戦争と平和 第十四編, レフ・トルストイ

十一


人々は薄暗がりの中で手早く馬を選り分け、腹帯を締め、それぞれ自分の部署についた。ジェニーソフは最後の命令を発しながら、見張所の傍に立っていた。隊の歩兵は百に近い足を水溜りでばちゃばちゃ言わせながら、道路づたいに進んで行って、たちまち夜明け前の霧に包まれた木の間に隠れてしまった。コサック大尉は部下に何やら命令していた。ペーチャは馬の手綱を摑んで、乗馬の命令をじりじりしながら待っていた。冷たい水で洗った顔――殊に眼は火のように燃え、背筋には悪寒が流れ下って、何だか体中びりびりと時どりして慄えるのであった。

「さて、すっかり支度は出来たかい?」とジェニーソフは言った。「馬をもって来い」

馬は曳かれた。ジェニーソフは腹帯が緩いと言って、酷くコサックを怒りつけた。さんざん怒鳴りつけて彼は馬に跨った。ペーチャは鐙(あぶみ)に手をかけた。馬はいつもの癖で足を噛もうとしたが、ペーチャは自分の体の重みを感じないで、ひらりと鞍の上に飛び乗ると、後ろの暗闇の中で動き出した軽騎兵達を振り返りながら、ジェニーソフの方へ馬を進めた。

「ワシーリイ・フョードロヴィッチ、なにか僕に吩咐(いいつ)けて下さい……どうか……後生ですから……」と彼は言った。

ジェニーソフはペーチャの存在を忘れていたらしかった。彼は声のする方へ振り返った。

「ただ一つ君に頼んで置くがね」と彼は厳つい調子で言った。「必ず僕の言う事を聴いて、どこへも出しゃばらないようにしてくれ」

行軍の間中、ジェニーソフはそれ以上ペーチャに一言も口を利かないで、無言のまま馬を進めた。林の外れまで出た時、野はもう目に見えて明るくなっていた。ジェニーソフは何やらコサック大尉と囁き合った。するとコサックたちは、ペーチャとジェニーソフの傍を通り抜け始めた。コサックが残らず通り過ぎてしまうと、ジェニーソフは馬を進めて、丘を下って行った。馬はみな尻を突っ張るようにして、ずるずる滑りながら、騎手を乗せて凹地へ下りて行った。ペーチャはジェニーソフと並んで行った。彼の全身に伝わる身慄いはますます激しくなった。辺りは次第に明るくなって、ただ霧が遠くの方の物を隠しているだけであった。下までおり切った時、ジェニーソフは後ろを振り返って、傍に立っている一人のコサックに顔をしゃくって見せた。

「信号!」と彼は言った。

コサックは片手をあげた。と、一発の銃声が鳴り響いた。その瞬間に前の方で駆け出した馬蹄の音と、四方から起こる叫びと、なお数発の銃声が聞こえた。

初めて馬の足音と叫び声が響き渡った瞬間に、ペーチャは自分の馬を一蹴りして手綱を緩め、ジェニーソフの怒鳴り声には耳をも貸さず、一目散に前の方へ駆け出した。ペーチャはかの一発の銃声が鳴り渡った瞬間に、たちまち真昼のように煌々と明るくなったような気がした。彼は橋を目指して駆け出した。前の方では道路づたいにコサックの群が走っていた。橋の上で彼は後れたコサックにぶっ突かったが、なお先へ先へと走って行った。前方には誰やら一群の人――それは確かにフランス兵らしい――道路の右側から左側へ駆け抜けていた。その中の一人はペーチャの馬の足もとで、ぬかるみの中へぶっ倒れた。

ある百姓家の傍で、一群のコサックが何やらしていた。群集の中からは恐ろしい叫び声が聞こえた。ペーチャはこの群集の傍へ駆け寄った。彼が最初に見たものは、下顎をがたがた慄わしている、フランス兵の青ざめた顔であった。彼は自分に向けられた槍の柄を摑んでいた。

