牧師館の娘, デーヴィッド・ハーバート・ローレンス

第三章


それから三年経って──つまりメアリーが二十三歳の折、リンドリー師もまた病いに倒れてしまった。その時にはもう、一家は貧窮のどん底にいて、リンドリー師の病気で、いよいよ多くのお金が必要になるというのに、彼らの手元はまったくの不如意だった。まだメアリーもルイーザも未婚のままだった。そもそも、彼女たちに結婚の機会なんてあり得ただろうか? オールドクロスに居ては、夫として望ましい青年に出会うことなどない。それでいて、二人が働いて得られるお金は、ますますささやかになっていく。この終りのみえない、寒々とした窮乏に、この息苦しい生活の足掻きに、人生の酷薄な徒労の感に、二人の娘の心は、凍えて、強ばってしまうようだった。

教会での務めをつづけられなくなった牧師は、代わりの者を見つけなければならなかった。そしてちょうど、リンドリー師の旧友の息子で、聖務につくため三ヵ月前から準備している者がいた。その男が、無償で代わりを務めてくれることになった。ところで、この青年牧師は、リンドリー一家に熱烈に到着を待たれていた。彼は、ローマ法についての論文を書き、オックスフォードで修士号をとった、まだ二十七歳に満たない若者であるとのことだった。さらに彼は、オックスフォード州の古い家柄の者で、個人の資産を幾らか持っていて、行く末は、ノーサンプトン州で一つの教会を任され、豊かな俸給を食むだろうと思われており、しかも、まだ結婚していなかった。夫の病気のせいで、日々重なっていく借金に苛まれている、リンドリー夫人は、却って、この成り行きを喜んだくらいだった。

ところが当の若者──マッシー青年が来ると、一家は失望の驚きに充たされた。彼らは、パイプの似合う、太い豊かな声音をした、それでいて、リンドリー家の長男のシドニーよりも礼儀作法を心得た若者を、想像していたのだ。だがやって来たのは、十二歳の少年とも見まがう、小柄な、弱々しい男で、眼鏡をかけており、極端に臆病で、初めのうちは碌に挨拶もできないほどおどおどしていたが、しかし、胸の内には、或る非人間的な自惚れを秘めているような、若者だった。

「未熟児みたいな人だわ!」と、ボタンをきっちり留めた、牧師のコートを着込んだ青年の姿を、初めて見たとき、リンドリー夫人は心の裏で叫んだ。そして、永い間忘れていた、彼女の子供たちがみな健やかな姿形をしていることに対する、神への深い感謝の念が、彼女に呼びさまされた。

マッシー青年には、ごく普通の感受性が欠けているようだった。一家の者は次第に、この青年は、人間らしい感性がひどく貧しくて、そのかわり、彼の生がそれに依存しているところの、強靭で哲学的な自意識を具えているのだと、認めるようになった。肉体においては、ほとんど存在しているかどうかも怪しいのに、知性の面では、彼は確固たる何者かだった。彼がひとたび会話に加わると、話の流れは、均斉が整い、議論は抽象的になった。無邪気な感嘆も、荒っぽい断言も、個人的な信念の押しつけも消え失せ、ただ合理的で冷淡な主張だけが流れるのだった。これが、リンドリー夫人には難儀だった。彼女が自分の考えを口にするたびに、この小男は、彼女をじっと見据え、そして彼女が言葉をきると、それを痩せた声で、あの怜悧な手際で彼なりに言い換えてくれるのだが、そんなことをされると、彼女は、今まで自分たちの会話がよりどころにしていた礎が脆くも崩れ、稀薄な大気のなかへ、自分が突き落とされたように感じるのだった。彼女は、自分がまったくの愚か者だと感じる。そして彼女は、もう堅く押し黙らざるを得なくなるのだった。

マッシー青年が、そう遠くない将来、年に総じて六、七百ポンドの収入を得るようになる、独り身の紳士であることを、無論、リンドリー夫人は胸の内では忘れていなかった。裕福で安易な暮らしが送られるのならば、男としての威厳なんて、どうでもよいではないか? そんなことは金銭にくらべれば、ささいな瑕疵だ。──二十年の余の歳月が過ぎるうちに、リンドリー夫人の感じやすい心も、擦り切れ、もはや貧窮の重荷だけが、彼女の関心事になっていた。それだから、リンドリー夫人は、マッシー青年を豊かな収入をもたらしてくれる者として、崇め、味方した。

