科学的世界把握――ウィーン学団, オットー・ノイラート

回顧と展望


上に述べてきた諸問題に取り組むことによって、現代の科学的世界把握は発展してきた。私たちは物理学を例にとって、当面は不満足で不十分にしか解明されていない科学的道具で明白な成果を得ようと努力することで、より一層、方法論上の研究へと突き動かされていったことを見た。こうして仮説形成の方法が発展し、ついで公理的方法と論理的分析の方法が発展した。これによって、概念形成はより一層の明晰性と厳密性を獲得した。これまで見てきたように、こうした方法論的問題は、物理的幾何学、数学的幾何学、算術の基礎研究の発展からも導かれたのである。現在、科学的世界把握の支持者が熱心に取り組んでいる諸問題の源泉は、これらの分野である。ウィーン学団の個々のメンバーの出自が様々な問題領域にあることが、今でもはっきりと認められるという事実も、納得のいくことである。この出自の相違から、関心の方向や論点の違いが生じ、見解の相違にまで発展することもしばしばである。しかしウィーン学団に特徴的なのは、厳密に形式化を行ない、正確な論理的言語と記号体系を適用し、テーゼの理論的内容を単なる随伴表象から区別しようとする努力によって、この相違の幅が縮められていることである。少しづつ共通認識の量が増えており、それが科学的世界把握の核となるべき部分を形成している。そしてその周辺に、主観的にはかなり食い違いのある表層が結びついている。

こうして振り返ると、新しい科学的世界把握の本質が従来の哲学とは対立するものであることは明白である。固有の「哲学的命題」など提起されず、ただ命題が解明されるだけである。しかもその命題は、前出の様々な問題領域について見たように、経験科学の命題である。科学的世界把握の支持者の何人かは、体系的哲学との対立をより強調するために、そもそも自分たちの活動に「哲学」という語を使おうとしない。だが、どういう名前を使うにせよ、次の一事は確実である。すなわち、経験科学の様々な領域と並んであるいはそれを超えて基礎学または普遍学としての哲学は存在しない、ということである。経験をおいてほかに内容のある認識へ到達する道はない。経験を超えたところあるいはその彼岸に存するような観念の王国(Reich der Idee)など存在しない。しかしながら、科学的世界把握の意味における「哲学的」または「基礎的」研究の活動は重要である。なぜなら、科学的な概念、命題、方法の論理的解明は、私たちを妨げている先入見から解放してくれるからである。論理的・認識論的分析が科学的研究に何らかの制限を課すことはない。反対に、そのような分析は科学に形式的に可能なものの領域を可能な限り完全な形で与え、その領域からその都度、経験に合致するものを選び出すのである(非ユークリッド幾何学と相対性理論がその一例である)。

科学的世界把握の支持者は、断固として、単純で人間的な経験という大地の上に立脚する。彼らは、数千年にわたって積み重なった形而上学と神学の瓦礫を道から除去する仕事を、確信をもって遂行する。このことはあるいは、若干の人々が考えているように、形而上学の回り道の後に、ある意味ではすでに神学から自由であった古代の呪術信仰の根底にあった、統一的な此岸の世界像へ回帰することである。

今日、多くの団体や党派、書物や雑誌、講演や大学の講義において幅を利かせている形而上学的・神学的傾向の増加は、現代の激しい社会的・経済的闘争に基づいているように思われる。争っている一方の集団は、社会的領域における過去のものを保持しながら、伝統的に受け継がれてはいるが、内容的にははるか昔に乗り越えられた形而上学と神学の考え方を振興しようとしている。これと対立するもう一方の集団は、新時代に入って特に中欧に見られるが、この考え方を否定し、自らを経験科学の基盤の上に位置付けている。この立場の発展は、ますます機械化が進み、ますます形而上学的表象の入る余地が少なくなってきた近代的な生産過程の発展と結びついている。そしてまた、伝統的な形而上学的・神学的学説を布教する者の態度に大衆が失望しているということとも結びついている。そのため、多くの国では、大衆はこれまでにもまして自覚的にこうした学説を拒否し、彼らの社会主義的態度と結びついて、現実的な経験的把握を選ぶ傾向が強まっている。昔は、この見解の表明は唯物論の仕事だった。しかし他方、近代の経験主義は、幾つかの不十分な形式から出発して、科学的世界把握において確固たる形態を獲得したのである。

こうして、科学的世界把握は現代の生活にとっても近しい存在になった。確かに、これに対して強い敵意を抱き、攻撃をしかける者もある。それでも、これに怯むことなく、現代の社会的状況に直面して、科学的世界把握の一層の発展に希望を託している多くの人々がいる。確かに、科学的世界把握の支持者の全員が戦闘的であるわけではない。孤独を喜ぶ何人かは、論理という冷厳な孤峰の上に隠遁し、また何人かは、大衆との混合を非難し、拡大の際には不可避の「陳腐化」を潔しとしないだろう。だがそうした人々の業績もまた、歴史的発展と結びついているのである。私たちは、科学的世界把握の精神がいかにして私的・公的な現代の生活、裁判、教育、芸術に一層深く浸透し、経済的・社会的生活が合理的基盤に基づいて形成されることを助けているかを体験している。科学的世界把握は生活に寄与する。そして生活もこれを受け入れるのである。


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