戦争と平和 第十五編, レフ・トルストイ

六


十一月五日は所謂(いわゆる)クラースノエ戦争の第一日であった。将軍達が色々な議論をしたり、過失を犯したり、見当違いの所へ進んだり、矛盾した命令をもって方々へ副官を派遣したりした挙句、敵は到るところ敗走して、戦闘などはない、また有るべき筈がない、と言うことが明瞭になった時、クトゥゾフは夕方クラースノエを出して、この日、本営を移したドーブロエへ赴いた。

晴れた寒い日であった。クトゥゾフは多数の幕僚将官を従えながら、肥えた白い小馬に跨ってドーブロエへ進んだ。彼に不満を抱いている将軍達は、後ろで何やらひそひそ囁き合っていた。この日、露軍に投じたフランスの俘虜は、行く先々の道端に一団ずつ群をなして、焚火に暖まっていた(この日の俘虜は七千人であった)。ドーブロエから程遠からぬところで、方々を包帯で巻いて手当たり次第の物を纏まっているぼろぼろした恰好の俘虜の大群集が、馬をはずして路上に長く列を作っているフランス砲隊の傍に立ちながら、がやがやと騒々しく喋っていた。総指揮官が近づくと話し声はぴったりとやんだ。赤い帯(バンド)をつけた白い帽子を被り、屈み加減になった肩の上に綿入の外套を丸々と着て、おもむろに街道を進んで行くクトゥゾフに、たちまち一同の視線が注がれた。将軍の一人はクトゥゾフに向かって、大砲と俘虜を獲た場所を報告した。

クトゥゾフは何かに気を取られて、将軍の言葉をろくろく聞いていないような風であった。彼は不満らしく眼を細めながら、前にもましてみじめな光景を呈している俘虜の姿を、じっと注意深く見詰めるのであった。フランス兵の大部分は鼻や頬を凍傷で痛めている上に、ほとんど全部赤く腫れて腐ったような目をして、恐ろしく醜い形相になっていた。

また別なフランス兵の一団が道路のすぐ傍に立っていた。その中の兵卒が二人――ひとりの方は顔一面に痂(かさぶた)が出来ていた――手で生肉のきれを引き裂いていた。かたわらを通り過ぎる人々にちらりと投げた彼らの視線には、何か恐ろしい動物的なものが感じられた。痂(かさぶた)の出来た兵卒は、憎々しい表情をしてクトゥゾフを見やると、すぐまた顔を反けて、そのままの表情で自分の仕事を続けるのであった。

クトゥゾフは長い間、じっとこの二人の兵卒を見詰めていたが、なお一層顔を顰めて眼を細めながら、物思わしげに頭を振った。また別の所で、クトゥゾフは一人のロシア兵に目をつけた。その兵卒は笑い笑い一人のフランス兵の肩を叩きながら、何か愛想よく話し掛けていた。クトゥゾフはまたもや同じ表情で頭を振った。

「君はなんと言ったんだね?」彼は一人の将軍にこう訊いた。それは前からの報告を続けながら、プレオブラゼンスキイ連隊の正面に立っているフランスの軍旗に、総指揮官の注意を惹こうとしているのであった。

「ああ、軍旗か!」とクトゥゾフは言ったが、自分の心を領している想念から離れるのが、如何にも難しそうな様子であった。

彼はぼんやり辺りを見回した。と、数千の眼が元帥の言葉を待ち構えながら、四方八方から彼を見つめていた。

彼はプレオブラゼンスキイ連隊の前で馬を止めて、重々しく溜息をつきながら眼をつぶった。幕僚の誰かが、軍旗を持っている兵卒達に向かって手を振りながら、ずっと前へ進んで出て、軍旗の柄を総指揮官の周りへ並べるように合図をした。クトゥゾフはしばらく黙っていたが、自分の地位の命ずる必要に従いながら、進まぬ様子で顔を上げ、さて口を切った。将校の群が彼を取り囲んだ。彼は注意深い目つきで将校の群を見回したが、その中に幾人かの知った顔を見分けた。

