時から独立している神の意志表示のみが、数年もしくは数世紀の後に起こるべき、多くの事件に関係を持つことが出来る。そして何らの動機をも持たぬ神のみが、自分一個の意志によって、人類運動の方向を決定することが出来る。然るに人間は時の中で行動して、自ら事件に参与するのである。
従来看過されていた第一の条件――時の条件――を回復することによって、たとえただ一つの命令と言えども、その実行を可能ならしめる先行命令なしには、到底、実行し得られないということを発見する。
かつていかなる命令と言えども、それ自身独立して自由に出現し、多くの事件を包含するようなものはなかった。すべての命令は他の命令から流れ出るものであって、決して多数の事件に関連することなく、常に事件のある一瞬間のみに繋がるものである。
たとえば、ナポレオンが軍隊に出征を命じたという場合、われわれは互いに相関連して順次に発せられた無数の命令を、一時的に表示せられた一つの命令に綜合するのである。ナポレオンはロシア遠征を命令する事も出来なければ、また決してそんな命令を残しもしなかった。彼は今日某々の書類をしたためて、ウィーン、ベルリン、ペテルブルクなどへ発送したかと思うと、明日は某々の指令や命令を軍隊や、艦隊や、経理部などへ向けて送った――こういう無数の命令から、フランス軍をロシアへ導いた一連の事件に相当する、一連の命令が形づくられたのである。
ナポレオンは自分の在位中、たえずイギリス討伐の命令を発した。彼の企てたあらゆる事業の中で、これほどの努力と時間を費やしたものは、他にまたとないくらいである。しかるに彼の在位中かつて一度もそういう計画を試みたことがないにも拘わらず、彼はロシアへ向かって遠征を断行した。しかもこのロシアとは同盟を結んだ方が有利であると、彼自身、再三公言していたのである。これはつまり、前の命令が事件に一致しないで、後の方が完全に一致したために生じた結果である。
命令が的確に実行せられるためには、ある人間が実行の可能性のある命令を表白することが必要である。しかし実行し得ることと、実行し得ないことを区別するのは、数百万人の関与しているナポレオン遠征の場合に不可能なばかりでなく、最も単純な小事件においても、到底思い及ぶことの出来ないところである。なぜと言って、そのいずれを実行するにしても、いつも無数の障碍が現れる可能を有しているからである。すべて実行せられた命令は、実行せられざる無数の命令の一つに過ぎない。すべて不可能なる命令は事件に結合せられない、従って実行せられないわけである。ただ可能なる命令のみが、事件の進行に合致する順序だった一連の命令に結合して、はじめて実行に移されるのである。
事件に先だつ命令は事件の原因である、こういうわれわれの誤った観念は、次のような状況から発生するのである。即ち、事件が成就せられて、幾千という命令のうちから、事件に結合したあるものが実行されたとき、われわれは不可能なるが故に実行せられなかった命令を忘れてしまう。そればかりでなく、この意味における迷妄のおもなる根源は、次の点に含まれているのである。歴史的叙述においては、数知れぬ種々雑多な微細きわまる事情、たとえばフランス軍をロシアへ導いて来た一切の状況が、これらの事情の齎した結果によって、一つの事件に綜合せられてしまう。そしてこの綜合に応じて多数の命令が一つの意志表示に総括せられるのである。
ナポレオンはロシア遠征を欲し、かつこれを実行した、とこうわれわれはいう。しかし実際においては、ナポレオンの活動全部を通じて、こういう意志表示に類似したものを、全然発見することが出来ない。ただ極めて雑然とした、曖昧な方向へむけられた意志の表示、もしくは命令の連続を見るに過ぎない。実行せられなかったナポレオンの数限りない命令のうちから。一八一二年役のために実行せられた一連の命令が生じた。しかしそれはこの命令が、実行せられない他の命令と異なっていたためでなく、ただこの一連の命令が、フランス軍をロシアへ導いてきた、一連の事件に符合したがために過ぎない。それはちょうど型つけ紙である形が描かれるのは、着色の方向や技術の巧拙によるのでなく。型つけ紙に切り抜かれた形の上から、縦横に色を塗るために過ぎない、それと同じ道理である。
