戦争と平和 第十五編, レフ・トルストイ

十九


その夜ピエールはいつまでも寝入ることが出来なかった。顔を顰めて何か難しいことを考え込んでいるかと思うと、不意に肩をすくめて身慄いしたり、嬉しそうにほほ笑んだりしながら、部屋の中をあちこちと歩き回っていた。

彼はアンドレイ公爵や、ナターシャや、二人の恋など考えた。そして過去のナターシャに嫉妬したり、そうする自分を責めたり、また赦したりした。もう朝の六時であったが、彼はいつまでも部屋の中を歩いていた。

「いや、仕方がないじゃないか、これがもう止むを得ないことだとすれば? 仕方がない?! つまり、こうならなくちゃならないんだろう」彼はこう独り言ちて急いで服を脱ぎ、幸福な興奮に捕われながら床(とこ)についた。けれどもう疑惑も躊躇もなかった。

「この幸福がどれほど不思議に、どれほどあり得ないことに思われようとも、おれとあの女が夫となり妻となるように、出来るだけの事をしなければならない」と彼は腹の中で考えた。

ピエールはこの四、五日前に、ペテルブルクゆきを金曜日に決めていた。彼が木曜日に目を覚ました時、サヴェーリッチが荷造りの命令を聞くために、ピエールの居間へ入って来た。

『ペテルブルクゆきだって? ペテルブルクとは何だ? 誰がペテルブルクにいるんだ?』とピエールは心の中ではあったが、思わず知らず自問した。『そうだ、まだあの事が始まらない前に、おれは何のためだかペテルブルクへ行くつもりでいたんだ』と彼は思い出した。『なに、いいさ! あるいは行くかも知れないさ。この男は何と言う善良な、注意深い人間だろう。何でも覚えている!』サヴェーリッチの老人らしい顔を見ながら、彼はこう考えた。『それに何と言う気持ちのいい笑顔だろう!』と彼は考えた。

「どうだ、サヴェーリッチ、お前はやはりいまだに自由になりたくないのか?」とピエールは訊いた。

「御前(ごぜん)、わたくしなど自由を頂いて何と致しましょう? お亡くなりなされた先殿様――神よ、天国に休らわせ給え――の時からご奉公しておりますし、あなた様のお代になっても、一度もお怨み申すような事はございませんでした」

「そう、だが、子供達は?」

「子供達も、はい、喜んでご奉公いたすことでございましょう。あなた様のような方にご奉公するのは幸せでございます」

「そうか、だが、おれの後継ぎになったら?」とピエールは言った。「急におれが結婚したら……それもない事とは言われないぜ」彼は思わず微笑を浮べてこう付け加えた。

「憚りながら、御前様、それはまことに結構なことでございます」

『何て手軽に考えてるんだろう』とピエールは考えた。『これがどんなに恐ろしい、どんなに危険な事か知らないでいる。余り早すぎるか、それとも遅すぎるか……とにかく恐ろしい!』

「それでいかが遊ばします? 明日お立ちなさりますか?」とサヴェーリッチは訊いた。

「いや、少し延ばそう。そのとき改めて言うよ。どうも面倒を掛けて済まなかったなあ」とピエールは言った。そしてサヴェーリッチの微笑を見ながら考えた。『だが、それにしても何て奇妙な話だろう――今はペテルブルクなどまるで問題じゃなくなって、何よりもまずあの事が決まらなければならないのに、それを知らないなんて。だが、サヴェーリッチは確か知ってるに相違ない。ただ知らない振りをしてるだけなんだ。一つ話して見ようかな? 一体何と思っているだろう?』とピエールは考えた。『いや、いつか後で言おう』

朝の食事の時、ピエールは公爵令嬢に向かって、昨日マリヤの家へ行ったところ、そこで意外な人にあった、それは一体誰だと思う? ナターシャ・ロストーヴァではないか、というような調子で話をした。

公爵令嬢はこの話に一向特別な意味を見ないで、ピエールがアンナ・セミョーノヴナに会ったと言うのと、同じくらいにしか思っていないような顔つきをした。

「あなたはあの女(ひと)を知っていますか?」とピエールは訊いた。

「マリヤさんには会ったことがあります」と彼女は答えた。「あの方をロストフの息子さんに、世話する人があったとか、そういう話だけ聞きましたの。それはロストフ家にとって大変結構な事ですわ。あそこもすっかり駄目になったと言う事ですから」

「そうじゃありません、あなたロストーヴァを知っていますか?」

「あのときのお話だけは聞きましたが、ほんとにお気の毒でしたねえ」

『いや、この人には分からないんだ、それとも分からない振りをしているのかも知れない』とピエールは考えた。『この人にも矢張り話さない方がいい』

公爵令嬢も同様にピエールの旅行中の食物を支度した。

『みんな何と言ういい人達ばかりだろう』とピエールは考えた。『こんなことなんかもう面白い筈がないのは、あの人達にもちゃんと分かっているのに、何だってあんな事ばかり一生懸命にしてるんだろう。しかも、それがみんな俺のためなんだから、実に驚く』

