ボグチャーロヴォ村はアンドレイ公爵の定住するまで、ちょっと監視の行き届き兼ねるような領地で、そこの百姓も禿山の百姓とはまるで性質が変わっていた。この二つの村は言葉も服装も気風も別であった。ボグチャーロヴォの村民は荒野の民と呼ばれていた。彼らが禿山へ来て収穫を手伝ったり、池や堀割の工事をしたりする時、老公爵は彼らの忍耐強い仕事振りを褒めたが、しかしその野育ちな所が気に入らなかった。
最近アンドレイ公爵がボグチャーロヴォにいる間、色々新しい設備をして、病院や学校を建てたり、人頭税を減じたりしたけれど、彼らの気風を和らげる足しにならないばかりか、却って老公爵が野育ちと言ったような特殊な性格を、一層助長するに過ぎなかった。彼らの間には何時も妙な漠とした噂が行われていた。村民一同がコサック兵に編入されるとか、あるいは新しい宗教を強いられるとか、あるいは何かしら皇帝の布告があるとか、または一七九七年の皇帝パーヴェル・ペトローヴィッチ(アレクサンドル一世の父、パーヴェル一世(一七五四年-一八〇一年))に対する宣誓とか(当時、農奴解放が発表されたのだけれど、地主がそれを取り上げたのだ、と彼らは言っていた)、七年後ピョートル・フョードロヴィッチ(パーヴェル一世の父ピョートル三世(一七二八年-一七六二年)。廃位後に暗殺されたが、実は隠れて生きているという噂が民間にあった。)が帝位に即かれたら、その時はすべてが自由になって、何事もなく平穏単純になるだろうとか、こう言ったような類であった。戦争や、ボナパルトや、フランス軍侵入などの噂は、反キリスト、世の終り、絶対の自由などと言うような、漠然とした想像に結び付けられていた。
ボグチャーロヴォ村の付近は、官有地でも地主領でも、みんな大きな村ばかりであった。この地方に住んでいる地主はごく少数で、従ってお邸に使われている百姓や、読み書きの出来る百姓も非常に少なかった。で、この辺の百姓の生活には他所よりもずっと明瞭痛切に、現代人に取って原因も意義も説明出来ないようなロシア国民生活の神秘な流が窺われた。そう言う現象の一つとして、二十年ばかり前この地方の百姓の間に、どこか暖かい川の畔に移住しようと言う運動が起こった。ボグチャーロヴォの村民をも加えて何百人と言う百姓が、突然自分の家畜を売り払い、一家を挙げてどこか東南の方へ旅立ち始めた。ちょうど小鳥の群がどこか海の彼方へ飛び去るように、これ等の人々は妻子をつれて、仲間うちで誰も旅をしたことのない東南地方へ、遮二無二進んで行ったのである。彼らは一斉に旅隊の如く連れ立って出発したり、一人一人自分の自由を買い戻したり、主人の許を逃亡したりして、ある者は馬に乗り、ある者は徒歩で、暖かい川辺をさして旅に出た。しかし多くの者は処罰されたり、シベリアへ送られたりしたし、また多くの者は寒さと飢えのために途中で死んだし、更に多くの者は自分で元の村へ戻って来た。明瞭な原因もなく始まったこの運動は、こうして自然に静まってしまった。けれどこれ等の人々の中に潜んでいる暗流は、依然として流れ続けながら、再び一種の新しい力となって、同じくらい不思議に、突然に、またそれと同時に単純に、自然に、力強く現れるため、おもむろに準備をしていたのである。今度一八一二年に到って、この暗流が激しい運動を起こし、今にも表面へ現れそうになったのは、農民の生活に接している人々にとって、見逃すことの出来ない明白な事実であった。
老公爵去の少し前にボグチャーロヴォへ来たアルパーティッチは、百姓共の間に何か動揺が起こっているのに気付いた。半径六十露里もある禿山地方の百姓がことごとく、自分の村をコサック兵の掠奪に委ねて避難したのと反対に、この曠原地方に属するボグチャーロヴォ村の農民は、噂によるとフランス軍に内応し、何かの書類を手に入れて家から家へ回しながら、依然として土地に残っているのであった。そればかりでなく、アルパーティッチは自分に信服している召使いから、次のような事を聞いた。村でも非常な勢力をもっているカルプと言う百姓が、二、三日前に官の荷馬車を追って他所へ出掛けたが、最近、村へ帰って来て、コサックは住民の逃げ出した村を荒しているけれど、フランス人はまるで手も着けない、などと言い触らしているとの事であった。また昨日も一人の百姓が、フランス軍の宿営しているヴィスロウーホヴォと言う村から、フランスの或る将軍の布令を持って来たと言う事も、アルパーティッチはちゃんと聞き込んでいた。その布令には、もし村に踏み留まるなら、決して住民に危害を加えないし、微発した物に対しては相当の代価を支払う、と書いてあった。その証拠として、百姓はヴィスロウーホヴォから、軍用乾草の前渡金を百ルーブリだけ紙幣で貰って来た(彼はその紙幣が贋造だと言うことを知らなかったのである)。