それ故、命令と事件との関係を時の中で検覈する時、われわれは次の事実を見出すであろう。即ち命令はいかなる場合においても事件の原因となり得ない、ただこの両者の間に、ある一定の相互関係が存在するのみである。
この相互関係の何たるやを理解するためには、あらゆる命令に関して、従来閑却されていた一つの条件を確立する必要がある。即ちすべての命令は、神ならぬ人間から発せられるものであるから、命令する人間自身、事件に関与するということである。
この命令者の被命令者に対する関係こそ、とりも直さず、権力と呼ばれるものなのである。この関係は次の点に存する。
人間は共同活動のために常にある結合を行う。その際、この共同活動のために立てられた目的が、まちまちであるにも拘わらず、その活動に参与する人々の相互関係は、常に一様である。
こういう結合に加わった人々は、常に次のような関係にたつ。即ち最大多数の人々は最も多く直接に、結合の目的たる共同活動に参与することとなり、最小数の人は直接に参与する程度が最も少ない。
人間が共同行為の達成のために形づくるすべての結合のうちで、最も明白顕著なものの一つは軍隊である。
すべての軍隊の組織を見ると、軍事上の位置から見て最も低い組成分子、即ち常に最大多数を占めている列兵からはじまって、軍事的位置から言えばその次に相当するやや高い階級――即ち第一のものより比較的少数の伍長や曹長、それから更に少数で更に高級の人々、こういう風に進んで行って、遂に一人に集中されている最高兵権に至ってやむ。
軍隊の組織は完全正確に円錐形をもって表示することが出来る。最大の直径を有しておる底部は、列兵によって形づくられている。より高い、従ってより小さい底部は――より高級の士官という風に進んでいって、遂に総指揮官たる円錐形の頂点に達するのである。
最大多数を占めている兵士は、円錐形の最下点、即ち底部を形づくっている。兵士は自分で直接突いたり、斬ったり、焼いたり、掠奪したりする。そしてこれらの行為に対する命令を、常に上級の人々から受け取っている。しかし自分では決して命令しない。下士は(下士の数はもう大分少ない)兵士に比べると、自分で行動する機会が稀であるけれど、しかしもう命令を下す。将校は一層稀にしか行動しないで、一層頻繁に命令を下す。将官となると、もう軍隊に目的を指示して、ただ命令を下すばかりである。そしてほとんど武器を使用しない。総指揮官はもう決して軍の活動そのものに直接関与し得ない。ただ群集の運動に関して全般的な指令をするばかりである。これと同じ人間同士の相互関係は、人間が共同活動のために結合した場合、常に認め得るところである――農業、商業、及び一切の官庁がそれである。
こうして軍隊内の階級、あらゆる官庁の官位、あるいは一般事業関係者の位置など、円錐形の諸点と同じように、最下級から最上級まで互いに融合しあったものを、人工的に分解して見ないまでも、次の法則の存在することは明瞭である――人間は共同活動の達成のために、常に一つの関係に結合する。その際、事件に直接参与する程度が多ければ多いほど、命令を下し得る可能は減じて、その数が多くなる。そして実際活動に直接参与する度合が少なければ少ないほど、人間はますます多く命令して、その数は減じてゆく。こういう風にして――最下層からだんだん昇って行くうちに、遂に最後の一人に到達する。彼は事件に最少の直接関係を有し、誰よりも最も多く、自分の活動能力を命令に傾注するのである。
この命令者の被命令者に対する関係こそ、権力と呼ばれる観念の本質を形成しているのである。
すべて事件の行われる時の条件を確立したとき、命令が実行せられるのは、事件に相応した場合に限るということが発見せられた。また命令者と被命令者との間に存する関係の必然的条件を確立した時、われわれは命令者が本来の性質上、事件そのものに参与することが最も少なく、その活動力は全部を挙げて命令に向けられている、とこういうことを発見した。