この日ピエールの所へ警察署長が来て、今日、持ち主に返還される品物を受け取りに、代理の人を多角宮殿(グラノヴィータヤ・パラータ)へよこして貰いたいと申し入れた。

『この男もそうだ』ピエールは警察署長の顔を見ながら考えた。『何と言う立派な美しい将校だろう。そして何と言う親切な人だろう! 今の場合こんな下らない事に世話を焼くなんて。それだのに、この男は不正な人間で、賄賂を取ると言う噂があるんだからなあ。何と言う馬鹿馬鹿しい話だ! 一体どうしてこの男が賄賂を取ってはいけないんだろう? この男はそう言う教養をうけて来たんだ。それにみんなそうしているんじゃないか。実に気持ちのいい善良そうな顔付きをして、おれを見ながらにこにこしている』

ピエールは公爵令嬢マリヤの許(もと)へ晩餐によばれて行った。

焼け跡の続いた街々を通り過ぎながら、彼はこれらの廃墟の美に驚いた。家々の煙突や崩れた壁などが、ラインやコロセウム(イタリアのローマの中心部にある、ローマ帝政時代に建てられた円形闘技場)を想わせるほど美しく、互いに遮り合いながら、焼けた街区に続いていた。行き合う辻待ち馭者や、車に乗った人達や、家の骨組を造っている大工や、行商の女や、小店商人など――みな楽しそうな輝かしい顔でピエールを見た。そして『ああ、あれがそうだよ! あの事がどんな風になるか見ものだぜ』とでも言っているようであった。

公爵令嬢マリヤの邸へ入った時、ピエールは自分が昨日ここへ来てナターシャと会い、彼女と話をしたのが、本当かどうかと疑い始めた。『あれはおれの考え出したことかも知れない。事によったら、入って行っても、誰もいないかも知れない』けれど彼はまだ部屋へ足を入れないうちから、ちょっと一瞬間自由を失った事によって、彼女の存在を直覚した。彼女は昨日と同じ柔らかい襞のある黒衣を着けて、昨日と同じような頭をしていたが、その表情はすっかり変わっていた。もし昨日、彼が部屋へ入った時にも、こう言う表情をしていたら、たとえ一分間でも、彼女を見違えるようなことは有り得なかったろう。

彼女はもとの彼女であった。最初ピエールがほとんど子供として、次にアンドレイ公爵の許嫁として、始終見馴れていたナターシャであった。彼女の眼には楽しげな不審の輝きがあった。顔には妙にふざけた愛想のいい表情が現れていた。

ピエールは食事をよばれた。そして一晩中でも腰を据えていたかったのだが、マリヤが晩の祈祷に出かけたので、彼も一緒に辞し去った。

翌日ピエールは早くから訪問して食事を共にし、一晩中、遊んで行った。マリヤとナターシャは明らかにこの来客を喜んでいたにも拘わらず、またピエールの生活興味が全部をあげて目下この家へ集中されていたにも拘わらず、晩になると話が尽きてしまって、話題は絶えずつまらない問題から問題へと移って行って、ともすれば途切れがちであった。ピエールはこの晩非常に遅くまで長居したので、マリヤとナターシャは、もう帰りそうなものだと待ち兼ねたように、互いに目くばせをするのであった。ピエールはそれに気が付いたが、どうも帰ることが出来なかった。彼は間が悪くて居辛くなったが、それでもまだじっとしていた。彼は立ち上がって帰ることが出来なかったのである。

マリヤは何時までたっても果てしがないと見て取ったので、第一番に席を立って、頭痛を訴えながら別れの挨拶を始めた。

「では、あなた明日ペテルブルクへお立ちでございますか?」と彼女は言った。

「いや、わたしは立ちませんよ」ピエールはびっくりして、まるで侮辱でもされたように、急いでこう言った。「そう、いや、ペテルブルクですって? 明日です。しかし今日はお別れを申しません。またおことづけを聞きにお寄りします」マリヤの前に立ったまま顔を赤くして、出て行こうともせずにこう言った。

ナターシャは彼に手をさし伸べて出て行った。マリヤは反対に出て行こうとしないで、そのまま安楽椅子に腰をおろし、例の輝かしい深い目付きで、きっと注意深くピエールを見つめた。つい今しがたまざまざと見せていた疲労の色が、今ではもうすっかりなくなっていた。彼女は長物語を始めようとでもするらしく、重々しく長い溜息をついた。

ピエールの当惑と気まずさは、ナターシャが去ると共にたちまち失せて、興奮した活気の色に変わった。彼はいきなりマリヤの傍ちかく安楽椅子を進めた。

「ええ、わたしもちょうどあなたにお話ししたいと思っていたんです」彼はまるで向こうから何か言われたように、彼女の視線に答えながらこう言った。「公爵令嬢、わたしにお力を貸してください。一体どうしたらいいんでしょう? 望みがあるでしょうか? ねえ、どうかわたしの言うことをすっかり聞いて下さい。わたしは何もかも知っています。わたしは自身があの人に値しないことも知っています。今こんな話の出来ないことも知っています。けれどわたしはあの人の兄弟になりたいのです。いや、そんなことじゃありません、そんなことを望んでいるのじゃありません、それは出来ないです……」

