戦争と平和 エピローグ 第二編, レフ・トルストイ

四


国民の意志が一個の選ばれたる人に服従するとか、その選ばれたる人が神に服従するとか、そういう古人の見方を拒否した後も、歴史は矛盾なしに一歩も先へ進むことが出来ないでいる。人類のことに神が直接参与するという昔の信仰に帰るか、あるいは権力と呼ばれる力――史上の事件を引き起こす力――の意義を明確に説明するか、二つに一つを選択しなければならない。

前者に帰ることは不可能である。信仰は崩壊した。従って権力の意義を説明するのが緊急事である。

ナポレオンは軍勢を集めて、戦いに赴くことを命じた。この観念は我々にとって極度にまで習慣的なものとなって、我々は完全にこの見解と同化し切っているので、なぜナポレオンがかくかくの言葉を発した時、六十万の人間が戦場へ赴いたかという疑問が、無意味なものに思われるくらいである。彼は権力を有していた、従って彼の命令が実行せられたのである。

もし、彼の権力を神から与えられたものと信ずるならば、この答えは少しも不足のないものである。しかし、一旦これを否定するやいなや、この多数に対する一人の権力とは、果たして何であるかを定義しなければならない。

この権力は、強者が弱者に対する肉体的優越と言ったような、端的な権力であり得る筈がない――かのヘラクレスの権力の如く腕力使用(もしくは使用の脅迫)に基づく優越である筈がない。またそれは一部の歴史家が単純に考えているように、精神力の優越に基礎を置いたものでもあり得ない。この種の歴史家に言わせると、史上人物は英雄である。即ち天才と名づけられる、特権な精神と理知の力を賦与された人であるが、この権力は精神力の優越に基づいたものである筈がない。ナポレオンの如く、その精神的資質に関して諸家の意見の一致しない英雄は、ここにしばらく論じないとしても、幾百万の人々を支配していたルイ十一世やメッテルニッヒなどが、何ら特殊な精神力を有していなかったのみならず、却って大多数の場合、自分に支配されていた幾百万人中の誰よりも、精神的に貧弱であった事は、歴史の指し示すところである。

権力の源泉が、それを占有している人物の肉体的資質にも、精神的資質にも存しないとすれば、この権力の源泉は明らかに所有者以前に存在すべき筈である――即ち、所有者と群衆との関係に潜んでいるべき筈である。

権力なるものの歴史的解釈を、金貨に兌換する事を約束している、歴史の両替局たる法学は、ちょうどこういう風に権力を解しているのである。

権力とは、言語に表現された承諾、もしくは無言の承諾によって、民衆の意志の総和を、彼ら自身の選定した支配者へ移したものである。

可及的条件において国家および権力を組織する方法如何、という議論から成り立っている法学の範囲内では、これらはすべて極めて明白である。しかし歴史に適用する場合、こういう権利の定義は解説を必要とする。

法学は国家および権力を、何か絶対的存在の如く見なして研究している。それは古人が火に対したと同じ態度である。然るに歴史にとっては、国家および権力は単に現象にすぎない。それはちょうど現代の物理学にとって、火が元素でなくして、現象にすぎないのと同じ道理である。

歴史と法学の見方に含まれている、この根本的な相違のために、次のような状態が生じて来る。法学は自己の信ずるところに従って、権力組成の方法如何とか、時(タイム)の外に不動不変の存在を保っている権力の性質如何とかを、詳細に物語ることが出来る。しかし、時の中で変態を行う権力の意義に関して、歴史的疑問を発するとき、法学は何一つ答えることが出来ないのである。

もし権力が支配者へ移された多数の意志の総和であるとすれば、プガチョフは果たして民衆の意志の代表者であったろうか。もしそうでなければ、なぜナポレオン一世はその代表者なのであるか? なぜナポレオン三世は、ブーロンで捕えられたとき罪人と呼ばれながら、その後かえって彼を捕えた人々が罪人となったか?

僅か二、三の人が参与した宮廷内の革命などに際しても、果たして民衆の意志は新しい人物へ移されるか? 国際関係に当たって、民衆の意志は果たして己の征服者へ移るか? 一八〇八年において、ライン同盟の意志はナポレオンに移されたであろうか? 我が軍がフランスと同盟してオーストリア軍に向かったとき、ロシア国民の意志はナポレオンに移されたであろうか?