マッシー青年の日頃見せる仕種で、もっとも他の者の気に障るのは、彼が、他人の非論理的な突拍子もない言動を見て、それを指摘するときの、くっくっと洩らす、小さな嘲りの独り笑いだった。それが、彼が愉快そうな顔を見せる、唯一の機会なのだ。思考において論理的な誤りをおかすのは、彼には、得も言えず滑稽に見えるらしかった。彼にとっては、たとえば小説などというものは、最後まで読み得ない、無内容で、退屈なものにすぎず、彼が興味をもって耳を傾けるのは、アイルランド風のユーモアのみで、それも、聞き流すだけか、さもなければ、まるで数式のようにそれを分析するのだった。普通の人間的なかかわり合いからは、彼は隔絶していた。素朴な日常的な会話にさえ、彼はほとんど交わらず、つねに、彼独りの、高尚な、冷たい小さな世界に閉じこもり、家のまわりを静かに歩いたり、怖じ怖じとあたりを窺いながら、食堂に坐っていたりした。ときたま、彼は、人間的な情思とは無縁な、皮肉っぽい意見を述べ、或いは、冷笑のように小さく鼻を鳴らしてみせた。自分自身と、その自分の偏った性向とが傷つかぬよう、彼は気を配っていた。何かしら問い掛けられた際にも、彼は、はい、いいえとだけ、嫌々ながら答えるだけだったが、それは、その質問に含まれる言葉の影響をこうむるまいとして、彼が神経質になるからだった。マッシー青年は、他人をおろそかに見ているにもかかわらず、何か漠然と、痺れるような触れ合いを期待して、ルイーザと、メアリーの身近に居ることは好んでいる──ルイーザにはそんな風に思えた。

そうしたことを別にすれば、マッシー青年は、すぐれて働き者だった。始終おどおどしている彼だったが、義務に忠実たる点では、およそ徹底していた。キリスト教精神が求められるときには、いつでも、彼は完璧なキリスト教徒だった。自分より外の存在と、まともに触れ合うことができず、従って、誰かに直に助けを申し出ることなどできないにもかかわらず、彼は、自分が人のために何ができるかに、絶えず目を光らせ、それに着手した。まず彼は、病身のリンドリー師に恭しく仕え、リンドリーの受け持つ教区民と教会の実態を、事細かに調べ上げ、書類を整理し、病人と貧困者のリストを作り、それから、ほかにも何かできることはないか、救済すべき事態はないかと、探して歩いた。或いは、リンドリー夫人が、息子たちの将来について懸念しているというのを知ると、青年は、彼らがケンブリッジで学ぶためにはどうすればいいかを、教えてくれた。青年のこうした親切心は、メアリーを恐れさせた。彼のたゆまぬ善行に敬意を感じつつも、彼女は、それを不気味にも思った。というのも、マッシー青年の優しさは、自分が救おうとしている人たち、人間であるはずのその誰に対しても、およそ同情の念を欠いているように見えたからだ。ただ彼は、一種の数学的な問題の答えを得ようと、与えられた前提から帰結を導き、計画的に慈善を遂行しているだけだった。彼はあたかも、キリストの教えを、幾何学の公理のように扱っていた。彼の宗教心の本義は、要するに、彼の几帳面で抽象的な精神に適うかどうかということだった。

青年の働きぶりを見ては、メアリーは彼を尊敬し、称賛しないわけにはいかなかった。そうであればまた、青年を忠節に手助けするのも、彼女の義務だった。彼女は身の毛がよだつ思いで、しかし一方では、自ら欲するように、自分にこの義務を強いたが、そうした彼女の胸の内を、青年はまったく感受しなかった。彼女は、青年が教区を訪ねてまわるのに付き従ったが、彼の、肩を傾げてとぼとぼ歩く、外套のボタンを喉元まで掛けた、少年のような姿を見ると、彼女のよそよそしい讃美の底から、憐れみの念がきざすのだった。メアリーは背丈の高い、落ち着いた、人目を惹く娘で、その身ごなしは美しく、人を安らかな気持にさせた。身なりの倹しい彼女は、毛皮のない絹の黒いスカーフを巻いていた。彼女がマッシー青年と連れ立って歩くのを見て、人々はこう口にした──