「諸君、ありがとう!」彼は始め兵卒の方へ、それから今度は将校たちの方へ向いてこう言た(周囲を領してある静寂の中で、彼のゆるゆると発音する言葉がはっきり聞こえた)。「諸君はよく困苦と戦って忠実に働いてくれた。ありがとう。戦いは完全に味方の勝利だ。ロシア国民は決して諸君を忘れないだろう。諸君の名誉は不朽である!」

彼は辺りを見回しながらしばらく口を噤(つぐ)んでいた。

「下げろ、そいつの頭を下げろ!」フランスの鷲章旗を持っていた兵卒が、偶然その尖(さき)をプレオブラゼンスキイの連隊旗の前へ下げたのを見て、彼はこう言った。「もっと低く、もっと低く、そうだ、そうだ。諸君、ウラー!」素早く顎を動かして兵士らの方へ向き直りながら、彼はこう叫んだ。

「ウラー、ラ、ラー!」と幾千の声が咆哮を始めた。

兵士らが叫んでいる間に、クトゥゾフは鞍の上に身を屈めながら頭を下げた。と、彼の隻眼は嘲るようなつつましい光に輝いた。

「さて、諸君……」人々の声が止んだ時、彼はこう言いだした。

すると、不意に彼の声と顔の表情が変わった。それはもう総指揮官の話ではなく、自分の同僚に何かぜひ必要なことを伝えたいと望んでいる、平凡な老人が語り出したのである。

将校の群と兵卒の列は、彼がこれから言おうとすることをはっきり聞くために、ざわざわと波立って来た。

「さて、諸君。諸君も随分くるしいだろう。それはわしも知っておるが、どうも仕方がない! いま少しの辛抱だ、もう長いことはない。お客を送り出してしまったら、その時こそゆっくり休もう。皇帝は諸君の功労を忘れはなさらないだろう。諸君は苦しかろうが、それでもまだ自分の国にいる。ところが、彼らの様子を見るがよい――何ということに成り果てたものだ」彼は俘虜を指さしながらこう言った。「乞食の中の一番屑よりもっとみじめではないか。彼らに力がある間は、我々も自分の身命を惜まなかったが、今では彼らを哀れんでやってもよい。彼らも矢張り人間なのだからな。そうじゃないか、諸君?」

彼は周囲を見回した。そして自分の方に注がれている執拗な、恭しい怪訝の色を帯びた視線の中に、自分の言葉に対する同感を読んだのである。彼の顔は老人らしくつつましい微笑のために、段々あかるくなって来た。唇や眼のふちに星形の小皺が現れた。彼はしばらく黙っていたが、何か合点が行かぬと言うように頭を垂れた。

「しかし、あいつら一体だれに呼ばれてここへ来たんだ? と言いたくなって来るよ。罰があたったんだ、馬鹿野郎……」彼はふいに頭を抬(もた)げてこう言った。

彼はさっと鞭を振って、戦争の前後を通じて初めてたった一度、馬に駆けをくれた。そして嬉しそうに高笑いして、ウラーを連呼しながら列を崩している、兵士らの傍を離れた。

クトゥゾフの述べた言葉が、兵士らに分かったかどうかそれは覚束(おぼつか)ない話である。初めは厳粛な調子で発せられながら、終りは単なる好々爺の繰言になった元帥の訓示の内容を、他に伝え得る者はほとんどなかったであろう。しかし、この言葉の底に潜んでいる内面的意味は理解された。そればかりか、敵に対する哀れみの情と、自己の正義に対する意識(それは老人らしい人の好い罵詈の言葉で言い表された)と一緒になった偉大な勝利の感じ――この感じは、一人一人の兵卒の心に蔵されていた。そして喜ばしい叫び声となって、暫(しば)しは鳴りも止まなかったのである。その後で将軍の一人が総指揮官に向かって、幌馬車の用意を致しましょうかと訊いた時、クトゥゾフはそれに答えながら、不意にすすり泣きを始めた。彼は非常に興奮している様子であった。