戦争と平和 第五編, レフ・トルストイ

三


ペテルブルクへ着いてから、ピエールは自分の到着を誰にも知らせず、また自分もどこへも出ないで、毎日毎日『フォマー・ケンピイスキイ』(トマス・ア・ケンピス(一三八〇年頃-一四七一年)の信心書『キリストに倣いて』を指すものと思われる)――誰から借りたとも、貰ったとも知れぬ書物の耽読に時を過ごした。この書物を読みながらも、ピエールは――一つの事を――ただ一つの事のみを頭へ入れた。即ち自己完成への到達の可能と、かのバズジェーフに啓示された人間相互の同胞的、実行的愛の可能を信ずるという、ピエールの未だかつて味わった事のない快感を識得したのである。彼の首都到着後一週間経ったある夕方、ペテルブルクの社交界でピエールと表面上知り合っている、若いポーランドの伯爵ヴィルラルスキイが彼の部屋へ入って来た。その様子はちょうどドーロホフの介添人がやって来た時のように、真面目くさって鹿爪らしかった。彼は後ろ手で戸を締めると、室内にはピエールの他誰もいない事を確かめてから、彼に向かってこう言った。

「伯爵、わたしは今日あなたに勧告の任を帯びて参りました」彼は坐ろうともしないでピエールにこう言った。「わたし共の仲間で非常な尊敬を受けている或る人が、所定の期日を待たないであなたを組合へ入れるように運動されて、わたしにあなたの保証人になれと勧められたのです。で、わたしはこの方の希望を充たすのを自分の義務と考えました。如何です、あなたはわたしの保証の下に、『自由なる石工』の組合へ入る事を御希望ですか?」

いつも方々の夜会で華やかな婦人達に取り巻かれながら、愛想のいい微笑を浮べている所を見馴れたこの紳士の、冷たい厳かな調子はピエールを驚かしたのである。

「ええ、希望しています」とピエールは言った。

ヴィルラルスキイはちょっと頭を下げた。

「伯爵、今一つあなたに質問があります」と彼は言った。「この疑問に対して、あなたが未来の組合員としてでなく、galant homme(潔白なる一個の人)として誠心誠意お答え下さる事を望みます。あなたはこれまでの信念を放棄なさいましたか? あなたは神をお信じですか?」

ピエールはちょっと考え込んだが、「ええ……わたしは神を信じます」と言った。

「それでは……」とヴィルラルスキイが言い出した時、ピエールはそれを遮った。

「ええ、わたしは神を信じます」と今一度言った。

「それでは、わたし共はもう出掛けて宜しいです」とヴィルラルスキイが言った。「わたしの馬車に御同乗下さい」

途中ヴィルラルスキイは黙り通しであった。どうしたらいいか、何と答えたらいいかと言うピエールの問いに対して、彼はただ自分より一段修養を積んだ組合員が試験するから、ピエールは正直に有りのままを言ったらいい、それ以上何にも必要がないと答えたばかりである。

集会所の置かれてある大きな家の門を潜り、暗い階段を上って、二人は灯りのついた小(ささ)やかな玄関へ入った。ここで彼らは下男の手を借りずに外套を脱いだ。玄関からまた別な部屋へ入った。誰かしら奇妙な着物をきた人が戸口に現れた。ヴィルラルスキイはその方へ進んで、何やらフランス語で低声に話した。そしてピエールの見た事も無い着物の入っている、余り大きくない戸棚に近寄った。

この戸棚の中からヴィルラルスキイは一枚の手巾(ハンカチ)を取り出し、それをピエールの目に当ててぐっと後ろで結んだ。結び目に髪が食い込んで痛かった。それから彼はピエールを自分の方へ引き寄せて接吻すると、手を取ってどこかへ連れて行くのであった。ピエールは締め付けられた髪の痛みに顔を顰め、何かしら或る物に対する羞恥のために薄笑いをしていた。両手をだらりと下げ、顔を顰めながらにこにこと笑っているピエールの巨大な姿は、不規則な臆病らしい足取りで、ヴィルラルスキイの後から動いて行った。

十歩ばかり彼を導いた時、ヴィルラルスキイは立ち止まった。

「どんな事があなたの身に起こりましても、わたし共の組合へ加入しようと固く決心なすった以上、男らしくすべてを忍んで下さい(ピエールは頷いて承知の返事をした)。戸を叩く音がしたら、その目隠しをお取りになって宜しゅうございます」とヴィルラルスキイは付け足した。「くれぐれもあなたの勇気と成功を祈ります」こう言ってピエールの手を握りしめると、ヴィルラルスキイは出て行った。

