果たしてアンナ・パーヴロヴナの予感は的中した。翌日、陛下の誕辰を祝する祈祷式が宮中で取り行われている時、ヴォルコンスキイ公爵は会堂から呼び出されて、クトゥゾフ公爵の封書を受け取った。これはクトゥゾフが戦闘の当日、タタリノーヴァで書いた報告であった。それにはロシア軍が一歩も退かなかったことや、フランス軍の方が味方より遥かに多くの兵を失ったことを報じた後、まだ最後の情報を集めた訳ではないが、取り敢えず戦場から上奏すると書いてあった。して見ると、勝利に違いない。で、すぐさま会堂から出ずに、至上の神の援助と勝利を謝する祈祷が取り行われた。
アンナ・パーヴロヴナの予感は的中した。市には午前中、喜ばしい、祭日らしい気分が漲っていた。みんなこの勝利を間違いのないものと信じた。中にはもうナポレオンが捕虜になったとか、あるいは帝位を斥けられて、フランスのために新しい君主が選まれた、などと噂するものもあった。
世の中から遠く離れた、宮中生活の様々な条件の下に在って、完全に力強く事件の反映を示すというのは、極めて困難なことであった。事件の大局は何時の間にか、部分的な場合に集中されるものである。で、この時も宮中における主なる喜びは、この戦勝の報知が、ちょうど皇帝の誕生日に到着したと言う事であった。この点が我が軍の勝利と同じくらい重く見られた。これは如何にも巧みに出来た不意の贈物であった。クトゥゾフの報告には、ロシア軍の損害のことも書いてあった。その中にはトゥチコフ、バグラチオン、クタイソフ(アレクサンドル・クタイソフ(一七八四年-一八一二年)。ロシアの軍人、砲兵将官。ボロジノの戦いで戦死。)などの名前も挙げられていた。しかし事件の悲しむべき方面も、このペテルブルクの社交界では、矢張り何時の間にか一つの事件――クタイソフの死に集中された。彼はみんなに知られていたし、皇帝の寵も受けていた。彼は若くて面白い人物であった。この日、誰でも行き会ったものがこう言うのであった。
「何と言う不思議なことでしょう! ちょうど祈祷式の最中に着くなんて! 時に、クタイソフは惜しいことをしましたねえ! ああ、何て残念なことでしょう!」
「え、わたしはクトゥゾフの事を何と言いました?」ワシーリイ公爵は今や予言者のような誇りを以てこう言った。「ナポレオンに勝つことが出来るのは彼一人だけだって、わたしはいつもそう言っていたんですよ」
しかしその翌日、戦地から報告が来なかった。世間一般の声は不安を帯びて来た。廷臣達は皇帝を苦しめている未知の悩みに同情した。
「陛下の御心中はどうでしょう!」と廷臣達は言った。そしてもう前日のようにクトゥゾフを抬げないで、却って皇帝の不安の原因を作った人として彼を非難した。ワシーリイ公爵もこの日は自分の被保護者たるクトゥゾフを自慢しないで、総指揮官の話が出ると沈黙を守っていた。のみならず、この日の夕方には、ペテルブルクの住民を恐怖と不安に陥れるために、すべてのものが一緒になったような具合であった。いま一つ恐ろしい椿事が加わったのである。ほかでもない、伯爵夫人エレーナ・ベズーホヴァが、みんな珍しがって名前を発音していた、例の恐ろしい病気のために急死したのである。表向き上流社交界では、ベズーホヴァ伯爵夫人は angine pectorale(胸部炎症)の恐ろしい発作で死んだと言われていたが、ごく内密なサークルでは、詳しい事情を話し合っていた。外でもない、Le médecin intime de la Reine d'Espagne(スペイン女王の侍医)はある作用を起こさせるために、某々の薬を少しずつエレンに与えていたが、エレンは老伯爵に疑われるのと、手紙を書いてやった良人(あの情けない放蕩者のピエール)から返事が来ないのを苦にして、急に定量以上の薬を飲んで、手当てをする間もなく悶死したというのである。噂によれば、ワシーリイ公爵と老伯爵はイタリア人を糾弾しようとしたが、イタリア人が不幸な故人の手記を出して見せたので、二人はすぐ彼を放免したとのことである。
世間の話題は三つの悲しむべき事件、即ち皇帝の不安と、クタイソフの戦死と、エレンの変死に集中された。
クトゥゾフの報告が届いてから三日目に、一人の地主がモスクワからペテルブルクへやって来た。そして、モスクワはフランス軍に明け渡されたと言う報知が、たちまち市中に拡まった。これは恐ろしい事であった! 皇帝の心中はどうであろう! クトゥゾフは謀叛人であった。ワシーリイ公爵は娘を失くした visites de condoléance(悔やみの訪問)を受けた時など、以前ほめ千切っていたクトゥゾフの事を(愁傷の折柄、前に言ったことを忘れるのも無理からぬ次第である)、あの盲の放蕩爺から、これ以外のことは到底期待できなかったと言った。
「どうしてあんな人間にロシアの運命を任せたのか、わたしはそれが不思議で堪らない」
しかしこの報告はまだ公のものでなかったので、幾分疑う余地があったが、その翌日ラストープチン伯爵から次のような上告文が到着した。
「クトゥゾフ公爵の副官は臣が手許へ一通の書状を持参仕り候。右は軍隊をリャザン街道へ案内のため、警官の派遣を要求するものに御座候。彼は遺憾ながらモスクワの放棄を言明致し候。陛下よ! クトゥゾフの行為は陛下の首都と、帝国の運命を決するものに候。ロシアの偉大を集中し、皇祖の御遺骨を納むる首都の放棄を知らば、ロシアはために震撼せん。臣は軍隊の跡を追う所存に御座候。すべては搬出済みに候えば、今はただ祖国の運命を泣くのみに御座候」
この上奏文を受け取った皇帝は、ヴォルコンスキイ公爵に次の勅書を持たせて、クトゥゾフの許へ遣わした。
「公爵ミハイル・イラリオーノヴィッチ! 余は八月二十九日以来、卿の報告に接せざりき。然るに卿及び軍隊がモスクワ放棄を決したる儀に関し、ヤロスラーヴリ経由にてモスクワ総督より、九月一日付の悲報に接せり。この報告が余に如何なる感銘を与えたるかは、卿自らよく之を想像するを得ん。しかも卿の沈黙は余の驚愕をますます深からしむるものなり。余は侍従武官ヴォルコンスキイ公爵をしてこの書を携行せしめんとす。そは我が軍の状態と、卿をしてかかる悲しむべき決心を採らしめたる原因を、親しく聴取せしめんがためなり」