これらの問題に対しては、三様に答えることが出来る。

(一)民衆の意志は常に彼らの選択した一人、もしくは数人の支配者へ無条件に移される。従って新しい権力の発生、及び一旦信服した旧権力に対する反抗は、すべて真の権力の侵犯として見るべきである。

(二)民衆の意志は一定の条件のもとに、制限を付して支配者に移される。従ってさまざまな権力の圧迫、衝突、消滅は、すべて支配者が権力移動の際に付せられた条件を遵守しなかったがために生じるものと認めること。

(三)民衆の意志は条件的に支配者へ移されるが、その条件は漠然として一定していない。従って多数の権力の発生や、闘争や、没落は、民衆の意志が移る際に付せられた曖昧な条件を支配者が遵守する程度の多少によって生ずる、とこう言う風に認めること。

実際、歴史家も、支配者に対する民衆の関係を、上記の如く三様に説明している。

ある歴史家――すでに先に述べた種類の極めて正直な伝記的歴史家は、その単純な頭脳によって、権力の意義に関する問題を理解し得ないために、意志の総和は無条件で史的人物に移されるものと認めている。従ってこの種の歴史家は、ある一つの権力を描くに当たって、それを一つの絶対な真正の権力と考え、これに敵対する他の力はすべて権力でなくして、権力の侵犯――すなわち暴虐であると見做している。

彼らの理論は、歴史の平和な原始的時代には適合しているが、様々な権力が同時に発生して、互いに相争っているような。国民生活の複雑な動乱時代へ当て嵌める場合には、次のような不便が生じて来る。即ち正統派(レジティミスト)の歴史家は、国民議会(コンヴェント)や、独裁政治や、ボナパルトを目して、単に権力の侵犯に過ぎないとするであろうし、また共和党は国民議会(コンヴェント)をもって、ボナパルティストは君主政治をもって真の権力と見なし、その他のものはすべて権力の侵犯であると論証するに相違ない。これらの歴史家が試みている権力の説明は、右の如く相互に排斥否定しあっているので、極めて年少な小児以外、誰の役にも立つことが出来ない。

また別種の歴史家は、かくの如き歴史観の虚誕を認め、権力は民衆の意志の総和を条件的に支配者へ移すということに基づいているので、歴史上の人物は、民衆の意志が暗黙の同意によって指定したプログラムを、必ず実行するという条件の下においてのみ、権力を有するものであるという。しかし、そのプログラムが如何なるものであるか、それはこの種の歴史家もわれわれに語ってくれない。たとえ語ってくれるにしても、彼ら相互の間で常に矛盾撞着している。

国民運動の目的如何に関する各自の見地に応じて、個々の歴史家はこのプログラムを、フランスもしくは他の国民の隆盛とか、富とか、自由とか、文明とかいう風に解釈している。しかし、このプログラムに関する歴史家の矛盾撞着はしばらく措いて、すべてに共通な一つのプログラムが存在しているものと仮定しても――史上の事実はほとんど常にこの理論に矛盾している。もし権力移譲の条件が、国民の繁栄、自由、文化等に存するならば、なぜルイ十四世やイヴァン四世などが、無事平穏に一代を終えながら、ルイ十六世やシャルル一世は人民に刑せられたか? この疑問に対してこれらの歴史家は、右のプログラムに反したルイ十四世の行動が、ルイ十六世の上に反映したのだと答える。しかし、一体なぜそれはルイ十四世もしくは十五世に反映しないで、必ず十六世の上に反映しなければならなかったか? またそういう反映には、いかなる期限が定まっているか? これらの疑問に対しては何らの答えもない。あり得ないのである。またこういう見方によると、民衆の意志の総和が数世紀の間、支配者とその後継者から他へ移らないでいたのに、その後一朝にして僅々五十年の間に、国民議会(コンヴェント)、独裁政治、ナポレオン、アレクサンドル、ルイ十八世と転々し、それから再びナポレオン、シャルル十世、ルイ・フィリップ、共和政府、ナポレオン三世へと移って行った、その理由がほとんど説明せられないのである。こういう風に、民衆の意志が一つの人物から他の人物へ、急激に移動して行って、しかもさまざまな国際的関係や、征服や、同盟などがこれに絡みあっている場合、歴史家は右の如き事実を説明するために、その一部分はもう常態的な意志の移動でなくして、外交官、もしくは君主、もしくは党の領袖などの権謀、失策、奸計等によって左右せられる、偶然の出来事であるという風に、心ならずも認めざるを得ない。それ故、歴史現象の大部分――内訌(ないこう)、革命、征服などは、これらの歴史家の説くところによると、もはや自由意志の移転から生ずる所産ではなくて、一人もしくは数人の方向を誤った結果である。換言すれば、同じく権力の侵犯に過ぎないのである。従って歴史上の事件は、ここの種の歴史家の解釈によっても、根本原則の背馳(はいち)だということになる。

これらの歴史家はある種の植物学者に例えられよう。彼らは若干の植物が種子から発芽するとき、二個の子葉に分かれているのを見て、すべての植物は必ず双葉に分かれながら成長するものである、それゆえ椰子、きのこ、進んで樫の木すらも、充分に成長して枝を拡げながら、もはや双葉の面影をもっていないために、原則の背反であると主張するのである。

第三類の歴史家は、民衆の意志が史的人物に移されるのは条件的であるが、しかしその条件がわれわれに不明なのだと認めている。彼らの言によると、史的人物が権力を有しているのは、自分に移譲された群衆の意志を実行するために他ならないのである。しかしこの場合、もし民衆を動かす力が史的人物でなくして、民衆自身の中に潜んでいるとすれば、これら史的人物の意義はどこにあるのだろう?

