戦争と平和 第十五編, レフ・トルストイ

十


フランス軍は数学的に正確な加速度でじりじりと溶けて行った。やかましく書き立てられたベレージナ渡河なども、ただフランス軍の滅亡の中間的段階の一つであって、決して戦役中の決定的挿話ではなかった。ベレージナのことがやかましく書き立てられたばかりでなく、現に今でも書き立てられつつあるのは、フランス側にして見ると、フランス軍がこれまでじりじりに受けていた災厄が、このベレージナ川の中断された橋の上で、とつぜん一瞬時に集中してしまって、永久に人々の記憶に残るような、一つの悲劇的光景を呈したからである。またロシア側がベレージナのことを、あれほどやかましく話したり書いたりする訳は、戦略の罠によって、ナポレオンをベレージナ川で捕虜にしようと言う計画が、またもやプフールによって、戦場から遠いペテルブルクで編成されたからである。人々はすべて計画通り実現されるものと信じていたので、ベレージナの渡河こそフランス軍を滅亡さしたものと主張した。しかしその実、ベレージナ渡河の結果は、数字の示す所によると、大砲や俘虜を失った点から見て、クラースノエ会戦ほどフランス軍の滅亡に効を奏さなかったのである。

ベレージナ渡河が有する唯一の意義は、ほかでもない、すべての遮断計画の不合理なことと、クトゥゾフ並びに全軍(群衆)の要求していた唯一の可能な行動――即ち敵軍追跡の正当なことが、この渡河によって、判然と明確に証明された点である。フランス兵の乱群は絶えず速力を増して、目的の到達に全精力を傾注しながら走った。彼らは傷ついた獣のように逃げていたので、中途で立ち止まるのは不可能であった。これは渡河の設備よりは、むしろ橋上の行動によって証明される。橋が中断された時、武器を持たない兵士や、フランス軍の輜重(しちょう)隊に加わっていたモスクワの住民や、子持ちの女達は、みな惰力に引きずられて、降服もせずに前へ前へと走って行って、小舟の中や凍った水の中へ飛び込んだのである。

この突進は合理的なものであった。逃走者も追撃者も、同じように悲惨な状態に置かれていたのである。味方と一緒に残っていたら、こうした災厄の場合であるから仲間の助けと、今まで占めていた一定の地位に望みを繋ぐ事が出来た。ところが、ロシア軍に投降すれば、不幸な境遇に置かれることは同じであったが、生活上の必需品分配に、一段下の取扱いを受けねばならない。ロシア軍の俘虜になった味方の半数が、飢餓と寒気のために死んだと言うことは、フランス軍にとって確報を待つまでもなく明白な事実であった。ロシア軍の方では、助けたいと言う希望を充分もっていたけれど、どうすることも出来なかったのである。実際これ以外どうも仕方がない、それはフランス側でも悟っていた。どんなに同情の深いロシアの長官も、フランスびいきも、ロシア軍に勤務しているフランス人も、俘虜のためにどうしてやることも出来なかった。ロシア人の置かれている不幸な境遇が、フランスの俘虜を破滅さしたのである。飢えている必要な兵卒からパンや被服を奪って、害もなければ憎くもなく、また何の罪もないけれど、ただ必要のないフランス兵にやるということは、不可能であった。中にはそうした人もあるが、それは要するに例外であった。

背後には確実な死があった。前途には希望があった。船は焼かれた。もうこうなっては一緒に塊って逃げるよりほかに、救われる途(みち)はなかった。そこでフランス軍はこの集合的逃亡に全力を注いだのである。

フランス軍が遠く逃げれば逃げるだけ、殊にペテルブルク案によって特別な望みを嘱(しょく)されていたベレージナ渡河の後、フランス軍の残兵が憐れな状態に陥れば陥るだけ、ロシア軍の指揮官一同の欲望はいよいよ激しく燃え立った。彼らはお互い同士――殊にクトゥゾフを非難した。ベレージナに対するペテルブルク案の失敗は、当然クトゥゾフの責任に帰すべきものと考えて、彼に対する不満、軽蔑、嘲弄はますます激烈になった。勿論、その嘲弄と軽蔑は極めて恭しい形式で現された。それはつまりクトゥゾフも、なぜどう言う点で自分を攻撃するのか、問い糾(ただ)す訳に行かないような形式なのであった。人々はクトゥゾフに報告する時も、その裁可を求めるときも、真面目に話をしないで、まるで厄介な儀式でも行うような風であった。そして蔭に回ると互いに目交ぜをして、一から十まで彼を欺こうとした。

これらの人々はことごとく、クトゥゾフを理解することが出来ないために、『あんな老人などと何も話すことはない。あんな老人に自分達の計画の深遠な意味を悟ることは不可能だ。ただ黄金の橋がどうだの、ごろつきの群集をつれて外国へ行くことは出来ないとか、色々と例の文句(彼らはこれをただ文句に過ぎないと思っていた)を並べるだろう』と決めてしまっていた。こんな事はみんなもうとっくに聞かされていた。老人の言う事――例えば糧食の到着を待たなければならない、兵士は靴も穿かずにいる――などと言うようなことは、みんな平凡なことであるが、彼らの提議するところはことごとく複雑で、深い知力の所産であった。従って彼らに言わせれば、クトゥゾフは馬鹿の老いぼれで、自分達は権力を与えられない天才的指揮官である、それはもう分かり切った事であった。

殊に名声赫々(めいせいかくかく)たる提督でペテルブルクの勇士なる、ヴィトゲンシュタインの軍が合して以来、こうした一般の気分と司令部独特の陰謀は極度にまで達した。クトゥゾフはこの有様を見ながら、ただ溜息をついて肩をすくめるだけであった。ただ一度ベレージナ会戦の後、彼は非常に腹を立てて、個人的に皇帝へ報告を送っていたベニグセンにあてて、次のような手紙をしたためたことがある。

「閣下には病的発作に悩み居られ候由につき、この状、御落手と共にカルーガへ御出発の上、同地にて皇帝陛下より向後(こうご)の命令並びに任務を御待ちあって然るべく候」

しかしベニグセンの左遷後、続いてコンスタンチン・パーヴロヴィッチ大公が軍隊へ到着した。大公は戦役開始の際その局に当たっていたが、クトゥゾフのために、軍隊から遠ざけられたのである。今また大公は軍を訪れて、皇帝が友軍の微弱な成功と緩慢な行動に対して、不満を感じていらせられること、並びに皇帝自身、近々に戦地へ行幸の意向を抱いていられることを、クトゥゾフに報じた。

軍事上と同じく宮中の事にも経験のある老クトゥゾフ――その年の八月、皇帝の意志に反して総指揮官に選まれたクトゥゾフ――皇太子や大公を軍中から遠ざけたクトゥゾフ――皇帝の意志に逆らって、自分の権力でモスクワの放棄を命じたクトゥゾフ――このクトゥゾフは即座に一切を悟った。もう自分の時は終った、自分の役目は済んだ、この似て非なる権力はもはや自分の掌中にない、という事を悟ったのである。彼はただ宮中関係のみで、これを悟ったのではない。一方から見ると、自分の役割を演ずべき軍事行動が、終りを告げたことを知り、自分の使命が果されたことを感ずると同時に、いま一方からは自分の老軀の生理的疲労と、休息の必要を感じ始めたのである。