最後にアルパーティッチは、何よりも重大なことを聞き込んだ。外でもない、彼が組頭を呼んで、公爵令嬢の荷物をボグチャーロヴォから運び出すため、荷車を集めるように吩咐けた時、すぐその朝、村で集会が開かれて、一同立ち退かずに待って見よう、と言う決議が成立したのである。そうしているうちに、事情は段々切迫して来た。貴族団長は公爵死去の日即ち八月十五日に、事態がいよいよ危急を告げて来たから、今日にも早速立ち退くようにと、言葉を尽してマリヤに勧めた。彼は十六日以後になったら、どんなことが起こっても責任を持つ訳に行かないと言って、公爵が亡くなった日の夕方、帰って行った。もっとも、翌日の葬式には列席すると約束したのである。しかし翌日、彼は来ることが出来なかった。突然フランス軍が迫って来たと言う情報に接した彼は、ようやく家族と貴重品を纏めただけで、命からがら自分の領地を逃れ去ったからである。
老公爵がドローヌシカと呼んでいた組頭のドローンは、もう三十年の間ボグチャーロヴォを差配していた。
ドローンは肉体的にも精神的にも剛健な百姓の一人であった。こうした百姓は年頃になるや否や、顔じゅう髯だらけになるが、そのまま六十七十になるまで少しも変わる事なく、白髪一筋生えず歯一本抜けないで、三十代の時と同じように腰も曲らず、達者に暮らしているものである。
他の者と一緒に温かい川の畔へ移住すると言って騒いだ後、間もなくドローンはボグチャーロヴォの組頭兼領地管理人に挙げられて、爾来二十三年の間、何の落ち度もなく務めを果たして来た。百姓達は主人より却ってこの男を恐れていた。主人側でも、老公爵を始めとして、若公爵も支配人も彼に敬意を払い、冗談半分に大臣と呼んでいた。ドローンはこの長い勤務の間に、ただの一度酔っ払った事もなければ、病気に罹ったこともなかった。また幾晩徹夜しても、どんなに働いた後でも、決して疲れた様子を見せたこともない。読み書きは知らなかったけれど、何十台という車に積んだ麦粉の売上げや量目の計算を、一分一厘間違ったこともなければ、またボグチャーロヴォの畑から取れる麦の一町歩の上がり高にしても、一束だって忘れるような事はなかった。
荒らし尽された禿山から来たアルパーティッチは、老公爵の葬式の当日このドローンを呼び寄せて、令嬢用の馬車のために馬十二頭、ボグチャーロヴォから運び出さねばならぬ荷物のために、十八台の荷馬車を準備するように申し渡した。ここの百姓はみな人頭税で務めていたけれど、ボグチャーロヴォには二百三十組の家族があったし、百姓達も相当な暮らしをしていたので、アルパーティッチはこの命令の実行を、さして面倒な事とも思わなかった。けれど組頭のドローンは命令を聞き終わると、じっと黙って眼を伏せた。アルパーティッチは自分の知っている百姓で、いつも荷馬車を提供する者の名前を挙げた。
ドローンの答えによると、そう言う百姓の馬は、運送の方に使われているとの事であった。アルパーティッチは別な百姓の名前を挙げた。が、ドローンに言わせると、その百姓達も馬を持っていなかった。軍隊の輸送に使われているのもあるし、弱って役に立ないのもあるし、飼料がないために死んだのもあった。ドローンの意見によると、荷馬車の方ばかりでなく、乗用車の方にも馬を集めることは不可能であった。
