現代憲政評論 選挙革正論其の他, 美濃部達吉

治安維持法批判


=大正十五年の学生検挙事件=

近頃起つたいろいろの事件の中でもわれわれ大学関係者にとつて最も傷心な出来事は、いふまでもなく、学生検挙事件である。

三十八人の学生が一時に刑事被告人となつて検挙せられたといふだけでも、学校始まつて以来未曽有の出来事であるのに、それが治安維持法第二条の七年以下の懲役または禁錮といふ、聞くも恐ろしい刑罰に該当する犯罪の嫌疑であり、検挙された学生の多くは、秀才の聞こえの有つた前途有望の青年で、中には大学から大学院の特選給費生に選抜せられて居た少壮新進の学士すら有つたといふに至つては、実に天下を驚かすに足るべき大事件と言はねばならぬ。

何故に此の如き事件が起つたであらうか。これを検挙した官憲の行為は果して是認せらるべきであらうか、此の如き事件は如何なる手段を以つても、将来絶対に再び勃発せぬやう、抑圧すべきであらうか。若しこれを抑圧せねばならぬとすれば、国家として、大学として、はた同窓学生として、如何なる善後策を講ずべきであらうか。

これ等は、政府当局者は言ふに及ばす、国民一般殊に我々大学関係者の、最も慎重に考慮せねばならぬ問題である。

吾輩微力にして固よりこれ等の問題に解答を与へ得べき自信あるものではないが、いやしくも大学教職の席末を汚して居る者として、事件起つて以来窃に痛心措く能はざるものがあり、またこれ等の問題について、多少の意見が無いでもない。既に多くの諸先輩が、本紙において、または諸新聞雑誌において、意見を吐露せられた後であるが、先輩の驥尾きびに附して、吾輩もまた少しく卑見を述ぶることを許して戴きたい。


何故に此の如き事件が起つたであらうか。

世間では、その原因を一も二もなく、大学教育の欠陥に帰し、大学教授の赤化がこの結果を来したものとして居る者が有る。中には多大の国費を以て経営せられる官立大学において、却て罪囚を作り出し、反国家思想を醸成して居るのは、怪しからぬことと、大学の存在を呪ひ、大学教授を罵倒して居る者が有る。

文部大臣岡田良平氏は、今回の事件を以て、大学総長の「平素訓育宜しきを得ざるの到すところ」であるとなし、大学総長に譴責を加へた。

わが輩はこれ等の意見に反対するもので、それは大学教授の責任に帰すべきものでもなければ、況や大学総長の責任に帰すべきものでないことは勿論であると信ずる。原因は遥にそれ等よりも深い所に存するもので、それが単に或一の大学または或一の学校の総長や校長や教授の悪いために起つたものでないことは、今回の事件に関係した学生が数多の大学または学校に跨つて居ることのみを見ても、容易に知ることが出来る。

併しながらこれ等の原因はここに述べようとするところでなく、それに付いては、他日題を改めて別にこれを評論したいと思ふ。


それよりも第一に感ぜられることは、今回の事件を刑事問題たらしむるに到つた治安維持法が、現代立憲政治の下において、世にも稀な悪法であるといふことである。

それは、制定の当時から、悪法としての非難の声が、世に高かつた法律であるが、その最初の犠牲として、今回の事件が起つて見ると、その悪法であることが、一層しみじみと感ぜられる。

治安維持法は要するに現在に政治上の勢力を有つて居る階級の人人の信念を絶対の真理と看做し、これに反対する思想を異端視して、刑罰をもつてその思想を抑圧せんとするものである。それは一の信念の他の信念に対する戦ひであつて、その一方の信念を有する者が、偶々現在の権力者であるために、その権力を施用して反対の信念を圧迫せんとするものである。信念と信念との戦ひ、主義と主義との争ひにおいて、言論と教化との力によらず、法律と刑罰との力をもつて、反対の主義信念を殲滅しようとするものなることにおいて、あたかも往年の切支丹禁制とその軌を一にして居る。治安維持法の悪法なる所以は実にこの点にある。

