朝の九時近くなって、もう軍隊がモスクワを通過した時には、誰ひとり伯爵の指揮を仰ぎに来る者もなかった。逃げられる者はみんなてんでに逃げてしまった。後に残っている者も、それぞれ勝手に自分の取るべき方法を決めた。
伯爵はソコーリニキへ出掛けるつもりで、馬車の支度を吩咐けたのち、黄色い顔を顰めて腕組みしたまま、むっつりと書斎に坐っていた。
無事泰平な時、すべての行政官は、ただ自分の努力のみによって、治下の全人民が動いてるように感じて、『自分は是非なくて叶わぬ有用の材だ』と言う意識の中に、自分の労苦と努力に対する主なる報酬を感じるものである。やにっこい小舟に乗って、国民と言う大船に竿を突っ張っている為政者・行政者も、歴史の海が静かな間は、自分の乗っている小舟が動くのを悟らないで、自分の努力に依って大船が動いているように思うのは、もっとも千万な話である。しかし一朝嵐が起こって海が逆巻き、遂に大船が動き出すと、その時はもう迷いの存在する余地がなくなる。大船が独立不羈の偉大な歩みを始めて、竿がそこまで届かないようになると、行政官はたちまち力の根元たる支配者の位置から、みじめな、弱々しい、何の役にも立たぬ人間に変わってしまう。
ラストープチンも今これを感じたので、つまりそれがために苛々したのである。
群集に押し止められた警察署長は、馬車の支度が出来た事を知らせに行く副官と一緒に、伯爵の部屋へ入った。二人とも真青な顔をしていた。警察署長は任務の遂行に関する報告をすますと、伯爵の邸内へ夥しい群衆が集まって、彼に会いたいと言っている事を知らせた。
ラストープチンは、一言も返事をしないで立ち上がると、贅沢な明るい客間へ大股に入って行った。そして露台の扉に近づいて把手を摑んだが、またそれを放して窓の傍へ行った。そこからは群衆全体が一層よく見えるのであった。背の高い若者は前列の方に立っていたが、厳つい顔付きをして片手を振りながら、頻りに何やら喋っていた。血みどろになった鍛冶屋は、沈んだ様子をしてその傍に立っていた。閉め切った窓を通して、群衆のどよめく声が聞こえた。
「馬車の支度は出来たか?」ラストープチンは窓を離れながらこう言った。
「は、出来ております、閣下」と副官は答えた。
ラストープチンは再び露台の扉に近づいた。
「一体あの連中はどうして欲しいと言うんだ?」と彼は警察署長に訊いた。
「閣下、彼らは閣下のご命令に依って、フランス軍と戦争に行くと申して集まったのでございますが、騙されたとか何とか怒鳴っておりました。しかし、閣下、要するに暴徒でございます。わたくしもようやく逃げて来たような始末で、失礼ながらわたしの考えでは、閣下……」
「まあ、あっちへ行ってくれ給え。わたしは君に教えて貰わなくても、自分のすべき事くらい知っているから」とラストープチンは腹立たしそうに叫んだ。
彼は露台の戸口に立って、じっと群衆を眺めていた。『奴等がロシアをこんな事にしてしまったのだ! 奴等が俺をこんな目に遇わしたのだ!』事件の全責任を転嫁し得る何者かに対して、堪え難い憤怒が心中にこみ上げて来るのを感じながら、ラストープチンはこう考えた。激し易い人にありがちなことだが、彼はもう憤怒に全幅を領せられながら、しかもその対象を求めていたのである。『La voilà la populace, la lie du peuple(あれが暴民の群だ、社会の澱だ)』と彼は群衆を見ながら考えた。『la plèbe qu'ils ont soulevée par leur sottise. Il leur faut une victime(彼らの無知のために煽動された下層民だ! 彼らには犠牲が必要なんだ)』
手を振り回している背の高い若者を見ているうちに、ふとこういう考えが彼の頭に浮んだ。彼がこう考えついたのは、彼自身にもこの犠牲、即ち憤怒の対象が必要だったからである。
「馬車の支度は出来たか?」と彼はもう一度訊ねた。
「閣下、出来ております。が、ヴェレシチャーギンは何としたものでございましょう? 玄関のところで待っておりますが」と副官は答えた。
