戦争と平和 第十五編, レフ・トルストイ

十八


ピエールは明るい大きな食堂へ案内された。幾分かの後、足音が聞こえて、マリヤとナターシャが部屋へ入って来た。ナターシャはすっかり落ち着いていたが、その顔にはまたもや微笑の陰もない、厳つい表情が凝結していた。マリヤもナターシャもピエールも、同じようにばつの悪い感じを味わった。それは普通まじめな打ち明け話をした後で襲って来るものである。前の話を続けることは出来ないし、つまらない話をするのも気が咎める、がそれかと言って、黙っているのも面白くない。つまり話がしたいからである。それに黙っているのはわざとらしいような気がする。彼らは無言のまま卓子に近づいた。侍僕らは椅子を後ろへ引いてまた寄せた。ピエールは冷たいナプキンを拡げた。そして沈黙を破ることに決心して、ナターシャとマリヤの方を眺めた。二人も同時におなじ決心をしたらしい。二人の眼には生の満足の表情と、悲しみ以外に喜びもあると言う承認の色が輝いていた。

「伯爵、あなた火酒(ウォートカ)を召しあがって?」とマリヤは言った。するとこの言葉がにわかに過去の影を追い払ってしまった。「少しご自分のお話を聞かして下さいましな」とマリヤは言った。「あなたのお身の上については、途方もない奇跡のようなお話を世間でしているんですもの」

「そう」今では習慣になったつつましい嘲笑を浮べながら、ピエールはこう答えた。「世間の人はわたしが夢にも見たことのないような奇跡を、わたし自身に話して聞かしてくれます。マリヤ・アブラーモヴナはわたしを招待して、わたしが出くわしたこと、と言うより、むしろ出くわすべき筈であった事を、残らずわたしに聞かせてくれましたし、ステパン・ステパーヌイチもやはり同様、どう言う塩梅に話すべきものかって事を、ちゃんと伝授してくれましたよ。とにかく、面白い人間になるのは、非常に楽なものだということを知りました(わたしは今、面白い人間なんですからね)みんながわたしを呼んで、わたしに話して聞かせてくれます」

ナターシャはにっこりして、何か言おうとした。

「わたし共の聞きましたところでは、」とマリヤはそれを遮った。「あなたはモスクワで二百万ルーブリの損害をお受けになったそうですね。本当でございますか?」

「ところが、わたしは三倍から金持ちなりました」とピエールは言った。

妻の負債と建築の必要のため、事態が変更したにも拘わらず、ピエールは依然として、三倍から金持ちなったと言い続けた。

「わたしが間違いなく勝ち得たものは何かというと、」と彼は言った。「それはつまり自由です……」と彼は真面目に言いかけた。しかし、それは余り利己的な話題だと気がついて、その話を続けるのは考え直した。

「ときに、あなたご普請をなさいまして?」

「ええ、サヴェーリッチの命令ですから」

「あなたはモスクワにいらっした時分、奥様がお亡くなりになったのを、ご存じなかったんですの?」とマリヤは言ったが、すぐさま顔を赤くした。彼が自由になったと言った後で、こんな問いを持ちかけるのは、当人の考えてもいないような意味を、その言葉に与えることになると気がついたからである。

「ええ」自由という言葉に対するマリヤの解釈を、格別不都合とも思わないらしく、ピエールはこう答えた。「わたしはオリョールでそれを知りました。わたしがどんなにその報知に驚いたか、あなたはとても想像がおつきになりますまい。わたし達は模範的な夫婦じゃありませんでした」彼はナターシャをちらと見て、自分が妻に対してどんな批評を下すかと言う好奇心が、その顔に現れているのに気がつくと、早口にこう言った。「しかしあれの訃報は強くわたしを打ちました。二人の人間が喧嘩をした場合、それは必ず両方とも悪いのです。そして相手の者がいなくなってしまうと、その人に対する自分の罪が急に恐ろしく重くなって来ます。それに、あんな死に様ですからねえ……友達もなければ慰めもない……わたしはあれが実に、実に可哀そうでならないのです」彼はこういって言葉を結んだが、ナターシャの顔に喜ばしげな同意の色を認めて、満足を禁じ得なかった。

「ねえ、あなたはまた独り身になって、求婚者の資格がお出来になりましたのね」とマリヤは言った。

ピエールは不意に真赤になった。そして長い間ナターシャを見ないように努めた。やっと思い切ってその方を見た時、彼女の顔は冷たく厳かで、侮蔑の色さえ浮んでいるように思われた。

「だけど噂によりますと、あなたはナポレオンに会ったり、話をしたりなすったそうですけれど、一体本当なんでございますか?」とマリヤは言った。

ピエールは笑い出した。

「一度も、決してそんなことはありません。あなた方は誰でも、捕虜になると言うことを、ナポレオンのお客になると同じように思ってらっしゃるんですね。ナポレオンなんか見たことがないばかりか、噂を聞いた事もありません。わたしはずっと下等な仲間に入っていたのですから」