一人きりになっても、ピエールは依然として微笑し続けていた。二度ばかり肩を竦めて、ちょうど邪魔物を取り除けてしまいたいと言うような風付で、手を手巾(ハンカチ)の方へ持って行ってまた下ろした。彼が目を縛られたまま過ごした五分は、一時間くらいの長さに思われた。手は萎え足はふら付き始めた。彼は疲れたような気がし出した。そして非常に複雑な、非常に多様な感情を経験した。今自分の身の上に起ころうとしている事も恐ろしかったが、万一この恐怖の色を気取られはせぬかという事も、それ以上に恐ろしかったのである。一体どんな事が生ずるか、どんな事が啓示されるか、それを知るのが待ち遠しかった。しかしバズジェーフとの邂逅(かいこう)以来、彼の夢みていた、自己の更新と実際的徳行生活の道に入るべき時が、遂に到来したと思うと何より嬉しかった。激しく戸を打つ音が聞こえた。ピエールは目隠しを外して辺りを見回した。部屋の中は漆のように暗かった。ただ一所で灯明の火が何か白い物の中に燃えていた。ピエールは近寄って見た。灯明は本の拡げてある卓の上に載せられてあった。その本は福音書である。灯明の入れてある白い物は歯のついた、穴だらけの髑髏(しゃれこうべ)である。「初めに言葉あり、言葉は神と偕(とも)にあり」という福音書の最初の数語を読んで、ピエールは卓を一回りした。すると何か一杯填(つ)めた蓋のない箱が目に入った。それは骨の入った棺であった。ピエールは少しも驚かなかった。以前と全く違った、新しい生活に入ろうという希望を抱いた彼は、すべて異常な物――今見た物よりもっともっと異常な物を期待していた。髑髏、棺、福音書――彼はただこういう風な物、否、これより以上の物を期待していたような気がした。随喜の情を心中に呼び起こそうと努めながら、彼は辺りを見回した。「神、死、愛、人類の結合」彼はこれ等の言葉を混沌としてはいるけれど、悦ばしい或る想像に結びながらこう言って見た。その途端、戸が開いて誰か入って来た。

視線を馴らす事の出来た弱々しい光の中で、余り背の高くない人が入って来たのを、ピエールは見分けた。明るい所から暗い所へ入ったためであろう、この人はちょっとの間立ち止まった。やがて、用心深い足取りで卓へ進み寄り、革手袋で包まれた小さな手をその上に載せた。

この背の低い人は白い革の前掛を着けて、胸と足の一部を蔽うていた。首には首飾のようなものを掛けていたが、下から光線を受けた長みがかった顔を、ぐるりと縁取る白い大きな立襟が、この首飾の陰から突き出していた。

「何のためにあなたはここへ来たのですか?」ピエールの立てた衣擦れの音に依って、その方へ向きながら新来の人は訊ねた。「光明の真理を信ぜず、光明を見ようともしないあなたが、何用あってここへお出でになりました! 何をあなたは我々から求めているのです! 叡知ですか、徳行ですか、光明ですか?」

戸が開いて見知らぬ人が入って来た時、ピエールは子供の時分、教会の懺悔式で経験したような、恐怖と敬虔の念を覚えた。そして生活の条件から言えばまるで縁のない、しかし人類の結合という点から見れば極めて近しい人に、面と面を突き合わせている事を感じた。ピエールは息も止まりそうなほど激しい心臓の鼓動を覚えながら、リートル(求める人、即ち新たに加入を希望する人を試す組合員(メイソン)を、組合でこう呼ぶのである)の方へ近寄った。ずっと傍へ寄った時、ピエールはこのリートルが知り合いのスモリヤニーノフだと気が付いた。けれどこの人が自分の知り合いだなどと考えるのは、むしろ無礼なくらいに思われた。この人は単に自分の同胞で、徳の高い教訓者に過ぎない。ピエールは長いこと一語も発することが出来なかった。で、リートルは再び同じ質問を繰り返さねばならなかった。

「ええ、わたしは……わたしは……更新を望んでいるのです」やっとピエールはこう言った。

「宜しい」とスモリヤニーノフは言って、すぐ語を次いだ。「あなたは我が神聖なる組合が、あなたの目的貫徹を助力するため用いる方法に関して、何か理解を持っておいでですか?」リートルは落ち着いて早口にこう言った。

「僕の……望むものは……更新についての……指導と……助力です……」とピエールは声を慄わせながら、言いにくそうにこう言った。それは興奮しているからでもあるが、またロシア語でこうした抽象的な事柄を談ずる習慣がなかったためでもある。