「やれやれ、あれがリンドリーんとこのお嬢さんの連れあいかい? あんな陰気なちび野郎、どっから連れて来たんだろうな!」

メアリーは、人々がそう口にしているのを知っていたが、そうした揶揄の言葉は、彼女の胸に、人々に対する逆らいの念を燃え立たせ、彼女は、あたかも保護するかのように、傍らの小柄な男に、寄り添うのだった。何にせよ、青年の歴とした善良さを、彼女は信じられたし、それを尊敬することもできた。

青年は速く歩くことができず、また、長い道のりも辛がった。

「お具合が悪いのでしょうか?」と、彼女は彼に恭しい物腰で訊ねた。

「内蔵を患ってるんです。」

それを聞いたメアリーの肩が、微かに震えたのに、青年は気がつかなかった。彼女が、項垂れて、気を鎮め、青年に対する柔らかな物腰をふたたび取り戻せるのを待つあいだ、しばらく沈黙がつづいた。

マッシー青年は、メアリーに惹かれていた。メアリーはそれまで、ごくたまに彼が教区を訪ねてまわるのに、彼女やルイーザが付き添うのを、青年への執りなしとして、当然の義務としていた。メアリーが彼に付き添う朝もあれば、ルイーザがその務めにつく朝もあった。だが、ルイーザには、まるで女王に対するかのように、マッシー青年に恭しく仕えるのは、堪えられないことだった。ルイーザは彼に、嫌悪の情以外抱くことができなかったのだ。後ろから従い歩く彼女の眼に、痩せてねじけた肩をした彼は、十三歳かそこらの病み衰えた少年としか見えず、そんな彼を、彼女はひどく嫌って、できるなら、この青年の存在を、抹殺してしまいたいとさえ感じるのだった。しかし、メアリーの内の、毅然とした徳義心を前にしては、ルイーザも謙虚に振舞わざるを得なかった。

ルイーザとマッシー青年は、或る日、中風を患い、もう先が永くないだろうと思われていた、デュラント氏を見舞いに行った。小屋に招き入れられるとき、ルイーザは、この小柄な牧師と連れ立っていることを、はっきりと恥ずかしく思った。

だがデュラント夫人は、それに気づかぬほど、この抜き差しならない不幸を前にして憮然としていた。

「デュラントさんの具合はどうでしょうか?」とルイーザは訊ねた。

「相変わらずです──、これ以上悪くなって欲しくないですがね、」と答えが返った。小柄な牧師は、そのやりとりを離れて見ていた。

彼らは二階へ上がって行った。枕に老人の白髪の頭がのせられ、掛けられたシーツから、灰色の髭がのぞいている寝床を、彼ら三人は、しばらく立って眺めた。ルイーザはその様に驚き、怯えおののいた。

「ずいぶんお悪いのですね、」と、ルイーザは身震いして言った。

「いつかはこうなると思ってましたよ、」と、デュラント夫人は応えた。

そんなことを言うデュラント夫人にも、ルイーザはおののいた。二人とも、落ち着きない気分で、マッシー青年が何を言うかを待った。身を縮め、傾くように、彼は立っていたが、緊張してうまく話せないようだった。

「デュラントさんは、まだ正気でいらっしゃるのでしょうか?」と、ようやく彼は訊ねた。

「ええ、たぶん、」と夫人は言った。「ジョン、聞える?」と、彼女は夫に大声で呼びかけた。生気のない彼の、くすんだ青い眼が、夫人に向ってかすかに動いた。

「言葉は分るみたいです、」と、デュラント夫人はマッシー青年に言った。だが、鈍々しいその眼の光りをのぞいては、デュラント氏の横たわる姿は、ほとんど屍体のようだった。三人とも、黙りこくって佇んでいた。ルイーザは気丈に立っていたが、生命が失われてゆくこの様の深刻に、ひどく打ちのめされていた。彼女が自身の感情をあらわに示すのを妨げていたのは、マッシー青年の存在だった。その場では、青年の非人間性が他の者を圧していた。