「ああ!」何か思い掛けない想念に打たれたように、ラストープチンはこう叫んだ。
彼はいきなりさっと扉を開けて、断固たる足取りで露台の上へ歩み出た。話し声が急にぴったり止んで、人々の頭からは帽子が脱がれた。一同の視線は出て来た伯爵の方へ注がれた。
「諸君!」と伯爵は高いで早口に言った。「よく来てくれた、有難う。わしは今すぐそこへ出て行くが、しかしその前に、我々は悪漢を成敗しなければならん。モスクワを滅ぼした悪漢を処罰しなければならん。しばらく待っていてくれ!」
伯爵はばたんと強く扉を閉めて、前と同じく急ぎ足で中へ入った。
得心したらしい満足の囁きが群衆の中を流れて通った。「あの方はつまり悪者共をすっかりやっ付けようと仰しゃるんだ! それだのに、お前はあの人をフランス人だなんて……あの方は物のきまりを見せて下さるよ!」群衆は互いに自分の疑いを責めるようにこう言った。
幾分かの後、正面玄関の戸口から、一人の将校が急がしげに出て来て、何やら命令を下すと、龍騎兵の一隊が気を付けの姿勢をした。群衆は露台から玄関の方をさして、貪るような眼を輝かしながら押し寄せた。ラストープチンは腹立たしげな急ぎ足で玄関口へ出ると、誰やら捜し求めるように、せかせかと辺りを見回した。
「あいつはどこにいる?」と伯爵は言った。
こう言った瞬間、二人の龍騎兵に前後を守られながら、家の角から出て来る一人の青年が、彼の目に入った。その首は細長くて、頭は半分剃り落とさられ、半分毛をぼうぼうさせていた。以前は洒落たものであったらしいが、今ではすっかり擦り切れた青羅紗の表に、狐の裏皮をつけた外套を纏い、汚れた麻の囚人窄袴を、まるで磨かない、履き耗らされて薄くなった靴の中へ押し込んでいた。細い弱々しい両足には足枷が重そうにぶら下って、青年のたどたどしい足取りを一層難渋にするのであった。
「ああ!」狐皮外套の若者から急いで視線を反らすと、上り口の一番下の段を指さしながら、ラストープチンはこう言った。「そいつをここへ立たせろ!」
青年は足枷をがちゃがちゃ鳴らしながら、指定された上り段へ重々しく足を載せ、窮屈な外套の襟を指で引っ張りながら、二度ほどその長い首を左右へ回した。それからほっと溜息をついて、細い華奢な両手をすなおな態度で腹の前に組み合わせた。
青年が上り段にきちんと落ちつく間、幾秒間か沈黙が続いた。ただ一所へ押しつけられている人達の溜息や、呻き声や、突き合う音や、足を踏み変える音などが、後ろの方で聞こえるだけであった。
ラストープチンは、青年が指定の場所へ落ち着くのを待つ間、眉を顰めながら片手で顔をこすっていた。
「諸君!」とラストープチンは金属的な響きの高い声で言った。「この男が――このヴェレシチャーギンが、モスクワを滅ぼした当の悪人なのだ」
狐皮の外套を着た青年は、すなおな姿勢で両の手首を腹の前に組み合わせ、少し背を屈めながら立っていた。頭を剃られたために醜く見える、窶れて絶望的な表情をした若々しい顔は、ぐったりと下へ垂れていた。伯爵の言葉を聞くとひとしく、彼は静かに頭を抬げて、下からちらと伯爵を見上げた。それは伯爵に何か言おうとするのか、それとも、せめてその視線だけでも捕えたい、と思っているような具合であった。けれどラストープチンはその方を見なかった。青年の細長い首筋から耳の後へかけて、一筋の青い血管が縄のように怒張したが、その顔は急にさっと赤くなった。
一同の視線は彼の方へ注がれた。彼は群衆を見やったが、人々の顔に現れた表情に一縷の希望を繋ぐもののように、悲しそうなおどおどした微笑を浮べた。それからまた頭を垂れて、段の上で足の居住まいを直した。
「この男は皇帝と祖国に叛いたのだ。ボナパルトに内応したのだ。多くのロシア人の中で、ロシアの名を穢したのはただこの男一人だけだ。この男のためにモスクワは滅亡に瀕しているのだ」とラストープチンはなだらかな鋭い声で言った。しかしふと眼を落として、相変わらずすなおな姿勢で立ち続けているヴェレシチャーギンを見た。と、この一瞥が彼の心を破裂させたかのように、彼は片手をさし上げて群衆に向かいながら、ほとんど叫ぶようにこう言った。