治安維持法を通覧して、其の最も著しい特色として、目につくことは、二点を挙げることが出来る。其の一は、厳罰を以て或る思想それ自身を禁歇せんとして居ることであり、其の二は、国体を変革することと私有財産制度を否認することを同一に取り扱つて居ることである。

第一に、治安維持法は不法手段を以て政治又は社会組織を変革せんとする行為を罰するのではなくして、現代の政治及び社会組織に反対する為の結社行為、並に斯かる結社に加入し、又は結社を為すことの協議を為す行為をすらも、内乱罪に等しき又は之よりも一層重き刑罰を以て臨まんとするものである。

それは露骨の語を以て言へば「共産党鎮圧法」とも称すべきもので、共産党の存在又はその計画をすらも厳罰を以て抑圧せんとするものに外ならぬ。

私はわが国民の中に極めて少数ながらも斯かる思想を抱く者の生じたことを甚だ悲しむもので、わが国体は日本国家の最も大なる強みであり、これが毀損せらるることは即ち国家の存立が危ふくせらるることであり、而して国家の存立は無産階級自身の幸福の為にも何を措いても擁護しなければならぬものと確信して居る。随つて共産党の存立がわが国家に取りて大なる禍であり、国際共産党の活躍がややもすればわが国にも及ばんとすることを憂ひ、此の如き企ての完全に絶滅せんことを希ふことに於いて、政府当局者と全然所感を同じうするものである。

しかしながら治安維持法の如き法律を設けて、刑罰を以て此の如き思想それ自身を禁歇せんとするに至つては、憲法の精神に戻ることの最も甚しいもので、われわれの到底賛成し得ないところである。

権力を以て反対思想を撲滅せんとするのは、極端な専制主義の思想である。それは現代の諸国に於いては、唯ロシア、イタリアの如き独裁改治の国に於いてのみ行はれて居ることで、或る意味に於いては、その最も敵視して居る共産党自身の政策を模倣するものとも謂ふことが出来る。

共産主義の思想が国家の為に如何に憂ふべきものであるにもせよ、斯かる思想を抱く者の生じたことは、已むを得ない事実であつて、われわれは斯かる思想が如何にして発生したかの原因を究め、出来得べきだけこの原因を除くことに努むるの外は無い。

暴力を以て現在の秩序を破壊せんとする者に対しては、権力を以て之を圧することも当然として認めねばならぬけれども、暴力を以てするのでなく、単なる信念として、現在の秩序に反対する思想を有する者が有つたとしても、それは思想の自由として忍容せられねばならぬもので、そこに立憲政治の立憲政治たる所以が有る。

且つ権力を以て思想を圧迫せんとしても、それは一時的に成効を得るだけで、永久にはその目的を達し得べきものではない。それは徒に忌むべきスパイ政治となり、国民の思想生活を陰惨ならしむるのみならず、却つて益々反抗心を強からしむるに止まるであらう。


第二に、治安維持法の著しい特色と為すべきものは、『国体の変革』と『私有財産制度の否認』といふ全く性質の異つた二つの事柄を、同じ条文の中に全く同一に規定して居ることである。立案者はこの二つが全く性質の異つたものであることを意識しなかつたのであらうか。それともこれを意識しながら、故らにその差異を無視して、同一にこれを規定したのであらうか。もし前者ならば、それは立法上の重大なる過誤である、もし後者ならば許すべからざる罪悪である。

『国体』は日本の国家に特有な事柄で、開闢以来何千年にわたりて国家組織の根底をなし、日本の国家と共に、将来永遠に動かすべらざるところである。これを変革せんとする企てが容認すべからざることは当然で、法律と刑罰とをもつてこれを禁制することに固より異論はない。けれどもそれには既に刑法七七条以下の規定があり、出版法新聞紙法があり、又治安警察法には秘密結社の禁止がある。その上更に治安維持法をもつてこれを禁止することは、全くその必要を見ない。治安維持法制定の目的は、主としてはこれにあるのではなく、『私有財産制度の否認』を禁制することにあらねばならぬ。