アルパーティッチはじっと注意深くドローンを見つめて顔を顰めた。ドローンが模範的な組頭であったように、アルパーティッチも二十年の間、立派に公爵家の諸領地を治めて来た、模範的な総支配人であった。彼は自分の扱っている百姓の要求や本能を、直覚的に見抜く才能を有していて、支配人として優秀な人物であった。彼はドローンを一眼見るとすぐ、ドローンの答えがドローン自身の考えの表現ではなくて、ボグチャーロヴォの百姓仲間の気分全体を表しているに過ぎない、そして組頭もこの気分の虜になっている――と言うことを悟ったのである。しかしまたそれと同時に、ドローンは金を貯め込んで、村全体から憎まれているために、彼の心は当然主人側と百姓側と、二つの陣の間に動揺すべき筈だ、と言うことも承知していた。彼はこの動揺を組頭の眼ざしに見て取ったので、顔を顰めてドローンの方へ詰め寄った。
「おい、ドローヌシカ、よく聞くがいい」と彼は言った。「貴様おれに向いて詰まらんことを言うんじゃないぞ。公爵アンドレイ・ニコライッチ閣下も、百姓達をみんな残らず避難させて、敵の手へ渡さないようにしろと、ご自分俺にお吩咐けなされたのだ。それに陛下からもそうしろと言うご命令だ。だからここに残る者は、陛下に対して謀叛人なんだぞ。分かったか?」
「分かりやした」とドローンは眼も上げないでこう答えた。
アルパーティッチはこんな答えに満足する筈がなかった。
「こら、ドローン、ためにならんぞ!」アルパーティッチは首を振りながらこう言った。
「どうなりとご存分に!」とドローンは悲しげに言った。
「おい、ドローン、やめろ!」片手を懐から出して、物々しい手付きでドローンの足下を指しながら、アルパーティッチは繰り返した。「おれは貴様の腹の中を見透すくらいじゃない、貴様の立っておる地の下三尺くらい見抜いているぞ」ドローンの足下の床を見詰めながら、彼はこう言った。
ドローンはまごついた風で、ちらりとアルパーティッチを見上げると、またもや伏目になった。
「貴様、馬鹿なことはやめにして、百姓達にそう言え。家を打っ棄ってモスクワへ行く支度をするように、また明日の朝お姫様の荷物を運ぶ馬車を持って来るようにな。そして貴様も集まりへ出てはならんぞ。よいか?」
ドローンは突然、相手の足下に身を投げ出した。
「ヤーコフ・アルパーティッチ、どうかわっしに暇を下せえやし! すっかり鍵を取り上げて、そうして後生だから暇を下せえやし」
「よせ!」アルパーティッチは厳然として言った。「俺は貴様の立ってる地の下三尺見抜いておるぞ」と彼は繰り返した。アルパーティッチは自分が蜜蜂飼いの名人で、燕麦の蒔付け時も心得ておるし、二十年の間、巧みに老公爵に取り入ったため、とうから魔法使いと言う評判を取っている所から、人間の立っている地の下三尺も見抜くと言うのは、魔法使いでなければ出来ないことだと考えて、こう言う風に言ったのである。
ドローンは立ち上がって何か言おうとしたが、アルパーティッチは彼を遮った。
「一体貴様らは何を考え出したんだ? うん?……一体何を考えておるんだ? うん?」
「わっしに百姓達をどうする事が出来やしょう?」とドローンは言った。「もうすっかり滅茶滅茶でござりやす。わっしも彼奴らに言って聞かすんだけれど……」
「そ、そこを言うのだ」とアルパーティッチは言った。「飲っておるかな?」と彼は簡単に訊いた。
「ヤーコフ・アルパーティッチ、大騒ぎなんでごぜえやす。もう二つ目の樽を持ち込みやしたよ」
「ではよいか、こうしよう。俺は警察署長の所へ行くから、お前は百姓らの所へ行ってな、皆そんなことは止しにして、荷馬車を集めるように言ってくれ」
「畏まりやした」とドローンは答えた。
アルパーティッチはもうそれ以上押して言わなかった。彼は長年百姓を治めて来たので、彼らを従わせる一番の良法としては、自分の命令が聴かれないかも知れぬと言う疑いを、忘れても素振りに出さないに限る、という事をちゃんと心得ていたのである。アルパーティッチはドローンから「畏まりました」と言う素直な言葉を聞いた時、まだ疑いが晴れなかったばかりか、軍隊の助けを借りなければ、とても荷馬車を手に入れることは出来ないと、八九分通り信じていたにも拘わらず、とにかく組頭の返事に満足した。
果せるかな、晩になっても荷馬車は集まらなかった。村の酒屋ではまた集まりがあった。そして馬を林へ追い込んで、荷馬車を出さないと言うことに評議が一決した。アルパーティッチはこう言うことを少しも令嬢に話さないで、禿山からつれて来た馬から自分の荷物をおろし、その馬を令嬢の馬車へ駕けるように吩咐けて置いて、自分は警察署長の許をさして出掛けた。