史的人物は(とこの種の歴史家は言う)自分自身をもって民衆の意志を体現している。史的人物の行動は群衆の行動の代表として役立つ。

しかしそれにしても、ここに一つの疑問が生ずる――史的人物の活動は全部群衆の意志の表現となるのか、それともただその一面だけに過ぎないのか? もし史的人物の活動が、ある人々の考えているように、全部群衆の意志の表現であるとすれば、ナポレオンやエカチェリーナ女帝などの伝記は、宮廷内の醜聞に関する詳細な記述をも引っくるめて、民衆生活の表現としなければならぬ。そんな事は明らかに無意味である。もし、別種のえせ歴史哲学者が考えているように、史的人物の活動が一面的に国民生活の表現であるとすれば、史的人物のいかなる一面が、国民生活を表現しているかを決定するために、まず第一、国民生活とは何ぞやという事を知らなければならない。

こういう困難に遭遇したこの種の歴史家は、出来るだけ多数の事件を抱括し得るような、極めて漠然とした、捕捉し難い一般的抽象観念を案出して、この抽象観念のうちに人類運動の目的があると称している。ほとんどすべての歴史家の採用している、極めてありふれた抽象観念は、自由、平等、開化、進歩、文明、文化などである。ある抽象観念を人類運動の目的と定めたのち、歴史家は死後にもっとも多数の記念物を残した人々――即ち帝王、宰相、将軍、著述家、改革家、法王、新聞記者などを研究する。ただしそれは、これ等の人物が一定の抽象観念に助力したり、反対したりした程度に応じるのである。しかし、人類の目的が自由や、平等や、開化や、あるいは文明などに存すると言う事は、何ものによっても別に証明されていないし、支配者・開発者と群衆との関係は、群衆の意志の総和が必ず我々の目に顕著な人物へ移るという、独断的仮定の上に基礎を置いているに過ぎないから、居を転じたり、家を焼いたり、耕作を放棄したり、お互いに殺し合ったりする幾百万人の行動は、家も焼かず、耕作にも従事せず、同胞も殺さない十人ばかりの人間の活動を描写することによって、決して表現される筈がないのである。

歴史は一歩毎にこの事を証明している。前世紀の末、西方に起こった諸国民の動揺とその東漸運動は、果たしてルイ十四世、十五世、十六世、その寵妃、大臣などの行為、乃至(ないし)ナポレオン、ルソー、ディデロー、ボマルシェーその他の生涯などによって、説明される事であろうか?

ロシア国民の東方カザンおよびシベリアへ向かう運動は、果たして雷帝イヴァン四世の病的性格の絮説(じょせつ)や、クールプスキイとの書信往復によって表現し尽されるであろうか?

十字軍時代の国民運動は、果たしてゴットフリードや、ルイや、その思い者の生活や行動などで説明されるであろうか? 民衆が何の目的もなく、確とした指導者もなく、隠者ペテロ(フランスのアミアンの司祭。一〇九五年に民衆を率いて聖地エルサレムへの巡礼を試み、これが第一回十字軍へと発展する。「隠者ピエール」とも。)を頭とする無頼漢の群と共に、西から東へ進んで行った事実は、我々のために未解決のままで残っている。それよりなお一層不可解なのは、歴史上の名士によってエルサレム回復という合理的な、神聖な目的が明瞭に樹立された時、この運動が中絶してしまったことである。法王や、国王や、騎士などが、聖地回復を説いて民衆を励ましたけれど、しかし民衆は動かなかった。以前、彼らを動かした原因が、もはや存在しなくなったからである。ゴットフリードやミンネゼンゲル(十二、三世紀頃のドイツの抒情詩人)たちの歴史は、明らかに国民の生活を抱擁することが出来ないらしい。ゴットフリードやミンネゼンゲルの歴史は、遂にゴットフリードやミンネゼンゲルの歴史に留まって、国民の生活やその衝動の歴史は、未知のままでとり残された。

文学者や改革者の歴史は、国民の生活を説明する上において、なお一層、力ないものである。

文明史は我々に、ある文学者、もしくは改革家の衝動や、生活条件や、思想などを説明してくれる。我々はルターが激し易い性質で、しかじかの演説をしたということを知る。またルソーが猜疑の強い人間で、かくかくの書を著したということを知る。しかし、なぜ宗教改革の後に国民が互いに斬り合ったか、なぜフランス革命の後で互いに処刑し合ったか、というようなことは、遂に知ることが出来ないのである。

もし最近の歴史家が試みているように、これら二つの歴史を一つに結合したならば、それは君主と文学者の歴史が出来上がるだけで、決して国民生活の歴史とはならない。