「あなたは共済組合(メイソン)についてどんな観念を持ってお出ですか?」

「わたしの解する所では、共済組合は徳行を目的とする人々の fraternité(結合)と平等を意味するものと思います」ピエールは語り進むに従って、自分の言葉がこの瞬間の荘重な趣きに相当しないのを恥じながら、「わたしの解する所では……」

「宜しい」見受ける所、この答えですっかり満足したらしいリートルは、急いでこう言った。「あなたは自分の目的を達する方法を、宗教の中に求めた事がありますか?」

「いいえ、わたしは宗教を不正なものと思いますから、それに追従した事がありません」こう言ったピエールの声が非常に小さかったので、リートルはよく聞き取れないくらいであった。彼はピエールに何と言ったのか問い返した。「わたしは無神論者だったのです」ピエールは答えた。

「あなたが真理を求めるのは、つまり生活においてその法則を遵守したいからでしょう。して見ると、あなたは叡知と徳行を求めているのです、そうじゃありませんか?」束の間の沈黙の後、リートルはこう言った。

「そうです」とピエールは確かめるように言った。

リートルは一つ咳払いをして、手袋をはめた手を胸の上に重ね、さておもむろに言い出した。

「ではわたしもあなたに、我が組合の主たる目的を明示せねばなりません。もしこの目的があなたの目的と一致したら、あなたは自由に我が組合へ入って宜しいのです。この組合の最も重要なる目的であり、同時に存在の基礎であるものは、一種の重大なる神秘を保存し、且つそれを子孫に伝える事であります。それは如何なる人間の力も転覆させる事は出来ません。この神秘は極めて古い時代から――否、あるいは人祖アダムから今日まで伝わったもので、人類全体の運命も、これ一つに繋っているかも知れないのであります。然るにこの神秘の特質たるや、長年撓(たゆ)まず倦(う)まず自己の浄化を計って、準備に力を尽さなくては、何人と言えどもそれを知り、且つ利用する事が出来ない底(てい)の物ですから、誰でも彼でもすぐにその獲得を望む事は出来ません。そこで我々は第二の目的を抱いております。外(ほか)でもない、出来得る限り我が組合員の為人(ひととなり)を鍛練し、その心情を矯正し、知性を浄化し且つ向上せしめる事であります。これにはかの大神秘の発見に努力した、勇士達に啓示された多くの遺績(いせき)を適用して、大神秘の獲得に堪え得るような人物を、組合員から作り上げるのであります。我が組合員を浄化し矯正すると同時に、我々は第三の目的として、我が組合員に依って敬虔と徳行の模範を世に示し、全人類をも矯正する事に努めねばなりません。それに依って世界を支配しつつある悪と戦うべく、全力を尽して努力しているのであります。この事をよく考えて置いて下さい。わたしはまた後刻参ります」

こう言って彼は部屋を出た。

「世界を支配しつつある悪と戦う……」とピエールは繰り返した。と、この方面に向かって奮闘する自分自身の未来が彼の心に浮んだ。そして二週間前の彼と同じような人々の事も思い起こされた。彼はこれ等の人々に向かって教誨師めいた演説をする、自分の姿を心の中に描いて見た。彼が自分の言行を以て救うべき不幸せな淫蕩の人々、自分の救助によって餌食を奪われる暴虐者、こんなものも彼の頭脳に浮んで来た。リートルの数え上げた三つの目的の中で最後の物――即ち全人類の矯正という事が、一番彼に取って親しみがあった。リートルの仄めかした何かしら重大な神秘とかいうのは、ピエールの好奇心を唆(そそ)ったけれど、本当の中核のようには思われなかった。また第二の目的――自己の浄化と矯正も、余り彼の興味を引かなかった。何故というにこの時、彼は、自分が全然今までの悪行を矯正されて、ただもう善を行うばかりに準備が出来ているように感じたからである。

三十分を経てリートルは、ソロモンの神殿の七つの階段に相当する七つの徳――各組合員が自己の心内に養成すべき七つの徳を「求める人」に伝えるために帰って来た。それは次の如くである。(一)謙譲、組合秘密の遵守。(二)組合の上長に対する服従。(三)温厚。(四)人類に対する愛情。(五)剛気。(六)寛大。(七)死に対する愛慕。

「第七に関しては、」とリートルは言った。「死というものについて度々思索をめぐらし、遂に死は決して恐ろしい敵でなく、親しむべき友であると感じられるまで、自己の訓練に努力して下さい……つまり死は徳行の努力に疲れた霊魂を、この悲しみ多い現世から救い出して、報酬と慰安の場所へ導いてくれる友人であると言うように……」

『そうだ、それはそうあるべきだ』リートルが以上の事を述べた後、再びピエールを孤独な瞑想裏に取り残して去った時、ピエールはこう考えた。『それはそうに違いない。しかし俺はまだ弱い人間だから、自分の生活が愛しい。だって今やっと生活の意義が、少しずつ分かり掛けたばかりなんだもの』