彼は言葉を切って、両手で顔と眼をこすった。

「そこで、つまり、」辻褄の合った話をしようと、努力しているらしく、彼はこう言葉を続けた。「いつ頃からあの人を愛しているのか、わたしには分かりません。が、とにかくわたしはあの人ひとりを、今までただあの人ひとりだけを愛していたのです。あの人のない生活は想像することも出来ないほど、深く愛しているのです。わたしは今あの人に結婚を申し込む勇気はありません。しかし事に依ったら、あの人を自分のものにすることが出来るかも知れない……それだのにその可能……その可能を……取り逃してしまうかも知れないと考えると、わたしは恐ろしいのです。どうでしょう、言って下さい、望みがあるでしょうか? ねえ、どうしたらいいでしょう? マリヤさん!」彼はしばらく黙っていたが、マリヤが何とも答えないので、その手に軽く触れながらこう言った。

「わたし、あなたの仰しゃったことを考えていますが、」とマリヤは答えた。「わたしのご返事はこうですの。全くあなたの仰しゃる通り、いま愛情のことなどあの人に話すのは……」

マリヤは言葉を切った。愛情のことなど今あの人に話すことは出来ないとこう彼女は言いたかったのであるが、急に変わったナターシャの様子から推して、たとえピエールが自分の恋を打ち明けても、彼女は侮辱を感じないばかりか、却ってそれを望んでいるかも知れないと言うことを、もう一昨日あたりから見抜いていたので、それで言葉を切ったのである。

「今あの人に言うことは……出来ませんわ」マリヤはとにかくこう言った。

「しかし、わたしはどうしたらいいでしょう?」

「わたしに任せて下さいませんか」とマリヤは言った。「わたし呑み込んでいますから……」

ピエールはマリヤの眼を見た。

「ええ、ええ」と彼は言った。

「わたしはね、あの人があなたを愛している……いえ、愛するようになるって事を、ちゃんと知っていますの」とマリヤは言い直した。

彼女がこれだけのことを言ってしまわないうちに、ピエールはいきなり飛び上がって、怯えたような顔付きでマリヤの手を握った。

「なぜそうお考えになります? じゃ、あなたは望みがあるとお考えなんですね? あなたそうお考えになるんですね!」

「ええ、そう考えますわ」とマリヤは微笑しながら言った。「あなたは親許へ手紙を出して、後はわたしに任せて下さいまし。時を見はからって、わたしからあの人に話しますわ。わたしもそれを望んでいるのですから。きっとそうなるような虫の知らせが致しますわ」

「いいえ、そんな筈はありません! ああ、わたしは何て幸福な人間でしょう! しかしそんな事はない……わたしは何て幸福な人間でしょう! いや、そんな筈はありません!」マリヤの両手に接吻しながら、ピエールはこう言った。

「あなたはペテルブルクへいらっしゃいまし。その方がようございますわ。わたしが手紙でお知らせ致しますから」と彼女は言った。

「ペテルブルクへ? 行くんですって? ええ、宜しい、行きましょう。しかし、明日お寄りしてもいいでしょうね?」

翌日ピエールは暇乞いに来た。ナターシャは前ほど活気づいていなかった。けれどこの日ピエールは、時々彼女の眼を見やる度に、自分というものが消えて行きそうな気がした。もう自分も彼女もなくなって、ただ一つの幸福だけが残っているように感じた。『本当にそうだろうか? いや、そんな筈はない』心を悦びに充たす彼女の眼(まな)ざしや、身振りや、言葉など見たり聞いたりする度に、彼はかり独り言つのであった。

ナターシャに別れを告げながら、彼女のほっそりと痩せた手を握った時、彼は思わず少しの間、その手を自分の掌の中に押さえていた。

『この手、この顔、この眼――おれに取って縁の遠いこうした女性美の至宝が、みんな永久に俺のものとなるのだろうか、自分自身と同じように当たり前なものとなるのだろうか? いや、それはあり得べからざることだ!……』

「伯爵、ご機嫌よろしゅう」と彼女は大きな声で言って、「わたし本当にお待ちしていますわ」と囁くように付け足した。

この単純な言葉と、そう言った時の眼ざしと顔の表情は、まる二ヶ月の間ピエールのために、汲めども尽きぬ思い出と、説明と、幸福な空想の種となったのである。『わたし本当にお待ちしていますわ……そう、そう、あの人はなんと言ったけ? そうだ、わたし本当にお待ちしていますわ! と言ったのだ。ああ、俺は実に幸福だ! これはなんとした事だろう、おれは何て幸福な人間だろう!』とピエールは独り言つのであった。