戦争と平和 エピローグ 第一編, レフ・トルストイ

二


もし歴史家の説くように、偉大な人々が人類を指導して、ロシアなりフランスなりの国威発揚とか、ヨーロッパの勢力均衡とか、革命思想の伝播とか、社会一般の進歩とか、その他何事にまれ、ある目的を達しようとしているのだ、とこういうことを承認するならば、偶然とか天才とか言う観念なしには、歴史上の諸現象を説明することが出来なくなって来る。

もし現世紀初頭の欧州戦争の目的が、ロシアの国威発揚にあったとすれば、この目的は先に行われた多くの戦争や侵入などがなくても、立派に到達できたのである。もし目的がフランスの国威発揚にあるとすれば、この目的は革命や帝政などなくても、やはり到達することが出来たであろう。もし目的が思想の伝播であるならば、書籍印刷の方が兵卒などよりずっと立派にこの目的を果たしたに相違ない。もし目的が文明の進歩であったならば、人間や国富の撲滅よりほかに文明の普及にもっと適当な方法がある、とこう仮定した方が遥かに自然らしく思われる。

なぜああいう風になって、もっと違った結果にならなかったのだろう? ほかでもない、つまりああいう風になったからである。

「偶然は状態を作り、天才はこれを利用した」と歴史は言っている。しかし偶然とは何か? 天才とは何ぞや?

偶然とか天才とか言う言葉は、何ら実在の物を言い表していない。従って、定義のしようがない。これらの言葉は、ただ現象理解のある程度を意味するに過ぎない。吾人は何故しかじかの現象が起こるかを知らない。そして到底知ることは出来ないと思う。従って知ろうと思わない。そこで偶然という言葉を用いるのである。また吾人は一般の人間的資質と釣合いの取れない作用を起こす力を見て、しかもその起こる所以(ゆえん)が分からない。そのとき天才と言うのである。

羊飼いに毎晩特別な小屋の中へ追い込まれて、特別な飼いばを与えられるために、他の羊より二倍も肥えふとった羊は、その群にとって天才と思われるに相違ない。毎晩この羊が共同の大きな小屋でなく、特別な小屋へ入って燕麦を貰ったり、脂の乗ったところで殺されて肉になると言うような事情は、多くの異常なる偶然と天才との、驚くべき結合と思われるに相違ない。

けれど一たん羊共が、自分達に関するすべての出来事は、自分たち羊の目的を達するためにのみ生じるのだ、と言うような考え方を止めて、これらの出来事が自分達にとって不可解な目的をもち得る事を承認したならば、彼らは直ちに、特別な飼養を受けている羊の身に生じた事件に、統一と連絡を見いだすであろう。たとえ、どう言う目的で一定の羊が特別に飼養されているか、と言う理由を知ることが出来ないまでも、少なくともその羊の身に生じたすべての事が、偶然に起こったのでないということを知るであろう。そうすれば、もう偶然と言う観念も、天才と言う観念も不要になってしまう。

手近な分かり易い目的を知ろうとする態度から離れて、終局の目的がついに不可解なことを認めた時にのみ、我々は史上人物の生涯に合理性を見るのである。その時はじめて、一般の人間的資質と一致しない彼らの行為の原因が啓示されて、偶然とか天才とか言うような言葉が、我々にとって不要なものとなるのである。

ヨーロッパ諸国民の動揺の目的は不明であるが、しかし最初にフランス、次にイタリア、アフリカ、プロイセン、オーストリア、スペイン、ロシアという順で行われた、殺戮の事実のみは明白であると言うこと、初め西から東へ、ついで東から西へと進んだ運動が、事件の真髄と目的を成していること、こういうことを承認しさえすれば、我々はナポレオンやアレクサンドルの性格の中に、特異性や天才を見る必要がないのみならず、彼らをその他すべての人間と区別して想像することが出来なくなる。そうすれば、彼らをああいう風な人物に作り上げた多くの小事件を、偶然で説明する必要がないばかりでなく、これらの小事件がすべて必要かくべからざるものであったということが明白になるではないか。

終局の目的を知ろうと言う考えから離れた時、一本の植物に対しても、現在、生み出している花や種よりも、一層ふさわしいものを発明することが出来ないように、極めて微細な点までも、与えられた使命とぴったり一致する過去を持った二人の人間を、別に考え出すのは不可能だということを、吾人は明白に悟るであろう。