「お前たちは勝手にこの男を裁くがいい! 俺はお前達にこの男を委せる!」
群衆はじっと押し黙ったまま、互いにじりじりと締めつけて行った。互いに押し合いへし合いしながら、この汚れた息づまるような空気を呼吸し、身動きする力さえなく、不可解な恐ろしい未知の或る物を待ち受けているのが、段々群衆に取って堪え切れなくなった。前の方の列に立って、自分の面前で行われることを見聞きしていた人々は、みな怯えたように眼を大きく見開いて、口をぽかんとあけたまま、全身の力を緊張させながら、後から押して来る人の圧迫を、自分の背中に支えていた。
「この男を殴れ!……こんな謀叛人は死んでしまって、ロシアの名を穢さぬようにした方がましだ」とラストープチンは叫んだ。「斬り殺せ! わしが命令する!」
ラストープチンの言葉――というよりむしろ憤然たる声の響きを聞くと、群衆は唸り声を上げて動き出したが、また立ち止まった。
「伯爵!……」再び襲うて来た束の間の静寂を破って、ヴェレシチャーギンのおどおどした、同時に芝居じみた声が響いた。「伯爵、わたし達の頭の上には、同じ一人の神さまがいらっしゃいます……」とヴェレシチャーギンは頭を抬げて言った。すると、またもや彼の細い首筋には太い血管が怒張した。そして顔に紅がさっと漲ったかと思うと、すぐまた退いてしまった。
彼は言おうと思ったことを言い終らなかった。
「こいつを斬り殺せ! 俺が命令するのだ!……」ラストープチンはヴェレシチャーギンと同じように、突然真青になってこう叫んだ。
「抜剣!」将校は自分から剣を抜きながら、龍騎兵達に向かってこう叫んだ。
一層激しい別な波が群衆を伝って奔騰した。この波は前列まで走り着くと、前に立っている者を浚って、玄関のすぐ傍までゆらゆらと押し流した。背の高い若者は化石したような表情をして、片手をじっと振り上げたまま、ヴェレシチャーギンと並んで立った。
「斬れ!」将校は龍騎兵に向かって、ほとんど囁くようにこう言った。
すると一人の兵卒は憎悪に顔を歪めながら、ヴェレシチャーギンの頭へ鈍い剣を打ち下ろした。
「あっ!」ヴェレシチャーギンは怯えたように辺りを見回しながら、短い驚愕の叫びを発した。なぜこんな目にあうのか、分からないらしい様子であった。それと同じような驚愕と恐怖の呻きは、群集の間をも流れ走った。「ああ、神さま!」と言う誰かの悲しそうな叫び声も聞こえた。
けれど驚愕の叫びに続いて、ヴェレシチャーギンは痛みのために憐れな声で叫んだ。この叫びが彼を破滅に導いたのである。今までなお群集を制していた、極度に緊張した人間らしい感情の堰は、この瞬間にどっと切れてしまった。一旦始めた犯罪は、最後まで遂行しなければ止まなかった。詰まるような憐れっぽい呻き声は、群衆の怒りを帯びた物凄い咆哮に打ち消されてしまった。船を砕く第七の――最後の巨濤のように、到底支える事の出来ない人波が、後方の列から起こって前列まで奔騰し、前に立つ人を押し倒したと思うと、遂に一切を呑んでしまった。剣を打ち下ろした龍騎兵が、更にまた重ねて斬りつけようとした時、ヴェレシチャーギンは恐怖の叫びをあげて、両手で身を庇いながら群衆の方へ飛び出した。ちょうどその時突き当たった背の高い若者は、両手をヴェレシチャーギンの細い首に巻きつけて、野獣のような叫びを上げながら、哮り狂って雪崩れかかる群集の足下へ、共倒れに倒れてしまった。
ある者はヴェレシチャーギンを、ある者は背の高い若者を、叩いたり引きむしったりした。押し潰された人や、背の高い若者を助け出そうとする人々の叫び声は、ただ群衆の狂憤を煽るばかりであった。龍騎兵も半死半生に打ちのめされた血みどろの職工を、長い間救い出すことが出来なかった。群衆は一旦始めた仕事を片付けようとして、熱くなって急き込むのであった。しかしそれにも拘わらず、ヴェレシチャーギンを叩いたり、引きむしったり、絞めつけたりしていた人達は、容易に息の根をとめることが出来なかった。群集は四方から彼らを圧迫した。そして彼らを真ん中にして一つの塊になったまま、彼方此方へと揺れながら、ヴェレシチャーギンを殺すことも、放すことも出来ないようにした。