すると突然、階下に足音が立ち、和らいだ口調で呼びかける男の声が、彼らの耳に響いた。

「母さん、二階にいるの?」

デュラント夫人はびくっと戦き、ドアへ駆け寄った。しかしすでに、敏捷な、しなやかな足音は階段を昇り切っていた。

「少し早く帰って来たんだ、母さん、」と、気遣わしげな声で言う、踊り場に立った水兵の姿を、彼らは眼にした。夫人は息子のもとへ駆けて行き、すがりついた。彼女は自分の心を支えてくれるものを、不意に見出したのだ。アルフレッドは母親に腕をまわし、身をかがめ、キスをした。

「父さんは大丈夫なのかい?」彼は強いて声音を抑えながら、母親に不安げに訊ねた。

踊り場の薄暗がりに寄り添って立った親子から、ルイーザは眼を逸らした。彼女は、自分が、マッシー青年とその場にいなければならないことが、堪えられなかった。マッシー青年は、まるで、眼前にあらわれた情緒的な場面が気に障るかのように、苛々して立っていた。彼は落ち着きなく、不本意ながらという風に、しかも冷やかな目撃者としてそこにいるのだ。ルイーザの感じやすい熱い心には、自分たちはまったく、まったく場違いだと思われた。

ふたたび寝室に入って来たデュラント夫人の頬は、濡れていた。

「ルイーザさんと牧師さんよ、」と、彼女は途切れ途切れの震え声で、言った。

頬の紅潮した、背のすらりと高い、デュラント家の息子は、姿勢を正して軍隊風に敬礼した。だが、ルイーザは手を差し出した。すると一時に、彼のハシバミ色の眼は、彼女が誰かを認めたらしく、彼女が以前好きだったのと変わらぬ、彼の白い小さい歯並みが、親しみをこめてちらりとのぞいた。それを見て、彼女はひどく動揺した。アルフレッドが、寝床の傍らへ回って行くと、彼のブーツが床の漆喰に触れて、固い音を立てた。顎を引いて立った彼の姿は、威厳を放っていた。

「元気ですか、父さん?」と、彼はシーツの上に手をのせ、ためらいがちに言った。しかし老人の空ろな眼は固く、動かなかった。息子はしばらくのあいだ、身じろぎせず静かに立っていて、それから、ゆっくりと退いた。ルイーザは、セーラー服の青い上着の下で、深くうねりはじめた、彼の胸の精妙な輪郭を見つめた。

「僕が分らないみたいだ、」と、彼は母を振り返って言った。彼の顔は徐々に青ざめていった。

「ああ、坊や!」と、母親は哀れげに叫んで、顔を上げた。そして突として、彼女が彼の肩に顔を押しつけたので、息子は彼女の方へ身をかがめ、重みをあずけた彼女を、抱き締めてやり、そうして、彼女は身も世もなく泣き始めた。ルイーザは彼の脇の下がふるえるのを眼にし、また、彼の胸から悲痛な息根が洩れるのを聞いた。顔を背けたルイーザの頬には、涙が流れていた。デュラント氏は、白い寝床の上に、生気なく横たわっており、その傍で、マッシー青年は、日灼けした肌の水兵と部屋に一緒にいるせいで、ますます小柄に、不気味な、居るか居ないのか分らないような存在になっていた。マッシー青年はただ立って待っていた。それを見てルイーザは、死にたくなり、何もかも終ったような心持ちになった。自分が、もう一度顔を向け変え、アルフレッドと、デュラント夫人とを見ることは、あまりに無恥だとさえ感じた。

