戦争と平和 第五編, レフ・トルストイ

四


それから間もなく、ピエールを迎えに暗い部屋へ来たのは、もはや以前のリートルでなく、保証人のヴィルラルスキイであった。彼は声でそれと悟った。彼の志向の堅固如何に関する新しい問いに対して、ピエールは「ええ、ええ、承知です」とのみ答えた。そして幸福に輝く子供らしい微笑を浮べ、肥えた胸を曝し、片々の足に靴をつけ片々は素足のまま、おずおずと不規則な足取りで歩んだ。彼の露わな胸先にはヴィルラルスキイが剣を突きつけていた。部屋を出ると彼は前後左右にくるくると回りながら、廊下伝いに引かれて行った。そして遂に集会所の戸口へ辿りついた。ヴィルラルスキイが一つ咳払いすると、メイソン独特の槌の音がこれに答えて、戸は二人の前に開かれた。誰かの太い声が(ピエールの目は矢張り縛られたままであった)、ピエールが何者であるか、どこでいつ生まれたか、などという質問を発した。それからまた目隠しを取らないで、どこかへ導いて行った。そうして歩いている間中、様々な比喩が語られた。それは彼の行路の艱難(かんなん)や、神聖なる友情や、世界の永遠なる創造主や、すべての艱難危険(かんなんきけん)を忍ぶに必要な剛気などと言う事であった。この「旅」の間中、傍の人が自分の事を、ある時は求神者、ある時は苦悶者、ある時は探求者と呼んだ事や、それからその際、槌や剣で色々な音をさせた事に、ピエールは気が付いた。彼が何かしらある物の傍へ導かれた時、ピエールは指導者の間に躊躇と動揺の生じた事を悟った。彼は自分を囲む人々が、小声で互いに争い始めるのを耳にした。一人の者は何か毛氈(もうせん)の上を連れて通らねばなぬと主張していた。それが収まってから、誰かがピエールの右手を取って何かの上に載せ、左手で両脚器(コンパス)を左の胸へ当てるように命じた。そして今一人の読み上げる言葉を繰り返して、組合の清規(しんぎ)に忠実たるべしという誓いを立てさせた。終わって人々は蠟燭を消して酒精に点火し(ピエールは匂いでそれと知った)、彼に向かって、今、小さな光を見る事が出来るであろうと言った。やがて彼の目隠しは取り去られた。ピエールは弱々しい酒精の火の中に、リートルと同じ前掛を着けた幾人かの人が面前に立って、自分の方へ剣を突きつけているのを、夢か何ぞのように見分ける事が出来た。彼らの中には血(あけ)に染った襯衣(シャツ)を着た男が立っていた。これを見るとピエールは胸をつき出して、ぐさとばかり我身を貫(つらぬ)けよと望みつつ、剣の方へ進み寄った。が、剣はさっと退(ひ)かれて、彼はすぐに目隠しをさせられた。

「今お前は小さな光を見たのだ」と誰かが言った。それから再び蠟燭が点火(とも)された。人々は今度は全き光を見る必要があると言って、またもや目隠しを取った。と、不意に十人以上の声が一時に「Sic transit gloria mundi(かくの如くして地上の光栄は移る)」と称えた。

ピエールは段々と我に返って、自分の立っている部屋と、その中にいる人々を見回し始めた。黒い布で蔽われた卓の周りには、以前、彼が見た人達と同じ服装をした人が、十二人ばかり並んでいた。その中の誰彼は、ペテルブルクの社交界におけるピエールの知己であった。総裁席には一種特別な十字架を首にかけた、見覚えのない若い人が腰掛けていた。その右手には、かつて二年前ピエールが女官アンナの許(もと)で見た事のある、イタリアの僧正が坐っている。そこには以前クラーギン(ワシーリイ公爵)家にいた事のあるスイス生まれの家庭教師や、非常に勢力のある政治家も一人交っていた。一同は手に槌を持った総裁の言に耳を傾けながら、物々しげに沈黙を守っていた。壁の中には燃え輝く星の形が嵌めてあった。卓の一方の側には様々な模様のついた毛氈(もうせん)、今一方の側には福音書と髑髏(しゃれこうべ)とを載せた、祭壇ようのものが置いてあった。卓の周りには教会風の燭台が七本立て並べてあった。二人の組合員がピエールを祭壇の傍へ連れて行って、彼の足を直角に開かせ、今お前は神殿の門前に倒れるのだと言って、そこへ臥せるように命じた。