「斧ででも打っ叩いたらいいに?……押し潰したのか?……謀叛人め、キリストさまを売りやがって! 生きてる……恐ろしいしぶとい野郎だ……盗賊め、それくらいの苦しみは当たり前だ。斧でやっつけろ! まだ生きてるか?」
哀れな犠牲がもう抵抗しなくなって、その叫びが一定の間隔を保った、長いしゃ嗄れた呻き声に変わった時、群衆は初めて、血まみれになって横たわっている屍骸の傍を急がしげに入り代わり始めた。傍へ寄って事の結果を見たものは、誰もかれも恐怖と非難と驚きの色を浮べながら、後ろの方へ尻込みするのであった。
「ああ、神さま、人間なんて獣と同じことだ。これじゃ生きてる者の居所はありやしねえ!」と言う声が群衆の中で聞こえた。「それにまだ若い男だ……きっと商人に違いない。どうも酷い人達だ!……何でも人違いだって言う話じゃねえか……そうともあの男じゃないよ……ああ、何と言うことだ!……そでねえ者を殺しちゃった。もう虫の息だそうだよ……ああ、何て人達だ……罪を恐れない者なんか……」顔は血と埃に汚れて紫色になり、細長い首はめちゃめちゃに裂かれた死体を見て、さっきと同じ人達が病的な憐憫の情を現しながら、口々にこう言うのであった。
一人の忠実な警官は、伯爵邸に死体がころがっているのは不体裁だと気づいて、龍騎兵に往来へ引きずり出せと吩咐けた。二人の龍騎兵は完膚のないほど傷つけられた両脚を摑んで、死体を引きずり始めた。埃にまみれて血みどろになった、半分だけ剃られた生のない頭は、長い首にくっ付いたまま、ごろごろと地べたを引きずられて行った。群衆は屍骸を避けて一塊りになった。
倒れたヴェレシチャーギンを目がけて、野獣のような咆哮を立てながら押し寄せた群衆が、暫しその上でたゆたった瞬間に、ラストープチンは突然さっと蒼くなった。そして馬車の待っている裏玄関の方へ行く代わりに、どこへ何しに行くのか無我夢中で、階下の部屋部屋へ通ずる廊下を、うな垂れたまま急ぎ足に歩き出した。伯爵の顔は真青であった。彼は熱にでも罹ったように震える下顎を、どうしても食いしめることが出来なかった。
「閣下、こちらへどうぞ……どこへお越しになるのでございます?……こちらへおいでを願います」後ろからびっくりしたような慄え声がこう言った。
ラストープチン伯爵は何一つ答える力がなかった。で、従順しく引っ返して、示された方へ歩き出した。裏玄関の傍には幌馬車が立っていた。咆哮する群衆の遥かなどよみは、そこまでも聞こえて来た。ラストープチン伯爵は慌ただしく馬車に乗ると、郊外ソコーリニキの別宅へ行くように命じた。
肉屋街まで出て、もう群衆の叫喚が聞こえなくなると、伯爵はそろそろ後悔を始めた。彼は今となって、部下の前で見せた興奮と驚愕を思い出して、嫌な気持ちがした。『La populace est terrible, elle est hideuse(人民の群れは恐ろしいものだ。忌わしいものだ)』と彼は考えた。『Ils sont comme les loups qu'on ne peut apaiser qu'avec de la chair(まるで狼だ。奴等を満足させるものは肉の外に何もない)』「伯爵! 我々の頭の上には、同じ一人の神さまがいらっしゃいます!」急にヴェレシチャーギンの言葉が思い出された。不快な冷気がさっとラストープチン伯爵の背を流れた。しかしこの感じはほんの一瞬間であった。ラストープチン伯爵は自分で自分を蔑むようににやりとした。『俺には別の義務があったのだ』と彼は考えた。『それは人民を満足させることだ。社会の福祉のためには、まだまだ多くの犠牲が斃れた。