晩餐は終りに近づいた。初めピエールは、自分の俘虜生活の話を拒んでいたが、段々その方へ引き込まれて行った。

「だけどあなたがナポレオンを殺そうと思って、モスクワへお残りになったのは本当でしょう?」ナターシャは軽くほほ笑みながらこう訊いた。「スーハレヴァ塔の傍でお会いした時、わたしもう察していましたわ、憶えていらっしゃいまして?」

ピエールは本当だと白状した。そしてこの問いを口きりにして、マリヤの問い――殊にナターシャの問いに誘い出されながら、次第に詳しい冒険物語へ引き込まれて行った。

初めのうちは、彼がこのごろ世間一般の人々、殊に自分自身に向けている、つつましやかな嘲笑の眼つきで話をしていたが、やがて自分が実験した恐怖と苦痛の物語になると、彼は自分でも知らないうちに夢中になってしまって、いかにも強い印象を回想の中で繰り返す人らしく、興奮を抑えるような様子で話し始めた。

マリヤはつつましい微笑を浮べながら、時にピエール、時にナターシャを見比べていた。彼女はこの話の中にただピエールと、その善良な心を見たのみである。ナターシャは肘突きをしたまま、話につれて絶えず顔の表情を変えながら、一分間も目を放さないでピエールを見まもっていた。見うけたところ、ピエールの話すことを、話手と一緒に体験しているらしかった。彼女がピエールの物語の中でも、殊に当人の伝えたいと思う所を、ちゃんと理解していると言う事は、単にナターシャの眼付きばかりでなく、時々発する驚嘆の声や短い質問によって、ピエールにはっきり分かっていた。明らかにナターシャは、ピエールの物語った事ばかりでなく、彼が話したいと思いながら、言葉で現せないような点まで悟ったらしい。赤ん坊と婦人を庇おうとして捕われた条(くだり)になると、ピエールは次のように説明した。「それは実に恐ろしい光景でした。子供達は投げっ放しにされて、中には火の間へ残されたのもあるくらいです……現にわたしの目の前で一人の子供が引き出されました……女は持ち物を剥ぎとられたり、耳環を引き千切られたりしてるじゃありませんか……」ピエールは顔を赤くして口籠った。

「そこへ巡視隊がやって来て、掠奪しない者を、男という男をみんな捕まえてしまったのです。わたしもつかまりました」

「あなたはすっかり話していらっしゃるのじゃないんでしょう。あなたはまだ何かなすったんでしょう……」とナターシャは言って、ちょっと口を噤(つぐ)んだ。「何か立派な事を」

ピエールは先へ先へと話し続けた。死刑の話を始めた時、彼は恐ろしい詳細(ディテール)を抜いてしまおうとしたが、ナターシャは何一つ抜かないでほしいと要求した。

ピエールはカラターエフの事を話しかけたが(彼はもう卓子を離れて歩いていた。ナターシャは目でその後を追っていた)、急に言葉を切った。

「いや、わたしがこの無学な人間から――馬鹿者からどんな事を学んだか、あなた方はとてもお分かりになりますまい」

「いいえ、いいえ、話して下さい」とナターシャは言った。「その人はどこにいますの?」

「殺されました、ほとんどわたしの眼の前で」

ピエールはフランス軍退却の最後の状況や、カラターエフの病気や(ピエールの声は絶えず慄えていた)、彼の死などを語り始めた。

ピエールは今まで回想した時とはまるで別な心持ちで、自分の冒険談を物語った。彼は今、自分の経験したすべての中に、新しい意味を見出したような気持ちがした。彼は今これ等すべての事をナターシャに物語っているうちに、女性を聞き手にしている時にのみ感じ得る、極めて稀な幸福感を味わったのである。但しそれは男の話を聞きながら、自分の知恵を豊富にするために、自分の聞いた話を記憶して、ある場合にはそれを人に受け売りしたり、ある場合にはその話に自分の考えを調合して、自分の小さい理知の工場で作り出された聡明な言葉を、少しでも早く発表しようなどと骨を折る、怜悧な婦人が与える幸福ではなくて、男の言葉からすべて善きものを選り出して、自分の内部へ吸収する能力を賦与された、女らしい女が与える幸福であった。ナターシャは自分でそれと気が付かなかったが、全身ことごとく注意に化していた。彼女は、ピエールの語る一言半句も、声の慄えも、眼つきも、顔面筋肉の慄えも、身振りも、何一つ聞き洩らしたり見逃したりしなかった。彼女はまだ言い終らない言葉を宙に受けとめて、ピエールの内部作用全体の神秘な意味を察しながら、それを自分の開け放した心へ直接うけ入れるのであった。