「では、お祈りをあげましょうか、」と牧師が弱々しく言ったので、皆はひざまずいた。

寝床の上の死に瀕した老人は、ルイーザに怖れを呼びさました。それからマッシー青年の、細く、超然とした声を聞くと、彼に対する恐怖の念もまた、彼女の胸の内にひらめくのだった。心の震えがおさまるまで待って、彼女は顔を上げた。寝床の向う側には、母親とその息子の頭が見え、その一方は、白く細いうなじへとつながる黒いレース編みの帽子をかぶっており、他方──息子の方の頭は、茶色の、陽差しに焦げた、あまりに密で堅いために、分け目をつくることのできない髪の毛に覆われ、その下の、日灼けして引き締った首筋は、渋々という風に、お祈りのために屈められていた。見事な灰色の髭を生やした老人は、身動きせず横たわったままだったが、お祈りは続いた。彼ら皆が、より崇高な意志に捧げられるとでも言いたげに、マッシー青年のお祈りの言葉は、純粋に、清澄に、響いた。青年はあたかも、垂れた首部を支配する何者か──それらを無慈悲に、厳しく取り締まる何者かであるようだった。ルイーザは、彼が怖かった。祈りが一通りつづくあいだ、彼女は、この牧師への崇敬を強いられているように感じた──それは容赦ない、冷たい死に似た感触、純粋な正義の感触だった。

その晩、ルイーザはその日の訪問について、メアリーに語って聞かせた。彼女の心、彼女の血の流れは、母親を腕に抱き締めたときのアルフレッド・デュラントのことで、占められていた。そしてまた、幾度もくり返し彼女が胸裡によみがえらせる、アルフレッドの声の震えは、焔のように彼女の身体をめぐり、陽のように赤みさす彼の顔と、彼の金色を帯びた茶色の眼──優しげで、当惑気味で、今は本能的な不安のために張りつめているあの眼、ひどく日灼けした綺麗な鼻筋、彼女に笑いかけずにはおれない口許を、自分の想像のうちに、よりはっきりと描き出したいと、願うのだった。アルフレッドの見目形を想起すると、まっすぐで敏感な生の奔流が、彼女をつらぬき、彼女は誇らしささえ感じた。

「彼は素敵な男の子になっていたわ、」とルイーザは、アルフレッドと自分が一歳しか違わないことを忘れたように、メアリーに言った。そして心の内奥で彼女は、マッシー青年の非人間性を、深く怖れ、ほとんど憎悪を抱いていた。彼女自身とアルフレッドとを、マッシー青年の脅嚇から守らねばならないと、彼女は思った。

「マッシーさんもその場に居たけれど、」と彼女は言うのだった、「私、あの人が嫌いだわ。何の権利があってでしゃばってくるの、あの人?」

「マッシーさんは自分の義務を果たしているだけよ、」と、しばらく黙っていてから、メアリーは応えた。「マッシーさんは、本物のクリスチャンですもの。」

「私には、ほとんど白痴のように見えるけど、あの人、」とルイーザは言った。

静かに美しい表情をしたメアリーは、しばらくの沈黙の後、言った──「まあ、そんなこと言っちゃだめよ──、白痴だなんて──」

「そんなら、あの人は、生後六ヵ月の、いえもっと、生後五ヵ月に満たない子供みたいだと言うわ。まるで月足らずの、あわただしく産まれて来た子供みたい。」

「そう、」とメアリーはゆっくりと応えた。「マッシーさんにどこか未熟なところがあるのは、確かよ。でもあの人の内には、素晴らしいものもあるでしょう。それに、あの人は本当に善い人で……」

「確かにね、」とルイーザは応えた、「でも、あの人が善い人になろうと努力してるわけじゃないわ。ただ、ああいう人を善いと呼ばなきゃならないってだけよ!」

「でも、それが善いということなのよ、」と、メアリーは自分の考えをくり返した。そして微笑しながら付け加えた、「それに、あなたもマッシーさんが善い人だってことは分ってるのでしょう?」

メアリーの声には不撓の響きがあった。彼女は、とても大人しやかに、日々の義務を処していた。これから自分の人生に何が起るのかを、すでに彼女は魂で悟っていた。マッシー青年は彼女よりも強大な存在であり、彼の意趣に自分が従わなければならないことを、メアリーは分っていた。しかし、マッシー青年のそれよりも誇り高く、力強い、彼女の肉体的な自我は、マッシー青年を嫌い、蔑んでいたのだった。それでいて、彼女は、青年の倫理的で精神的な存在に、支配されていた。また、彼女は、自分にもはや多くの選択が残されていないことも、両親が何を期待しているかも、理解していたのだった。


©2006 稲富裕介. この版権表示を残す限りにおいてこの翻訳は商業利用を含む複製、再配布が自由に認められる。プロジェクト杉田玄白 (http://www.genpaku.org/) 正式参加作品。