、彼らの感じを感じたのである。彼らがこの場合どんな事を言い、どんな事をしようとも、彼女は自分もそれと同じ事をしなければならぬと感じたのである。彼女はアンドレイ公爵の書斎へ入って、彼の考えに同化してしまおうと努めながら、自分の境遇を様々に思いめぐらした。

父の死と共に亡びたものと思っていた生活の要求は、かつて経験したことのない新しい力を以て、突然マリヤの前に立ち塞がり、彼女の全幅を囚えてしまったのである。

彼女は興奮して真赤な顔をしながら、時にアルパーティッチを、時にミハイル・イワーノヴィッチを、時にチーホンを、時にドローンを呼びながら、部屋の中を歩き回っていた。ブリエンヌの言葉がどのくらいまで本当なのか、それはドゥニャーシャも乳母も小間使いたちも、かいもく返事が出来なかった。アルパーティッチは家にいなかった。彼は警察署長の所へ出掛けたのである。召しに応じて寝ぼけ眼(まなこ)をしながら、マリヤの部屋へ来た建築技師のミハイルも、何一つはっきりした事が言えなかった。彼は十五年の間と言うもの、老公爵の言葉に対して自分の意見を述べないで、ただ同意の微笑を浮べる事にのみ馴れて来たので、今も矢張りそれと同じ微笑を以てマリヤの問いに答えた。それ故、彼の答えから、何一つはっきりした意見を摑むことが出来なかった。げっそりこけた顔に癒し難い悲しみの色を印した、老僕のチーホンも召しに応じて現れたが、マリヤの問いに対してただ「畏(かしこ)まりましてござります」と答えるのみで、彼女の顔を眺めながら、やっとのことで慟哭(どうこく)を押し耐(こた)えていた。

遂に組頭のドローンが部屋へ入って来た。そして丁寧に公爵令嬢に会釈をすると、入口の柱の傍に立ち止まった。

マリヤは部屋の中を一回りして、彼の真向かいに立ち止まった。

「ドローヌシカ」とマリヤは言った。彼女はこの男を忠実な友と信じ切っていた。つまり、毎年ヴャージマの市場へ行った帰りに、必ず彼女の所へやって来て、にこにこしながら特製の生姜餅を土産にくれる、何時ものドローヌシカだと思っていたのである。「ドローヌシカ、今度わたし達がああした不幸に遭った後で……」と彼女は言いかけたが、その後を続ける勇気がなくなって口を噤(つぐ)んだ。

「みんな神様の御意(こころ)で動いておるので御座います」彼は溜息をつきながらこう言った。

二人はしばらく黙っていた。

「ドローヌシカ、アルパーティッチがどこかへ行ったそうだから、わたし誰も相談相手がないんだよ。皆がわたしに立ってはいけないと言うけれど、それは本当なのかえ?」

「なぜ立ったら悪いんですかね、お立ちになっても構いませんよ」とドローンは言った。

「敵がやって来て、危ないと言うんだけれど、わたしなんにも出来ないし、なんにも分からないの。それに、わたしの傍には誰もいないんだもの。わたしは是非今夜か、明日の朝早く立ちたいと思うんだよ」

ドローンは押し黙っていた。彼は額越しに公爵令嬢をちらりと見た。

「馬がござりません」と彼は言った。「ヤーコフ・アルパーティッチにもそう申しましたので」

「どうして無いの?」と公爵令嬢は言った。

「みな神様のお罰でござります」とドローンは言った。「軍隊に徵発されたのもあれば、死んでしまったのもござります。今年はそういう巡り合わせと見えますよ。もう馬を飼う所じゃない、手前達が餓(かつ)え死しない要心をしなくちゃなりません。もう三日と言うもの、なんにも食べずに居るのでござります。何一つありやしません。根こそげ荒らされてしまいました」

マリヤは注意深く彼の言うことを聞いていた。

「百姓達が困ってるって、パンがないんだって?」と彼女は訊いた。

「餓(かつ)え死しそうな有様でござります」とドローンは言った。「荷馬車どころの話じゃあ……」

「まあ、ドローヌシカ、お前はなぜ言ってくれなかったの? 助けてやる術(すべ)がないとでも言うの? わたし出来るだけのことをしてやるわ……」

今自分の心がこう言う悲しみに満たされている時、世間に貧富の区別があって、しかも富者が貧者を助けることが出来ないなどとは、マリヤにとって考えるのも不思議な話であった。彼女は地主の貯蔵する穀物があって、それが時々百姓達に分配されるということを、朧げながら聞き知っていた。彼女はまた兄にしても父にしても、貧困に苦しむ百姓達の救援を拒む筈がない、と言うこともよく知っていた。ただ彼女は自分の欲する穀物の処分法、即ち百姓達に分配するという事柄について、何か間違った言葉使いをしはしないかと、そればかり恐れていたのである。彼女は新しく心遣いの口実が出来て、そのために自分の悲しみを忘れても、別にやましい心持ちのしないのが嬉しかった。彼女は百姓達の困窮状態や、ボグチャーロヴォの邸の穀物がどれくらいあるかと言うことを、詳しくドローヌシカに訊き始めた。

「うちには邸の――兄さんの穀物があるんだろうね?」と彼女は訊いた。

「お邸(やしき)の穀物はそっくらございます」とドローンは得意らしく言った。「決して売ってはならんと言う、大殿様の御吩咐(いいつ)けでござりましたので」

「それを百姓達におやり、要るだけおやり、わたしが兄様に代わって許すから」とマリヤは言った。

ドローンは何とも答えないで、深い溜息をついた。

「ねえ、その穀物が足りるだけあったら、百姓達に分けておやり。みんな分けておやり。わたしは兄様に代わってお前に吩咐(いいつ)けるんだよ。そしてわたし達のものは百姓達のものだって、みんなにそう言っておくれ。わたし達は百姓達のためなら何も惜しくはないのだから。そうみんなに言っておくれ」

ドローンは令嬢がこう言っている間、じっと彼女を見詰めていた。

「わたくしにお暇を下さりまし、お嬢さま、お願いでござります。わたくしの持っておる鍵を、みんな取り上げるようにお吩咐(いいつ)けなされて下さりまし」と彼は言った。「わたくしは二十三年の間ご奉公致しましたが、悪いことは少しも致しませんでした。どうかお暇を下さりまし」

マリヤは彼が何を望むのか、なぜ暇を願うのか分からなかった。で、彼女はただ「お前の忠誠を一度も疑ったことはない、お前や百姓達のためなら、どんな事でもするつもりだ」と答えた。