戦争と平和 第十四編, レフ・トルストイ

十


ペーチャが見張所へ帰ると、ジェニーソフは廊下に出ていた。彼はペーチャを手放した後悔に責められながら、興奮と不安の中に待ち侘びているのであった。

「いい塩梅だった!」と彼は叫んだ。「まあ、いい塩梅だった!」ペーチャの感激に満ちた話を聞きながら、彼はこう繰り返した。「いまいましい、君のお蔭で寝なかったぜ!」とジェニーソフは言った。「だが、いい塩梅だった。さあ、寝たまえ。朝までにはまだ一寝入りする間があるよ」

「でも……よしましょう」とペーチャは言った。「僕まだ眠くないんです。それに僕自分でよく知っていますが、一たん眠ったら、それこそもう駄目です。それに僕は戦闘の前は眠らない習慣なんですから」

ペーチャは今夜の偵察を心嬉しく細かい所まで思い出したり、明日の光景をまざまざと想像して見たりしながら、しばらく家の中にじっとしていたが、やがてジェニーソフが寝入ったのを見ると、立ち上がって外へ出た。

外はまだ真っ暗であった。雨は止んだが、点滴はまだ樹から落ちていた。見張所の近くには、コサックのバラックや、一緒に繋ぎ合わせた馬の姿が黒く見えた。百姓家の向こうには二台の荷車が黒ずんで、その傍には幾頭かの馬が立っていた。窪地には消えるになんなんとした火が赤く見えた。コサックや軽騎兵も皆が皆、眠っている訳ではなかった。雨だれの落ちる音や、近くで馬の草を噛む音などと一緒に、囁くような低い声がそこここに聞こえた。

ペーチャは廊下を出ると、闇の中を見回して荷車の方へ近づいた。車の下では誰かいびきをかいていて、その周りには鞍を着けた馬が、燕麦を噛みながら立っていた。ペーチャは暗闇の中で自分の馬を見分けると、その傍へ寄って行った。小ロシアの馬であったが、彼はカラバフ(コーカサス産の馬の品種名。カラバフ馬。)と呼んでいた。

「おい、カラバフ、あすは一働きしようぜ」馬の鼻の孔を嗅いだり、接吻したりしながらペーチャはこう言った。

「どうなさいました、旦那、まだお眠(やす)みにならないんですかね?」車の下に坐っていたコサックがこう言った。

「寝ない。ところで……リハチョーフ(お前はたしかそう言うんだったね?)僕はたった今帰って来たばかりなんだ。僕達はフランス人の所へ行って来たんだよ」

ペーチャはコサックに向かって、自分の偵察して来た話ばかりでなく、何のために出掛けて行ったかということや、なぜでたらめな真似をするよりも、生命を賭して冒険を試みた方がましだと思うか、などと言う訳を詳しく物語った。

「どうです、ちょっと一寝入りなさったら」とコサックは言った。

「構わない、慣れてるから」とペーチャは答えた。「時にどうだね、お前ピストルの燧石(ひうちいし)は耗(へ)ってないかね? ぼく持って来たんだ。要らないか? やるよ」

コサックはもっとよくペーチャを見ようと思って、荷車の下から頭を突き出した。

「僕は何でも几帳面にしつけているもんだから」とペーチャは言った。「世間にはよく準備もしないで、いい加減なことをして、あとから後悔するような者がいるが、僕はそんなことが嫌いなんだ」

「そりゃあそうですとも」とコサックは言った。

「ああ、それからねえ、お前、一つ僕の剣を研いでくれないか。刃がにぶ……(けれどペーチャは嘘をつくのを恐れた。彼の剣は一度も研いだことがないのである。)やって貰えるかね?」

「そりゃなに、やりますとも」

リハチョーフは立ち上がって、袋の中を掻き回し始めた。ペーチャは間もなく、鋼と砥石のすれ合う勇ましい音を聞いた。彼は車の上に這い上って、その端に腰をかけた。コサックは荷車の下で剣を研いでいた。