またこれから後も斃れる事であろう』彼は自分の家族に対し、自分の(彼に委託された)首都に対して負っている社会的義務や、自分自身の事などを考え始めた――それはフョードル・ワシーリエヴィッチ・ラストープチンとしてでなく(フョードル・ワシーリエヴィッチ・ラストープチンは、社会の福祉の犠牲になるべきである、と彼は考えていた)モスクワ総督、すなわち皇帝から全権を委任された権力の代表者としてであった。『もし俺が単にフョードル・ワシーリエヴィッチであるならば、ma ligne de conduite aurait été tout autrement tracé(俺の生活の道はまるっきり違ったものとなっていたろう)。しかし俺は総督の生命と威厳を保たなければならなかったのだ』
馬車の柔らかい弾条に軽く揺られるのと、群衆の恐ろしい声が聞こえなくなったのとで、ラストープチンは生理的に落ちついて来た。よくある事だが、生理的平静を得ると同時に、理知は彼のために精神的平静の理由をも考え出した。ラストープチンを安心させた思想は、別に新しいものでなかった。開闢以来、人間が互いに殺し合いを始めてからこの方、同胞に対して罪悪を犯すとき、この思想によって自ら弁護しない者は一人も無い。この思想と言うのは外でもない、想像された他人の幸福 le bien public(社会的幸福)である。
激情に征服せられた人でなければ、この幸福は分かるものでない。犯罪を行う人は、この幸福が那辺に存するかをよく知っている。ラストープチンも今これを知ったのである。
彼は単に理知判断によって、自分の行為を責めなかったばかりか、あの à propos(好機)を巧みに利用した、すなわち犯人を罰すると同時に、群衆を鎮撫したと言うことに、満足の理由を見出したのである。
『ヴェレシチャーギンは裁判の結果、死刑を宣告されたのだ』とラストープチンは考えた(とは言え、ヴェレシチャーギンは、元老院から懲役を宣告されたばかりなのである)。『彼は裏切人であり、謀反人であったのだから、彼を罰せずにはいられないではないか。その上に je faisais d'une pierre deux coups(俺のした事は一挙両得だ)。人民に犠牲を与えて彼らを鎮撫し、同時に悪人を罰したのだからな?』
郊外の別邸へ着いて家事の指図に取りかかると、伯爵はすっかり落ち着いてしまった。
それから三十分たったとき、伯爵はもう先程の出来事を忘れてしまって、ただ目前のことばかり考えたり想像したりしながら、馬車を駆ってソコーリニキの原を疾駆していた。彼は今クトゥゾフがいると言う、ヤウースキイ橋へ赴いているのであった。
ラストープチン伯爵はクトゥゾフに会ったら、面と向かってその欺瞞を責めてやろうと思って、激しい皮肉な言葉を心の中で準備していた。彼は首都の放棄とロシアの滅亡(こうラストープチンは考えていた)から生ずべき、すべての不幸に対する責任が、自分の耄碌した老いぼれ頭一つに懸っていることを、あの宮中の古狐に感じさせてやろうと思った。クトゥゾフに言うべきことを前もって考えながら、ラストープチンは幌馬車の中で腹立たしげに体をもぞもぞさせたり、辺りを見回したりした。
ソコーリニキの原は空漠としていた。ただ向こうの端にある慈善院と瘋癲病院の傍に、白い服を着た人が塊って立っているのや、同じような人が何やら叫んだり手を振ったりしながら、幾人か淋しそうに原を歩いているのが、見受けられるばかりであった。
その中の一人が、ラストープチン伯爵の幌馬車の行く手を、遮るように走って来た。ラストープチン伯爵自身も、馭者も、龍騎兵達も、みんなこれ等の放たれた狂人――殊に彼らの方へ走って来る一人を、漠とした恐怖と好奇の情を抱きながら眺めていた。
この狂人は風に着物を翻しつつ、ラストープチンから眼を放さずに、長い痩せた足をよろよろさせながら一散に走って来た。そしてしわ嗄れ声で何やら叫んだり、止まれと言う合図をしたりするのであった。顎鬚を不揃いにもじゃもじゃ生やした、陰鬱でしかも勝ち誇ったような狂人の顔は、痩せて黄色かった。黒い瑪瑙のような彼の瞳は、番紅花みたいに黄色い白目の上を、低く不安げに動き回っていた。