「その前に鋤(すき)を授けるのが順序じゃありませんか」と一人の組合員が小声で言った。

「ええ! もう沢山ですよ、黙ってて下さい!」と今一人が言った。

ピエールは命令に従おうともしないで、力抜けのしたような近視の眼で辺りを見回した。と突然、彼の心に疑惑の雲が垂れ掛かった。『俺はどこに居るんだろう? そして何をしてるんだろう? この人達は俺を愚弄してるのじゃないかしらん? 後でこんな事を思い出したら、恥ずかしくなりはしないだろうか?』しかしこの疑問が続いたのはほんの一瞬間であった。ピエールは自分を取り巻く人々の真面目な顔を見、先刻からして来た一切の事を思い出して、中途で止める事は不可能だと悟った。彼は自分で自分の疑惑に慄然として、以前の感激の情を呼び起こそうと努めながら、神殿の門前に身を投げた。すると実際以前に増して強烈な感激の情が、彼の心を襲ったのである。しばらくの間じっと倒れたままで居ると、やがて起き上がるように命じられた。彼は皆と同じ白い革の前掛を着せられ、一挺の鋤(すき)と三組の手袋を授けられた。この時、総裁がピエールに向かって、この前掛は堅固と貞操とを表するものであるから、決してこの純白を汚さぬように努力せねばならぬと言った。それから意味の分からぬ鋤(すき)に関しては、これを以て自分の心から悪業を除き、且つこれを以って遜(へりくだ)った態度で、同胞の心を和らげるように苦心せよと述べた。次に第一の男物の手袋については、この手袋の意味を知らせる訳にいかないが、大切に保存しなければならぬ。また第二の男物の手袋は集会に着けて出席するようにと教えた。最後に婦人用の手袋に関して総裁はこう言った。

「この婦人用の手袋もあなたの物と決めておきます。これをあなたの最も尊敬する婦人にお与えなさい。その贈物に依ってあなたの純潔を、将来自分の伴侶として選まれる婦人――即ち自由の石工たる資格のある婦人に証明なさい」しばらく言葉を途切らした後、彼はまたこう付け足した。「しかし、この手袋が汚れたる手を飾らぬように、気をつけなくてはなりませんぞ」

この最後の言葉を発した時、総裁は妙にへどもどしたようにピエールは感じた。で、彼は尚一層へどもどしながら、子供のように涙の滲み出るほど顔を赤くして、不安げに辺りを見回すのであった。ばつの悪い沈黙が生じた。

この沈黙は一人の組合員に依って破られた。彼はピエールを毛氈(もうせん)の方へ伴って、その上に描かれてある物象の説明を、手帳を取り出して読んで聞かせた、それは太陽、月、槌、垂直線、鋤(すき)、正方形の石、柱、三つの窓などであった。その後で人々はピエールに定めの席を指定し、組合の徽章(きしょう)を示し、合言葉を教えて、やっと腰かけることを許した。総裁は会規を読み始めた。その会規が恐ろしく長いので、ピエールは喜悦と興奮と羞恥のため、少しも腹に入らなかった。ただ終いの方だけはじっと耳を澄まして聞いていたから、後まで彼の心に留まった。

「この神殿の中において我らは、」と総裁は読み上げるのであった。「徳行と悪行との間に存する階段の外、如何なる階級をも認めず。我らの平等を破るが如き、何らかの差異を設くる事を慎むべし。何人にもあれ同胞の救助のためには、ためらう事なく突進し、迷える者を戒め、倒るる者を抱き起こせ。而(しこう)して如何なる時と言えども、同胞に対して憎悪敵意の念を抱くべからず。すべて優しく愛想よかるべし。万人の胸に徳行の火を掻き起こせ。また幸福は須(すべから)く汝の隣人に頒(わか)て。而(しこう)して羨望の念に依りてこの清き愉楽を濁すべからず。汝の敵を許し、報ゆるにただ善行を以てせよ。かくの如くして最高の法則を遵守せば、汝はかつて自ら失いたる過去の壮大の跡を見出すべきなり」

朗読が終った時、総裁はピエールを抱き寄せて接吻した。ピエールは歓喜の涙を浮べて周りを見回していた。人々が四方から投げ掛ける祝辞や、旧交更新の挨拶などに対して、何と答えていいか分からなかった。彼の眼中には旧交も何も無かった。彼はこれ等の人々の中に、ただ組合の同胞を見るのみであった。そしてこれ等の人々と共に早く仕事に取り掛かりたいという、堪え難い欲求に燃え立つのであった。

総裁が槌をとんと鳴らしたので、一同はそれぞれ席に着いた。そしてその中の一人が、恭順の必要に関する教訓を朗読した。

総裁はやがて最後の義務を果たすように提言した。で、喜捨金を集める役目を帯びた有名な政治家が、組合員の間を回り始めた。ピエールは自分の持っている金額を、すっかり書き込んでしまいたかったが、高慢なように思われるのも嫌だったので、他の人と同じだけの金高を書き込んで置いた。

集会は終りを告げた。帰宅後ピエールは、まるで何十年振りかに、遠い旅から帰って来たような気がした。そして以前の生活状態や習慣などから離れてしまって、全く別な人間になったように感ぜられた。