「どうだい、みんな寝てるかね?」とペーチャは訊いた。

「寝てる者もあれば、こんな風にしてる者もありますよ」

「じゃ、あの子供はどうしてる?」

「ヴェセンニイですかね? あいつは廊下で寝ておりますよ。恐ろしい目をした後は却って寝られるもんですよ。そりゃ喜んでいましたっけ」

それからペーチャは砥石の音に耳をすましながら、長い間じっと黙っていた。闇の中に足音が聞こえて、黒い姿が現れた。

「何を研いでるんだ?」男は車に近づきながらこう訊いた。

「この旦那に剣を研いで上げてるんだよ」

「そりゃ結構なことだ」と男は言った。ペーチャにはその男が軽騎兵のように思われた。「お前んとこに茶碗が残ってなかったろうか?」

「あすこの車輪の傍にあるよ」

軽騎兵は茶碗を取った。

「もうやがて夜が明けるだろうよ」彼は欠伸(あくび)をしながらこう言って、どこかへ行ってしまった。

ペーチャは自分が道路から一露里離れた林の中で、ジェニーソフの隊にいることも、フランス軍から奪った荷車の上に坐っていることも、その傍には馬が縛りつけられていることも、下ではコサックのリハチョーフが坐って、自分の剣を研いでいることも、右の方に見える大きな黒い点は見張所で、左の低地に見える鮮やかな赤い点は、消えるになんなんとしている焚火だと言うことも、茶碗を取りに来た男は、水が飲みたくなった軽騎兵だという事も、すべて知っていなければならない筈であったが、彼はそんな事などなんにも知らなかったし、また知ろうともしなかった。彼は現実に似通ったものの少しもない、魔法の国に住んでいたのである。大きな黒い点は、確かに見張所かも知れないが、あるいは地のどん底に通じる洞穴かも知れない。赤い点は火かも知れないが、あるいは大きな怪物の眼かも知れない。彼はいま確かに荷車の上に坐っているのかも知れないが、あるいは荷車の上ではなくて、高い恐ろしい塔の上にいるのかも知れない。この塔の上から落ちたら、まる一日――ことによったら、まる一月飛び続けても、何時まで経っても地面につかないかも知れなかった。荷車の下に坐っているのは、ただのコサック、リハチョーフかも知れないが、あるいは誰も知る人こそないけれど、この上もなく善良で勇敢な、世界中で一番立派な一番偉い人間かも分からない。あの軽騎兵は確かに水を飲むために、窪地へ行ったのかも知れないが、あるいはたった今姿を消したまま、それ切り影を晦(くら)まして、まるでいなくなってしまったのかも知れない。

ペーチャは今どんな物を見せられても、決してびっくりしなかったに相違ない。彼は如何なることでも出来ないと言うことのない、魔法の国に住んでいたのである。

彼は空を眺めた。すると、空も矢張り地上と同じく魔法めいていた。穹窿(きゅうりゅう)は晴れかかって、樹々の梢の上には、星を隠していた幕を開けるように、雲が非常な速力で走っていた。時には所々雲切れがして、黒く澄み渡った空が現れるようにも思われたが、時にはこれらの黒い斑紋が、かえって雲のようにも思われた。時には空が頭上高く昇って行くようにも思われたが、時には空がずっと下がって来て、手でも届きそうに思われた。