マリヤは物語の意味を理解して同情したが、やがてふとそれ以外のあるものに気が付いて、すっかりその方に注意を呑まれてしまった。彼女はナターシャとピエールとの間に、愛と幸福の可能を見出したのである。すると、初めて心に浮んだこの思い付きは、マリヤの心を喜びに満たした。

もう夜の三時であった。沈んだ鹿爪らしい顔付きをした侍僕らは、蝋燭を取り換えに入って来たが、誰もそれに気が付かなかった。

ピエールは物語を終った。ナターシャは輝かしく生き生きした眼つきで、じっと注意深くピエールを眺め続けた。それはちょうど、もし何かまだピエールの言わない事があったら、それも知りたいものだ、とでも言うような風であった。ピエールは恥ずかしいような幸福に充ちた困惑を感じながら、ときどき彼女の方を見やった。そしてそろそろ話頭を転じるには、今度どんな話をしたものかと考えていた。マリヤは黙っていた。いま夜中の三時で、もう寝る時刻だなどと言う考えは、誰の頭にも浮ばなかった。

「不幸だ、苦痛だ、と皆は言いますが、」とピエールは言った。「もし人が今わたしに向いて、捕虜になる前のままでいたいか、それとも、もう一度初めからあんなことを残らずやり直したいかと訊いたら。わたしはどうかもう一度捕虜になりたい、馬の肉を食べたいと言うでしょう。わたし達は踏み慣れた生活の軌道から放り出されると、もう万事休すと思ってしまいます。ところが、実際はそこに初めて新しい善いものが始まるのです。命のある間は幸福があります。前途には多くのものが、本当に多くのものがありますよ。わたしは敢えてこう言います」彼はナターシャの方へ向いてこう言った。

「ええ、ええ」彼女はまるで別な考えに答えながらこう言った。「わたしも他に何の望みもありませんわ。ただ初めからすっかりやり直すことさえ出来たらばねえ」

ピエールは注意深く彼女を見つめた。

「ええ、他になんにもありませんわ!」とナターシャはもう一度確かめるように言った。

「嘘です、嘘です」とピエールは叫んだ。「わたしが現に生きていて、そしてこれからも生きて行きたいと思っているからって、それは何もわたしの罪じゃありませんからね。あなただって矢張りそうです」

ナターシャは不意に顔を両手に落として泣き出した。

「どうなすったの、ナターシャ?」とマリヤは言った。

「どうもしません、どうもしません」ナターシャは涙の隙からピエールにほほ笑みかけた。「さよなら、もう休む時分ですわ」

ピエールは立ち上がって別れを告げた。

マリヤとナターシャはいつもの通り寝室で一緒になった。二人はピエールの話した事を語り合った。マリヤはピエールに対する意見を述べなかった。ナターシャもやはり何も言わなかった。

「じゃ、おやすみなさい。マリイ」とナターシャは言った。「わたしはねえ、わたし達二人が自分の感情を穢すまいと思って、あの人(アンドレイ公爵)のお話をしないでいるうちに、だんだんあの人のことを忘れて行くのが、始終こわいように思われますの」

マリヤは重々しく吐息をついた。彼女はこの溜息によって、ナターシャの言葉の正しさを承認したが、言葉では彼女に同意しなかった。

「一体忘れるなんてことが出来るでしょうか?」とマリヤは言った。

「今夜すっかり話してしまって、わたしほんとにいい気持ちだったわ」とナターシャは言った。「あの人はほんとにピエールさんを愛していらしったに違いないと思って、それでわたしあの方にお話ししたんですの……あの方にお話ししたって構わないでしょう?」彼女は顔を赤くしながら、出しぬけにこう訊いた。

「ピエールさんに? ええ、構いませんとも! ほんとにあの方は立派な人なんですもの」とマリヤは言った。

「ねえ、マリイ」不意に悪戯っ子らしい微笑を浮べながら、ナターシャはこう言った。マリヤはもう長いこと彼女の顔に、こう言う微笑を見なかった。「あの方は何だか、こうさっぱりとすべっこくて、生き生きしたようにおなんなすったわねえ、まるでお湯から出たように、あなたおわかりになって?――精神的にお湯から出たようなのよ、ね?」

「そうね」とマリヤは言った。「あの方、いろんなものを獲てお帰りになりましたわ」

「短いフロックコートを着て、頭を刈り込んで、まるで、本当にまるでお湯から出た時のようねえ……お父様がよく……」

「あの人(アンドレイ公爵)は誰よりも一番ピエールさんを愛していましたが、それはよく分かりますわ」とマリヤは言った。

「それにピエールさんはあの人とまるで違ってらっしゃるんですの。お互いにまるっきり違った男のかた同士は仲がいいって言いますが、確かにそうに違いないわ。ねえ、あの方はあの人にまるで似てらっしゃらないわねえ、すこしも?」

「そうね、だけどいい人ですわ」

「じゃ、おやすみなさい」とナターシャは答えた。

例の悪戯っ子のような微笑は、忘れられたように、長いあいだ彼女の顔に残っていた。