しかし彼が指折り数えて思い出した残りの五つの徳は、ことごとく自分の心の中にあるように思われた――剛気も、寛大も、温厚も、人類に対する愛も、服従も――特に服従は彼に取って徳とは思われないで、むしろ幸福だとさえ感じられた(それは今こうして自分の我意を逃れて、確固不動の真理を知っている人々に、すっかり心を委せてしまうのが、彼には嬉しくって堪らなかったからである)。ただ最後の一徳はすっかり忘れてしまって、どうしても思い出す事が出来なかった。

間も無く三度目にリートルが引っ返して来て、ピエールの意向が依然として強固であるか、そして一切の要求に従う決心であるかどうかと訊ねた。

「わたしは何事も決行する覚悟です」とピエールは言った。

「まだ一つあなたに申して置く事があります」とリートルは言った。「我が組合はその教義を単に言葉のみでなく、ある種の方法を以て伝えています。その方法は真の叡知と徳操の探求者に対して、単なる言語上の説明よりも、強い効果を及ぼすものであります。現に御覧のこの部屋の飾りも言語以上に、何物かをあなたの心に説明した筈だと思います(但しあなたの心が誠実であるならばです)。多分これから先もあなたの入会式の進行につれて、こうした形体的な説明を御覧になる事でありましょう。つまり組合は己の教義を象形文字で示した、古代の会合を模したのであります。象形文字とは五官を絶し、且つ絵画のような性質を有する事物の謂(いい)であります」

ピエールは象形文字の何たるやをよく承知していたが、それを言い出す勇気がなかった。彼はすべての事から推して、今にもすぐ試練が始まるのだなと感じつつ、無言にリートルの言うことを聞いていた。

「もしあなたの決心が堅固でありますなら、わたくしはこれからあなたの試練に取り掛からなければなりません」尚一層ピエールに近付きながらリートルはこう言った。「寛大の兆(しるし)として、すべての貴重品をわたしにお渡し下さるように願います」

「しかし、わたしは今何も持ってませんが」自分の持っているものを、全部引き渡すように請求されたのだと思って、ピエールはこう言った。

「あなたの体に着いているものだけです。時計とか、金とか、指環とか……」

ピエールは急いで金入と時計を取り出した。そして肥った指から婚約指環(エンゲージリング)を抜き取るのに長いこと手間取った。これ等の事が終った時、リートルはこう言った。

「服従の兆(しるし)として脱衣をお願いします」

ピエールはリートルの指図によって燕尾服、胴衣(チョッキ)、左の靴などを脱いだ。リートルは彼の襯衣(シャツ)の左胸を開け、屈み込んで左の窄袴下(ズボン)を膝の上までたくし上げた。ピエールは馴染みもないこの人に、こんな労を掛けまいと、急いで左の靴を脱ぎ、窄袴下(ズボン)もたくし上げようとした。しかしリートルはそうする事は要らぬと言って、彼の左足に上靴(スリッパ)を穿かせた。自分自身に対する嘲りと、疑いと、羞恥の入り交った子供らしい微笑を浮べつつ(それは彼の意志に反して、ひとりでに顔に浮んで来るのであった)、ピエールは両手を垂れ足を拡げたまま、新しい命令を待って同胞たるリートルの前に立っていた。

「最後に誠実の兆(しるし)として、あなたの主なる欲望を告白して頂きたいです」

「わたしの欲望ですか! それは沢山ありました」ピエールは答えた。

「徳行の道において最も多くあなたを迷わせた欲望であります」とリートルは言った。

ピエールはあれかこれかと考えながら、しばらく黙っていた。

『酒? 飽食? 懶情? 無為? 癇癖と憎悪? 女?』と彼は自分の悪行を数え上げて、心の衡(はかり)にかけて見たが、その中の何(いず)れを最も重しとすべきか分からなかった。

「女です」とピエールは低い、聞こえるか聞こえないかの声で言った。

リートルはこの答えの後、長いこと身動きもしなければ、口も利かなかった。遂に彼はピエールの方へ進み寄り、卓の上に載っている手巾(ハンカチ)を取って、再び彼の目を縛った。

「最後に今一度言って置きますが、あなたの注意力を全部自分自身に集中して、自分の感情に鎖をかけ、欲望の中でなく自分の心中に幸福をお求めなさい、幸福の泉は外でなく内にあるのです……」

ピエールは心を爽やかにするようなこの幸福の泉を、既に自己の内部に感じていた。この泉は今、彼の魂を喜悦と感激とで充たしたのである。