戦争と平和 第十五編, レフ・トルストイ

二十一


ナターシャが最初の晩ピエールの帰った後で、嬉しそうな嘲るような微笑を浮べながら、マリヤに向かって、「あの方はフロックを着て、頭を刈り込んで、まるで、本当にまるでお湯から出た時のようねえ」と言ったその時から、彼女の心の中に奥深く隠されていた、自身にも分からないながら、打ち勝つことの出来ない何物かが、急に目を覚ましたのである。

何もかも――顔つき、歩き振り、眼(まな)ざし、声――すべて彼女の体に属するものが、がらりと変わってしまった。彼女自身にとっても思い掛けない生活力と、幸福の希望が外部に浮び出て、満足を要求するのであった。もうその晩からナターシャは、自分の身に起こったことを、すっかり忘れてしまったかのようであった。彼女はそのとき以来、一度も自分の境遇に愚痴をこぼさなかったし、また一口も過去の事を言わなかった。そしてもう楽しい将来の計画を描くことを恐れなかった。彼女は余りピエールの噂をしなかったが、マリヤが彼のことを口に出すと、久しく消えていた輝きが彼女の眼の中に燃え出して、その唇は異様な微笑のために襞をよせた。

ナターシャに起こった変化は初めマリヤを驚かせたが、やがて彼女が本当の意味を悟ったとき、この変化は彼女を悲しませた。『こんなに早く兄を忘れる事が出来るなんて、それほどあの人の愛し方は浅かったのかしら』ナターシャの心に起こった変化を一人で思いめぐらす時、彼女はこう考えるのであった。けれどナターシャと一緒にいると、彼女は腹も立てなければ、非難もしなかった。ナターシャを捉えた生活力の目覚めは、彼女自身にとってさえ突然なほど、否応ないものであったらしい。それ故、マリヤはナターシャの前へ出ると、心の中ですらナターシャを非難する権利がないのを感じた。

ナターシャは心底からすっかり新しい感情に征服されていたので、今は少しも悲しくないばかりか、却って嬉しく楽しい心持ちを、隠そうともしないのであった。

あの夜ピエールと打ち明け話をした後で、マリヤが居間へ帰って来ると、ナターシャは敷居の所で出迎えた。

「あの方は仰しゃったでしょう? ね? 仰しゃったでしょう?」と彼女は繰り返した。

ナターシャの顔には喜ばしそうな、同時に、自分の喜びに対して赦しを乞うような、哀れっぽい表情がじっと凝結していた。

「わたしねえ、戸口で聞いていたかったのよ。だけど、あなたが話して下さるだろうと思ったもんですから」

ナターシャが自分を見たその眼つきは、マリヤにももっとも千万に思われたし、またしおらしくも感じられた。そしてナターシャの興奮を見るのが、可哀そうなくらいであったけれど、ナターシャの言葉は最初の瞬間マリヤを侮辱した。彼女は兄のことと、その恋を思い出したのである。

『だけど仕様がない! この人はこうよりほか出来ないんだから』とマリヤは考えた。

マリヤは沈みがちな、幾分いかめしい顔つきで、ピエールの言った事を残らずナターシャに伝えた。ピエールがペテルブルクへ行こうとしていると聞いて、ナターシャはびっくりした。

「ペテルブルクへ!」ナターシャは合点が行かぬような風付で繰り返した。

けれどマリヤの沈んだ表情に見入っているうちに、その悲しみの原因を察して、ナターシャは急にわっと泣き出した。

「マリイ」と彼女は言った。「わたしどうしたらいいんでしょう、教えて頂戴。わたし悪い人間になりそうで恐ろしいわ。あなたの仰しゃることなら、何でもわたしその通りにしてよ。教えて頂戴……」

「あなたはあの方を愛していて?」

「ええ」ナターシャは囁いた。

「あなたなぜ泣いてらっしゃるの? わたしはあなたのために喜んでいますわ」とマリヤは言った。彼女はこの涙のために、もうすっかりナターシャの喜びを宥(ゆる)したのである。

「こんな事は今すぐって訳に行かないから、いつか先のことでしょうけれど、わたしがあの方の奥さんになって、あなたがニコライの所へいらっしゃるようになったら、まあどんなに幸せでしょうねえ」

「ナターシャ、どうかそんなことを言わないで下さいって、わたしお願いしたじゃありませんか。それよかあなたのことを話しましょうよ」

二人はしばらく黙っていた。

「でも、なぜあの方はペテルブルクへなんかいらっしゃるんでしょう?」ナターシャは出し抜けにこう言ったが、急いで自分で自分に答えた。「いいえ、いいえ、そうしなくちゃならないんだわ……ねえ、マリイ? そうしなくちゃならないんですわねえ……」