戦争と平和 第十五編, レフ・トルストイ

二十


同じような事情の下にありながら、エレンとの婚約当時のようなことは、今ピエールの心の中にまるで一切起こらなかった。

今、彼はあの時のように、病的な羞恥を感じながら、自分の言った言葉をくり返さなかった。それからまた、『ああ、俺はなぜこの事を言わなかったろう? なぜ、一体なぜおれはあの時、Je vous aime(私はあなたを愛しています)などと言ったんだろう?』と独語しなかった。それどころか、今は彼女の言葉と自分の言葉を、一つ一つ想像の中で繰り返しながら、その時の顔つきや微笑まで細々と思い浮べて、何一つ取り除けたり付け加えたりしようとしなかった。ただただ繰り返したいばかりであった。自分のした事は良い事か、それとも悪い事か? と言うような疑いは、いま影さえも射さなかった。ただ一つの恐ろしい疑念が、時々彼の頭に浮んだ。『これはみんな夢ではないだろうか? マリヤさんが思い違いをしたのじゃなかろうか? 俺は余り高慢で、自惚れが強すぎはしないだろうか? 俺はこうして信じ切っているが、案外マリヤさんが打ち明けると、あの人はにっと笑って、「まあ、おかしいわねえ! あの方はきっと思い違いをしてらっしゃるのよ。あの方はご自分がただの人間だと言うことを御存じないのかしら? ところが、わたしは?……わたしはまるっきり別なものよ、一段高尚なものよ」と答えるかも知れない、きっとそうに違いないのだ』

ただ一つこの疑念が始終ピエールの心に浮んだ。彼は今もうまるで何一つ計画をしなかった。ピエールの目には、まさに来らんとする幸福が、到底あり得べからざるもののように思われたので、一旦この幸福が成就されたら、もうその後は何事も有るべき筈がない、何もかも終りを告げてしまうのだ、と言うような気がした。

ピエール自身でも、到底そんな素質をもっていないと思っていた、喜ばしい、思い掛けない狂熱の状態が、突然彼の全幅を領した。単に彼一人のみでなく、世界じゅうすべての人にとって、人生のすべての意味は彼自身の恋と、それに対する彼女の愛の可能と――それ一つにのみ含まれているように思われた。どうかすると、すべての人がただ一つの事――彼の将来の幸福のみ、気遣っているように思われた。また時によると、人々はみな彼自身と同じように喜びを感じながら、ほかの興味に没頭しているように見せかけて、この喜びを隠そうと努力しているに過ぎない、とこう言う風に思われる事もあった。彼は人々の一言一行に、自分の幸福に対する暗示を見た。よく彼は秘密な同意とでもいうようなものを現している、幸福らしい意味ありげな眼つきや微笑などで、出会った人々を驚かすのであった。けれど人は自分の幸福を知らないでもいられるのだ、と言うことを悟ると、彼は心底からその人達を憫(あわ)れんだ。そして彼らの没頭しているすべての事が、些かの注意にも値しない馬鹿げきった、つまらないものだと言うことを、何とか説明してやりたくて堪らなかった。

事件をかくかくしかじかと解決する事によって、万人の幸福が左右されるように考えながら、一般の国家的問題や戦争などを議論したり、または彼に就職を勧めたりする人があると、ピエールは寛大な憐れみの微笑を浮べながら、奇怪な意見によって相手をびっくりさせた。しかし人生の真の意味――即ち彼の感情を、理解しているように思われる人も、また理解していないらしい不幸な人も、すべて皆この時分には、彼の内部に煌々と輝いている感情の光を浴びて、ピエールの心眼に映し出されるのであった。それ故ピエールはどんな人と出会っても、少しも骨を折らないで、すぐその人の中に潜んでいる、愛に価(あたい)する美しいものを、洩れなく見抜いてしまった。

亡き妻の財務や書類などを調べている時でも、いま自分が味わっている幸福を、彼女が知らずに過ごしたのを憫(あわ)れむほか、彼女の記憶に対して何の感じをも持つことが出来なかった。今度あたらしい地位と勲章を授かって、特に傲然としているワシーリイ公爵も、彼に取っては涙ぐましいほど人の好い、哀れな老人としか思われなかった。

ピエールは後で度々この幸福な狂熱時代を追想した。彼がこの時分人間や事件にくだした判断は、すべて永久に正確なものとして保存された。彼はその後になっても、人間や事物に対するこうした見方を斥けなかったばかりでなく、かえって内部の疑惑や矛盾に出くわす度に、この狂熱時代に抱いていた見方の助けを借りた。そしてこの見方はいつでも正確なのであった。

『事に依ったら』と彼は考えた。『おれはあの時分、奇妙で可笑しく思われたかも知れない。が、しかしおれはあの時分、皆が思うほど気ちがいじみてはいなかった。却っておれはあの時分が一番利口で、洞察力に富んでいた。人生において理解に価値するものはことごとく理解していた。なぜって……おれは幸福だったからだ』

ピエールの狂熱の特異な点は、以前と違って他人を愛するのに個人的原因によらないで(それを彼は人間の美点と名づけていた)愛の満ちあふれた心で、理由なしに他人を愛しつつ、常にその人を愛するに足る明白な理由を見出すという事であった。