「ウラー!……みんな来い……味方だ……」とペーチャは叫んで、はやり切った馬の手綱を緩めると、街道づたいに先へと駆け出した。

前の方で銃声が聞こえた。コサックや、軽騎兵や、ぼろぼろの服を着たロシアの俘虜などが、道路の両側から馳せ寄りながら、大声で何やらつづまりのない事を叫んでいた。帽子なしに青い外套を着た、一人の元気らしいフランス兵が、赤い顔をしかめながら、銃剣で軽騎兵達を防いでいたが、ペーチャが駆けつけた時には、もう倒れてしまった。『また遅れた』と言う考えがペーチャの頭に閃いた。で、彼は銃声の頻繁に聞こえる方へ駆け出した。銃声の鳴り響いているのは、彼が昨夜ドーロホフと一緒に行った地主邸の庭であった。フランス兵は灌木の生え繁った庭の中で、編み垣の蔭に隠れながら、門のあたりに群がっているコサックを目がけて射撃していた。門の傍まで行き着くと、ペーチャは硝煙の中にドーロホフを見付けた。彼は緑色がかって見えるほど蒼い顔をして、何やら人々に叫んでいた。「迂回しろ! 歩兵を待て!」ペーチャが近づいた時、彼はこう叫んでいた。

「待てですって?……ウラーアア!……」とペーチャは叫んだ。そして一分の猶予もなく、銃声が聞こえ硝煙の濃く立ち込めている方へ駆け出した。

一斉射撃の音が聞こえた。逸れ弾がひゅうひゅう唸って通っては、何かに当たってぐしゃりと音を立てた。コサックとドーロホフとは、ペーチャに続いて門内へ駆け込んだ。フランス兵は揺れ動く濃い煙の中で、武器を棄てて灌木の陰からコサックの方へ駆け出す者もあれば、坂を下りて池の方へ逃げて行く者もあった。ペーチャは馬に乗って地主邸の庭を疾駆していた。そして手綱を押さえているべき両手を、奇妙に早く振り立てながら、次第に鞍の一方へ傾いて行った。馬は朝の光の中に消えなんとしている焚火に行き当たって、急に前足を突っ張った。ペーチャは湿った土の上へ重々しく落ちた。コサックたちは彼の頭が動かないのに、手や足がびくびく慄え出すのを見た。弾丸(たま)は頭を射ち抜いたのである。

刀に手巾(ハンカチ)をつけて家の蔭から現れて、投降を声明したフランスの古参将校と交渉を終った後、ドーロホフは馬から下りた。そして両手を投げ出したままじっと横たわっている、ペーチャの方に近づいた。

「往っちゃった」彼は顔を顰めながらこう言って、向こうからやって来るジェニーソフを迎えに門の方へ行った。

「やられたな?!」まだ遠くから見覚えのある姿勢――疑いもなく生の通っていないらしいペーチャの姿勢を見て、ジェニーソフはこう叫んだ。

「往っちゃった」この言葉を発音するのが、さも愉快ででもあるように繰り返しながら、ドーロホフは急ぎ足に俘虜の方へ行った。彼らは馬を下りたコサックに取り巻かれていた。「収容するのは止そう!」と彼はジェニーソフに向かって叫んだ。

ジェニーソフは返事をしなかった。彼はペーチャに近寄って馬を下り、血と泥に汚れてもう真青になったペーチャの顔を、慄える手で自分の方へ向けた。

『僕は何か甘い物を食べるのが癖になってしまいましてね。素晴しい乾葡萄ですよ。みんな食べて下さい』と言う言葉がふと思い出された。と、コサックたちは犬の吠えるような声が耳に入ったので、びっくりしてジェニーソフの方を振り向いた。彼はその声と共に急いでペーチャのそばを離れ、編み垣に近づいて両手をかけた。

ジェニーソフとドーロホフが奪い返したロシア俘虜の中には、ピエール・ベズーホフが交っていた。