戦争と平和 第十三編, レフ・トルストイ

十一


十月六日の早朝、ピエールはバラックから出た。そして帰りしなに戸口で立ち止まって、傍をじゃれ回る胴の長い、脚の短く曲がった、瑠璃色の小犬を相手にしていた。この小犬は彼らのバラックに住んで、夜はカラターエフと一緒に寝ていたが、時々どこか町の方へ行って、また帰って来ることもあった。この犬はこれまで誰のものでもなかったらしく、今でも飼主もなければ、従って名も何もないのであった。フランス人はアゾールと呼んでいたし、話好きの兵士はフェムガールカ、カラターエフその他の者は灰色(セールイ)とか、時には耳垂(ヴィースルイ)とか呼んでいた。しかし飼主がなくても、名がなくても、種類や毛色さえはっきりしなくても、この瑠璃色の小犬は一向困らないらしかった。房々とした尾は羽飾りのように、ぴんと固く巻き上っていた。この犬の曲がった脚は非常によく働いて、どうかすると、四本脚を全部使うのを軽蔑でもするように、後脚を一本しゃれた恰好に持ち上げて、三本脚で巧みに疾走することさえあった。この小犬に取っては一切が満足の種であった。時には嬉しそうに黄色い声で鳴きながら、仰向けにごろごろしたり、時には考え深い意味ありげな様子で日向ぼっこをしたり、時には木っぱや藁しべを玩具に跳ね回ったりした。

今ピエールの服装と言うのは、昔の衣類中たった一つの記念たる汚いぼろ襯衣(シャツ)と、カラターエフの勧めによって、保温のために足首を縄で縛った兵隊洋袴(ズボン)と、長衣(カフタン)と、百姓風の帽子だけであった。このころピエールは肉体的にすっかり変わっていた。彼は今だに父祖伝来の力強そうな堂々たる様子をしていたが、もう格別肥っているようには見えなかった。顔の下半分は顎鬚や口髭で一面に蔽われていた。長く延びて縺(もつ)れた、虱だらけの髪の毛は、今まるで帽子のようにもしゃもしゃ渦巻いていた。眼はかつて一度も見たことのないような、しっかりと落ち着いた、一切に心構えの出来たような、生き生きした表情を帯びている。以前その目付きにも表れていた放心の表情が、今では活動と反抗に対して準備の出来上がった、如何にも精力の溢れたような、引きしまった態度に変わっていた。彼は裸足であった。

ピエールは、今朝がた荷馬車や騎馬の人が頻りに往来し始めた原を見下ろしたり、遥かに川の彼方を眺めたり、冗談じゃない、本当に噛み付くぞ、と言ったような振りをして見せる小犬を見やったり、自分の裸足の足を見つめながら、汚い、大きな、太い指を動かしては、いろいろ形が変わるのを興(きょう)がったりした。その露わな足を見るたびに、彼の顔には生き生きした自足の微笑が流れた。この露わな足を見ると、彼は最近に経験し理解して来た一切を思い出すのであった。しかもこの思い出は彼に取って快(こころよ)かった。

朝ごとに軽い凍(いて)が感じられたが、もう幾日かの間、静かな晴々した天気――いわゆる小春日和が続いていた。

外も日向は暖かかった。この暖かみは、体を引き締めるような朝の爽やかな凍(いて)が、まだ空気の中に感じられるために、殊に快(こころよ)いのであった。

遠近一切の物は、秋のこの季節にしか見る事の出来ない、魔法のような水晶がかった輝きを帯びている。遥か彼方に雀ヶ丘が、村や、会堂や、大きな白い家などと一緒に見えた。剥き出しになった木立も、砂も、石も、家屋の屋根も、会堂の緑色した尖塔も、遠くに見える白い家の角々も――こういうものがみんな不自然なほどくっきりと細い線で、透明な空気の中に刻み出されていた。間近な所では、フランス人に占領されている、見慣れた半焼けの地主屋敷の廃墟と、まだ濃い緑色を留めている、塀沿いのシレーネの灌木が見えた。曇った日には、その醜さで目を反撥する半焼けの崩れかけたこの家でさえ、今さ揺ぎもせぬ燦然たる光を浴びると、何か心を落ち着かせるような美しいものに思われた。