「待て! 止まれと言うのに!」と彼は刺すような声で叫んだ。そしてぜいぜい息を切らせながら、諭すような語調に身振りまで添えてまた何やら叫んだ。
彼は幌馬車の傍まで来ると、並んで走り出した。
「わしは三たび殺されて、三たび甦ったのじゃ。奴等はわしを石で打ち、遂にわしを磔にした……わしは甦るのじゃ……甦るのじゃ……甦るのじゃ。わしの身体は八つ裂きにされた。神の国は崩されるじゃろう……わしは三たび崩して三たび建てるのじゃ!」と彼は次第に声を高めながら叫んだ。
ラストープチン伯爵は、ちょうど群集がヴェレシチャーギンに飛びかかった時と同じように、急にさっと真青になった。彼は顔を反けた。そして「は……早くやらんか!」と慄え声で馭者に怒鳴りつけた。馬車は馬の足の続く限り駆け出した。けれどラストープチン伯爵は長い間、自分の後ろに遠ざかって行く物狂おしい、絶望的な叫び声が聞こえるような気持ちがした。そして眼の前には毛皮の外套を着た謀反人のびっくりしたような、血みどろの顔ばかりが見えるのであった。
この記憶はまだ新しかったけれど、深く自分の心臓へ、血の出るほど食い込んでいると言うことを、ラストープチンは今しみじみと感じた。彼はこの血なまぐさい記憶の痕が決して癒えないばかりか、却って時の経つに従って、ますます意地悪く、ますます残酷に、一生涯、自分の心で生きるに違いないと言うことを、今こそはっきり感じたのである。「こいつを斬れ、お前達は俺に対して命懸けの責任をもっているのだぞ!」と言った自分の言葉が、今まざまざと聞こえるように思われた。『どうして俺はあんなことを言ったのだろう? 何だかひょいと口が滑ってしまったんだ。俺はあんなことを言わなくてもよかったのだ』と彼は考えた。『そうすれば何事も起こらなかったろうになあ』彼は最初の一撃を加えた龍騎兵の顔――始め怯えたような、続いて急に残酷な相好を帯びて来た顔や、狐皮の外套を着たあの若造が伯爵に投げつけた、臆病そうな、無言の詰責に充ちた眼つきを脳裏に見た。『しかし、俺は何も自分のためにあんな事をしたんじゃない。俺は当然ああ言う行動を取らなければならなかったんだ。La plèbe, le traître……le bien public(愚民、謀叛人……社会的幸福)』と彼は考えた。
ヤウースキイ橋の畔にはまだ軍隊がひしめき合っていた。暑かった。クトゥゾフは顔を顰めながら、橋のたもとの腰掛にぐったりと腰を下ろして、鞭で砂を弄っていた。そこへ一台の幌馬車が轟然たる響きと共に駆けつけた。将官の制服を着けて、羽根の付いた帽子を被った人が、怒っているともつかなければ、怯えているともつかない眼をきょときょとさせながら、クトゥゾフの傍に近づくと、何やらフランス語で言い出した。これはラストープチン伯爵であった。彼はクトゥゾフに向いて、自分がここへ来たのは、もはやモスクワも首都もなくなって、ただ軍隊しか残っていないからだと言った。
「もし閣下が戦わずにモスクワを棄てるようなことはしない、などとわたしに仰しゃらなかったら、こう言う事にもならなくて済んだでしょうに!」と彼は言った。
クトゥゾフはじっとラストープチンを眺めていた。そして自分に向けて発せられた言葉の意味が分からないように、話し手の顔に書いてある特殊な或るものを読み取ろうと努めた。ラストープチンはまごついて口を噤んだ。クトゥゾフは軽く頭を振って、ラストープチンの顔から試験するような目を放さずに、低い声でこう言った。
「そう、わしは戦わずにモスクワを渡しはしない」
クトゥゾフはまるで別なことを考えながらこう言ったのか、それともこの言葉の無意味な事を知りながらわざと言ったのか、それは何とも分からない。とにかくラストープチン伯爵は一言も返事をしないで、急いでクトゥゾフの傍を離れた。そして――何という奇妙なことであろう!――傲慢なモスクワ総督ラストープチン伯爵は、自ら手に鞭を取って橋に近づき、そこでごった返している荷馬車を、怒鳴りながら追い散らし始めた。