奇談, ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)

幽霊滝の伝説


伯耆国ほうきのくにの黒坂村の近くに、幽霊滝と呼ばれる滝が有る。どうしてそう呼ばれているのかは知らない。滝のふもと近くに人々が滝大明神と名付けた産土神うぶすながみを祀る小さな神道の社が有り、社の前には信者からの供物を受け取る小さな木製の金箱──賽銭箱──が置かれている。そしてこの賽銭箱にまつわる話が有る。

三十五年前の凍てつく冬のある晩、黒坂のとある紡績工場──麻取り場──で、一日の仕事を終えた雇われの女房や娘達がつむぎ部屋の大きな火鉢の回りに集まっていた。その時は面白半分に怪談話を語り合っていた。十を越える話が語られ集まったほとんどが気味悪く感じながらも、恐怖の盛り上がりが最高潮に達した頃、ひとりの娘が叫んだ。「そうだ、今晩この中の誰かひとりだけ幽霊滝に行ってみない。」この提案は全体に神経質な爆笑を伴う金切り声を引き起こした……「今日紡いだ麻を全部あげるよ」集まった中のひとりがからかって言った。「行った人にね」「私もあげる」別の者が声をあげた。「私も」三人目が言った。「みんなが」四人目が確認した……その時紡績工の中からひとり、大工の妻の安本やすもとかつが立ち上がった──二歳になるひとり息子が居り、背中でくるまれて気持ち良く眠っていた。「聞いて」お勝は言った。「みんなが今日紡いだ麻の全部を私にくれると賛成するなら、幽霊滝に行ってくる。」この提案には驚きあきれた叫びが返ってきた。しかし何度か繰り返した後で真剣に受け入れられた。紡績工それぞれは、お勝が幽霊滝へ行ってきたのなら、その日の仕事の分け前をお勝のためにあきらめて手放すと合意した。「でも本当に行ったのか、どうしたら分かるの」鋭い声がたずねた。「賽銭箱を持って帰ったらいいんじゃない」紡績工達からおばあさんと呼ばれる年取った女が答えた。「証拠には十分だろう」「持ってくるわ」お勝が叫んだ。そして背中に子供をおぶったまま外の通りへ飛び出して行った。

その晩は霜が降りるほど寒かったが、澄みきっていた。人影の無い通りをあわただしく下っていくお勝の目に、刺すような寒さのため扉を固く閉めた家々が見えた。村を出て、街道に沿って──ぴちゃぴちゃ──星明かりだけを頼りに、静まり返る凍った田んぼの間を走った。半時間ほどは公道沿いに、それから曲がって崖下のくねった狭い道へ降りた。小道は進むほどに暗く荒れていったが、それはよく心得ていて、すぐに水の鈍い轟音が聞こえてきた。ほんの数分の後、道は峡谷へと広がり──鈍い轟音は高く騒々しくなって──前に暗黒のかたまりに反して浮かび上がる滝の長い微かな光が見えた。ぼんやりと社──の賽銭箱──が見分けられた。急いで進み出た──手を突き出して……

おい、お勝さん」不意に、水の砕ける辺りからいましめる声が呼び掛けた。

お勝は立ったまま動かなかった──恐怖のあまり茫然ぼうぜんとしていた。

「おい、お勝さん」声が再び響いた──今度は威嚇いかくの調子が強かった。

だがお勝は実にたくましい女であった。すぐに麻痺から立ち直ると賽銭箱をひったくって走った。街道に到着するまではそれ以上の警告は何も聞かず何も見なかった。そこでひと息いれるために立ち止まった。それから黒坂に着くまで──ぴちゃぴちゃ──しっかり走って麻取り場の扉をゴンと叩いた。

女房や娘達がどんなに叫んだことか、賽銭箱を手にしてあえぎながら入ってきたものだから。皆は息を呑んで話を聴き、水の方から幽霊が名前を呼ぶ二度の声について語ると、共感の悲鳴が上がった……なんて女だ、勇敢なお勝──麻を受け取るのに相応しい……「でも坊やは凍えてるはずだよ、お勝」おばあさんが叫んだ。「火のそばの、こっちで預かるよ」

「お腹がすいてるはずだわ」母親が声を上げた。「すぐにお乳をやらないとね」……「困ったお勝だよ」そう言っておばあさんは、子供を運んだ包みを外す手伝いをした──「あら背中じゅうずぶ濡れよ」それからかすれた叫びを上げ、大声でわめいた。「あら、血だわ」

そして緩められた包みから床に落ちたのは、小さな小さな褐色の両脚と小さな小さな褐色の両腕が露出した、血に染まった赤ん坊の着物のかたまり──それ以上は無かった。

子供の頭は千切ちぎれていた。

「骨董」より

注釈

おい】『おい』という感嘆詞は人に注意を呼びかける際に使われる。この日本語と同様な英語の感嘆詞はhalloa!やHo, there!等色々。


©2018 小林幸治.