まるで自分の家にでもいるように、上衣のボタンを外して、室内帽子を被り、口に短いパイプを咥えたフランスの伍長が、バラックの角から出て来ると、さも親しげに瞬きしながら、ピエールの傍に近づいた。

「Quel soleil, hein? Monsieur Kiril!(実に好い天気だね、キリール君!)――フランス人はみんなピエールをこう呼んでいた――On dirait le printemps(まるで春のようだ)」

こう言いながら伍長は戸に凭(もた)れて、ピエールにパイプを薦めた。彼はいつもピエールにパイプを薦めるが、ピエールはいつもそれを辞退するのであった。

「Si l'on marchait par un temps comme celui-là(こんな天気の時に行軍したらさぞいいだろうなあ……)」と伍長は言いだした。

ピエールは行軍についてどういう話があるかと訊いた。伍長はそれに答えて、全軍ほとんど進出している、そして俘虜の事については、今日命令が出る筈だなどと語った。ピエールと同じバラックにいる兵卒の一人で、ソコロフと言うのが、瀕死の病いに罹っていたので、ピエールは伍長に向かって、この兵卒を何とかして貰わなければならぬと言った。伍長は心配しないでもいい、こう言う病人のためには、野戦病院も常置病院もあるから、病人については何とか命令が出るだろう、それに全体として、当局はあらゆる場合を慮って、充分の設備をしていると答えた。

「Et puis, m-r Kiril(それからね、キリール君)、君なぞはちょっと一言、大尉殿に話しさえすりゃいいんですよ。あの人は……その……何でも忘れない人だからね。大尉殿が巡回して来たら話して見給え。あの人は君のためなら何でもしてくれますよ……」

伍長が話した大尉と言うのは、ちょいちょいピエールと長話をする人で、彼に色々と親切を尽すのであった。

「あの人はこの間も僕にこう言ったですよ。おい、サン・トーマス、あのキリールはフランス語の話せる教育のある人間なのだ。あの人は不幸な目に遭ったロシアの貴族なんだ。とにかくあの人は人間だ。あれは話の分かる男だ……もしあの人に欲しい物があったら、俺に頼みさえすりゃ、断るなんてことはありやしない。全く幾らか学間をした者は、お前も知ってるだろうが、文明と教育のある人を好くもんだよ、とこう言われるのさ。僕は君のためにこんな話をするんですよ。キリール君。この間だって君がいなかったら、碌なことになりゃしなかったろうよ」

それからまだしばらく喋ってから、伍長は向こうへ行った(伍長のいわゆるこの間の出来事と言うのは、俘虜とフランス人の間に起こった喧嘩で、その時ピエールは首尾よく仲間を鎮めたのである)。幾人かの俘虜はピエールと伍長の話を聞いていたが、早速ピエールをつかまえて、伍長が何を言ったのかと訊きにかかった。ピエールが仲間に向かって、伍長の言った行軍の話をしている時、痩せた、顔の黄色い、ぼろぼろの服を着た一人のフランス兵が、バラックの戸口へ近づいた。彼は臆病そうな手つきで、素早く指を額に上げて会釈のしるしをしながら、ピエールの方へ向いて、自分が襯衣(シャツ)を縫わせにやったプラトーシャと言う兵卒は、このバラックの中にいないかと訊いた。

一週間ばかり前にフランスの兵士らは、靴の材料や布地などを受け取ったので、俘虜に分けて靴や襯衣(シャツ)を縫わせたのである。

「出来てますよ、出来てますよ、旦那!」几帳面に畳んだ襯衣(シャツ)を持って出ながら、カラターエフはこう言った。

カラターエフは陽気が暖かいのと仕事がしいいために、土のように黒いぼろぼろの襯衣(シャツ)と、洋袴(ズボン)だけになっていた。髪はよく職人がするように、菩提樹の筋で縛ってあった。そのために彼の丸い顔はますます丸く、ますます可愛く見えるのであった。