しかし私有財産制度は、決して日本の国家に特有な事柄でもなければ、国家組織の根底をなす永久的の制度でもない。それは社会経済の発達のある階段において発生したもので、日本においてそれが完成したのは僅に明治時代以後のことである。それは又社会経済の発達と共に将来必ず変遷すべきもので、現在において既にその変遷の多くの徴候を見ることが出来る。それは永遠不動なるわが国体とは全く類を異にするもので、時と共に遷り、社会と共に推移することを必然の運命とする。随つて又これを是非し批評することは、当然に国民の自由に属するものでなければならぬ。これを支持することも経済政策上の一の主義であり、これを否認することも亦一の主義に外ならぬ。

社会文化の健全なる発達は、種々の異つた主義、思想が、相並立して互に相争ひ相研磨することによつてのみ庶幾し得べきもので、これ等の種々の思想の学びのあることは、決して患ふべきではなく、却て文化の発達のために望ましいところである。唯その争ひは常に公明正大でなければならぬ。権力を有する者が権力をもつて反対の主義思想を圧迫することの非なるは、尚権力を有しない者が暴力をもつて自己の主義を実現せんとするの非なると同様である。二者共に断じて排斥しなければならぬ。しかも治安維持法は実にこの非を肯てするものである。


以上述ぶる如く私は治安維持法を悪法なりと信ずる者であるが、しかしそれがために、私をもつて学生の社会主義運動を是認する者とせらるるならば、それはこの上もない誤解である。

反対に私はもつとも強く学生の社会主義殊に共産主義の実現のためにする実際運動に反対し、これをもつて学生の本分に反するものと信ずるものである。

それは敢て多くの人のいふやうに、学生は唯研究のみをなすべきもので、少しも実行運動に携はつてはならぬといふ意味ではない。

いふまでもなく学生の主たる本分は教室の人、研究室の人、書斎の人たることにあらねばならぬ。それは何人も異論なかるべきところで、私としてももちろん研究が学生の本分であることを認める。しかし学生といへども一方には社会人で、社会の一員として社会に生活している以上、社会の改善を志し得べきことは当然で、その改善のためにする実際運動に関係することを禁止すべき理由は無い。

学生の社会主義運動殊に共産主義運動が否定せらるべき所以は、それが単に実際運動であるがためではなく、社会革命を目的とする運動であるがためである。

学生の実際運動の許容せられ得るのは、唯その目的とするところが、現代の一般の社会信念において、是認せられて居る範囲に限定せられねばならぬ。

この限度においてすらも、学生の主たる本分は研究人たることに在るのであるから、もし実際運動のためにその主たる本分を妨ぐるやうになつては、それは学生として許さるべきところではない。唯社会が一般に是認して居る事柄であれば、それを実現するための運動は、社会に対して危険を帯るものではないから、学生の本分たる研究に妨げの無い限り、敢てこれを禁止すべき理由は無いといふに止まるのである。

これに反して社会主義又は共産主義は未だ一般には是認せられざる思想である。それが幾ばくの程度にまで真理を包含するかは、尚将来の研究を待つべき問題である。それは社会組織殊に社会の経済組織を根底より改善せんとする思想であつて、仮令それが究局には社会の福利を持ち来すものと仮定しても、これを急速に実現せんとすれば、少くとも一時は社会の秩序を破壊し、社会を混乱の状態に陥らしむるもので、社会のために大なる危険性を有するものであることは疑を容れぬ。

況んやそれが究局においても、果して真に社会の福利に適するや否やも、未決の問題で、容易に断定し得べきところでないにおいてをや。

社会科学における真理は、社会現象の極めて複雑であり、かつ時と共に変遷し、又歴史の異なるに随つて異なるために、これを断定することは極めて困難であつて、偉大なる哲人をもつてしても、尚難しとするところである。

学生は現在尚学習の半途にある者である。現に学習中にあるにも拘らず、早く既に社会科学の真理を握持し得たりとなし、社会の秩序をかく乱することをも顧みずして、急速にこれを実現せんとする運動に従事せんとするのは、その早計いふを待たざるところで、それは学生として断じて許すべき事柄ではない。

(大正十五年十月発行「帝国大学新聞」所載)