ペーチャは眼を閉じてふらりふらりし始めた。

雨だれがぽたりぽたり落ちていた。静かな話し声が続く。馬は嘶(いなな)いてちょっと暴れた。誰かいびきをかいている。

「しゅっ、しゅっ、しゅっ……」と剣を研ぐ音がした。と、不意によく調和した楽音がペーチャの耳に入った。それは荘厳な、しかも心持ちのいい、かつて聞いたことのない頌歌(ヒムン)を奏しているのであった。ペーチャはナターシャと同じくらい、ニコライ以上に音楽的素質をもっていた。しかし彼は一度も音楽を習ったこともなければ、音楽のことを考えた例(ためし)もなかった。それ故、突然いま彼の頭に浮んだ諧調は、彼にとって殊に珍しく、魅力に富んでいた。音楽はだんだんはっきりと聞こえて来た。旋律はいよいよ大きくなって、一つの楽器からまた別の楽器へ移って行った。

それは複音律(フーガ)と言われているものであった。もっとも、ペーチャは複音律(フーガ)が何やらまるで知らなかったのである。ヴァイオリンやラッパに似てはいるが、ヴァイオリンやラッパよりずっと美しい澄んだ楽器が、銘々それに自分勝手なことを演奏していた。そして一つの節奏が終らないうちに、ほとんど同じような節奏を始めた他の楽器に溶け合ったかと思うと、それからそれへと他の楽器に交るのであった。終いにすべての楽器が一つに溶け合ったり、またばらばらに別れたり、再び荘厳な聖楽になったり、明るく華やかな凱歌になったりするのであった。

『ああ、これは夢なんだ』ペーチャはがくりと前へのめって、こう独り言ちた。『これは僕の耳が鳴ってるんだ。だけど事によったら、これが僕の音楽かも知れない。さあ、またやれ。始めろ、おれの音楽! さあ!……』

彼は眼を閉じた。すると、まるで遠くの方から来るように、四方八方からさまざまな音が慄えながら起こった。そして調子を合わしたり、ばらばらになったり、溶け合ったりするかと思うと、またもや一つのこころよい、荘厳な頌歌(ヒムン)に統一された。『ああ、本当に何ていいんだろう! 幾らでも、どんなにでも、お望み次第だ』とペーチャは独り言ちた。彼はこの一大管弦楽を指揮して見ようと試みた。

『さあ、静かに、静かに、だんだん音を消して』楽音は彼の命令に従った。『さあ、今度はもっと張って、もっと愉快に。もっと、もっと、面白く』どこか底知れぬ深みから荘厳な楽の音が起こって、だんだん強くなって来た。『さあ、今度は声もはいるんだ!』とペーチャは号令した。すると遠くからまず男の声、続いて女の声が聞こえた。声は規則正しく荘厳に力をまして行った。ペーチャはその並々ならぬ美しさに注意を払うのが、恐ろしくもあれば嬉しくもあった。

荘厳な凱旋進行曲(マーチ)に歌声が溶け合った。雨だれは絶えず滴り、剣を研ぐ音は「しゅっ、しゅっ、しゅっ……」と鳴った。と、また馬がいがみ合ったり嘶(いなな)いたりしたが、それらは合唱の妨げをしないばかりか、却ってその中へ溶け込むのであった。

これがどのくらい続いたか、ペーチャはよく知らなかった。彼はじっと快感にひたっていた。そして絶えず自分の快感に驚きを感じながら、同時にそれを誰にも頒(わか)つことが出来ないのを悲しんだ。彼はリハチョーフの優しい声に呼び起こされた。

「出来ましたよ、旦那。これならフランス人を真二つにできますよ」

ペーチャは目を覚ました。

「もう夜が明けて来た、ほんとに夜が明けて来た!」と彼は叫んだ。

前には見えなかった馬が、今では尻尾まで見分けられた。あらわな樹々の枝を通して水っぽい光がさして来た。ペーチャはぶるっと身慄いをして飛び上り、衣嚢(かくし)から一ルーブリとり出してリハチョーフに与えた。そして剣を一振りふって見て鞘へ納めた。コサック達は馬を解いて、腹帯を締めていた。

「ああ隊長もおいでになった」とリハチョーフは言った。

見張所からジェニーソフが出て来た。そしてペーチャを呼んで、支度するように吩咐(いいつ)けた。