「約束守るは仕事の兄弟――ですからなあ。金曜日に出来ると言ったから、その通りにしましたよ」プラトンはにこにこ笑って、自分が縫った襯衣(シャツ)を拡げながらこう言った。

フランス人は不安そうに辺りを見回したが、ようやく疑念を抑えつけたように、急いで軍服を脱ぎ捨てて襯衣(シャツ)を着た。フランス人の軍服の下には襯衣(シャツ)がなくて、黄色い痩せた素肌の上に、長い脂じみた、花模様のある絹胴着(チョッキ)をじかに着ていた。フランス人は自分を眺めている俘虜達が、笑いはしまいかと恐れるように、急いで頭を襯衣(シャツ)の中へ突っ込んだ。俘虜は誰一人として一言も口をきかなかった。

「そうら、ちょうどいい」プラトンは襯衣(シャツ)を引っ張りながら言った。

フランス人は頭と手を通してしまうと、眼を上へあげずに、自分の着ている襯衣(シャツ)を眺めたり、縫目を調べたりした。

「どうも仕様がありませんよ、旦那、ここは裁縫場じゃないから、本当の機械もないもんですからね。道具がなけりゃ虱も殺せぬ、と言った理屈でしてな」プラトンは丸っこい感じのする微笑を浮べながら、自分で自分の手際を喜ぶような風でこう言った。

「C'est bien, c'est bien, merci, mais vous devez avoir de la toile de reste(結構、結構、有難う。だが、きれが余っている筈だな)」とフランス人は言った。

「お前さんがその襯衣(シャツ)を肌の上に着たら、もっと具合がよくなりますよ」いつまでも自分の仕事の出来栄を喜びながら、カラターエフはこう言った。「そうしたら、お前さんいい気持ちで素敵なもんですぜ……」

「Merci, merci, mon vieux, le reste……(有難う、爺さん、有難う。だが布の残りを……)」フランス人はにこにこしながらこう言った。そして紙幣を取り出してカラターエフにやった。「Mais le reste(布の残りを……)」

フランス人の言う事を悟るまいとしているプラトンの気持ちに気が付いたので、ピエールは口を出さずに二人を見つめていた。プラトンは金の礼を言って、いつまでも自分の仕事に見惚れていた。フランス人は頻りに布の残りを請求して、ピエールに自分の言う事を通訳してくれと頼んだ。

「この人が布の残りなんか何にするんだろう?」とカラターエフは言った。「ところが、俺達には立派な脚絆が出来るんだがなあ。でも仕方がない、まあ、勝手にするがいい」

カラターエフは不意に打って変わった沈んだ顔をしながら、衣嚢(ポケット)から切れ端を巻いたのを取り出して、それを見ないようにしながら、フランス人に渡した。「やれやれ!」と言ってカラターエフは引っ返した。フランス人は布を見て考え込んだが、やがて相談するようにピエールを見やった。と、ピエールの眼が彼に何やら言ったような具合であった。

「Platoche, dites donc, Platoche(プラトーシュ、おい、プラトーシュ)」フランス人は急に顔を赤くして、甲高い声でこう言った。「Gardez pour vous(これを取って置け)」こう言って彼は切れ端を渡しながら、そのまま踵を返して立ち去った。

「そうら、どうだ」カラターエフは頭を振りながらこう言った。「キリスト信者でないと言われていても、やっぱり魂はあるんだよ。汗じみた手は切れ離れがいいが、乾いた手はけち臭いって、年寄りが言うのはここの事だ。現在自分も裸でいながら、この通りくれたでないか」

カラターエフは考え深そうに微笑して、切れ端を眺めながらしばらくじっと黙っていた。

「おい兄弟、立派な脚絆が出来るぞ」と言って、彼はバラックへ帰って行った。