鯨の腹の中で, ジョージ・オーウェル

第二章


ある作家が流行っていると言う時、いつの時代もそれが実際に意味するのはその作家が三十歳以下の人々から称賛を受けているということである。私が話している時代の始め頃、つまり戦争直後の数年の間、思慮ある若者を最も強く捕らえていた作家はまず間違いなくハウスマンハウスマン:アルフレッド・エドワード・ハウスマン。19世紀イギリスの詩人、批評家、古典学者。だった。一九一〇年から一九二五年の間に青春時代を過ごした人々に対してハウスマンが持っていた影響力は今では容易には理解できないほど極めて大きなものだった。一九二〇年、私が十七歳の時、確か私はシロップシャーの若者シロップシャーの若者:ハウスマンによる詩集をまるまる全て暗記していた。私は想像するのだ。シロップシャーの若者は現代の同じ年頃の、多少なりとも同じような気質の少年にどれほどの感銘を与えるだろうか? そうした少年がそれを耳にし、あるいは垣間見たことさえあるであろうことは疑いない。なんと安っぽい技巧と思うことだろう……そしておそらくはそれで終わりだ。しかし、それらの詩は私と私の同世代の人々がある種のエクスタシーを感じながら自らのために繰り返し朗読したもので、それはちょうど先の世代がメレディスメレディス:ジョージ・メレディス。19世紀イギリスの小説家。の「谷間の恋」やスウィンバーンスウィンバーン:アルジャーノン・チャールズ・スウィンバーン。19世紀イギリスの詩人。の「プロゼルピーヌの園」といったものを朗読したのと同じことなのだ。

悲嘆に暮れて我が心は重く
我が黄金の友人たちのため
多くの薔薇色の唇の乙女たち
そして多くの足取り軽い若者たちのため

飛び越えるには広すぎる小川がため
足取り軽い若者たちは横たわり
薔薇色の唇の少女たちは眠り続ける
薔薇の消えた野の原で

まったく耳にうるさく響く。しかし一九二〇年には耳にうるさく響くようには思われなかったのだ。なぜこうした幻想の泡は決まって破裂してしまうのだろうか? その疑問に答えるには特定の作家を特定の時期に人気にさせる外的な条件について考慮する必要がある。ハウスマンの詩は最初に出版された時にはたいして関心を引きはしなかった。おおよそ一九〇〇年ごろに生まれたひとつの世代をそれほど深く魅了した、それらの詩に存在したものとは何なのだろうか?

まず第一に、ハウスマンは「田舎」詩人だった。彼の詩は忘れ去られた村々の魅力、地名に対する郷愁に満ちている。クラントンやクランベリー、ナイトン、ラドロー、「ウェンロックの断崖で」、「ブレドンでの夏の日々に」、わらぶき屋根と鍛冶職人の槌音、牧場に咲く野生のキズイセン、あの「青い、記憶の中の丘」。戦争詩を別にすれば一九一〇年から一九二五年の期間に書かれた英語詩のほとんどは「田舎」についてのものである。その理由に疑問の余地はない。金利生活を送る知的職業階級が、かつては皆にとって欠かざるものだった土との現実的な関わり合いを止めていったことだ。しかしどちらにせよ、当時は現在にも増して田舎に属して都市を見下すというある種のスノビズムが蔓延していた。当時のイングランドが今よりも農業が盛んな国だったわけではないが、軽工業が広まり始める前であればそうした考えを持つのも容易なことだった。ほとんどの中流階級の少年たちは農場の景色の中で育っていたので、農場生活の絵画のように美しい側面……耕作、収穫、脱穀といったものが彼らを魅了したのもいたって自然なことだった。自分がやらなければならなくなりでもしなければ少年というものはカブを掘り起こしたり、午前四時に牛のざらざらとした乳首から乳をしぼったりといったうんざりする単調な重労働に気が付きにくいものだ。直前、直後、さらに言えば戦争の間は「自然詩人」の黄金時代、リチャード・ジェフリーズとW・H・ハドソンの絶頂期だった。一九一三年に人気を博した、ルパート・ブルックの「グランチェスター」は盛大にほとばしる「田舎」への感傷以外の何物でもなく、いわば地名でいっぱいの胃袋から吐き出された嘔吐物の山だった。詩として見れば「グランチェスター」は無価値というよりもっとひどい何かだろうが、当時の中流階級の思慮ある若者が何を感じていたのかについての実例として見れば価値ある資料である。

しかしながらブルックや他の者たちの道楽趣味的なツルバラにハウスマンが熱狂することはなかった。「田舎」的モチーフは常に存在したが、それは主に背景としてだった。その詩のほとんどは表面的には人間的題材、ある種の理想化された田舎の人間を扱っているが実際のところストレフォンやコリドンストレフォンやコリドン:伝統的な田園詩によく登場する男性名は現代的な新しい姿になっていた。そしてそれ自体が深い魅力となっているのだ。よく知られているように過度に文明化された人々は、田舎の人々は自分たちよりも原始的で情熱的であると想像し、彼らについて書かれたものを読んで楽しむ(キーワードは「土に親しむ」だ)。シェイラ・キー・スミスの「黒い大地」の小説などがこれに当たる。そして当時、中流階級の少年たちはその「田舎」への先入観から、自分たちと都市労働者の関係と同様、農業労働者との関係も決して終わることのないものだと考えていた。ほとんどの少年たちは頭の中に理想化された農民、ジプシー、密猟者、猟場の番人のイメージを持っていて、決まってうさぎ罠や闘鶏、馬やビールや女との生活を送る野性的で自由で無責任な若者を思い描いていた。メイスフィールドメイスフィールド:ジョン・メイスフィールド。イギリスの詩人。の「永遠の慈悲」はもうひとつの当時の重要作品で戦争のころには少年たちにとてつもない人気を博していたが、この作品は非常におおざっぱな形でこのイメージを示してくれる。しかしハウスマンのモーリスとテレンスモーリスとテレンス:「シロップシャーの若者」の登場人物は真剣なものとして捉えることができる一方でメイスフィールドのソウル・ケインはそうではない。こうした側面について言えば、ハウスマンはメイスフィールドに少々のテオクリトスを加えたものであると言える。さらに言えば彼のテーマは全て青春期における殺人、自殺、不幸な恋、若死についてのものだ。それらでは人生の「根本的事実」に直面した印象を与える単純で明瞭な災いが扱われている。

半ばまで草の刈られた丘の上で太陽が燃え上がる
今では血も乾き切り
モーリスはいまだ干し草の中に横たわる
我がナイフは彼のかたわら

あるいは

彼らは今や俺たちをシュルーズベリー監獄へ引き渡し
警笛の音がわびしく響く
列車の上げるうなり声は夜通し止まない
朝には死ぬ者たちよ

どれも多かれ少なかれ同じ調子だ。あらゆる物事が水泡に帰す。「ネッドは墓場に横たわり、トムは監獄に横たわる」。また強烈な自己憐憫……「誰も自分を愛さない」という感覚にも目を留めて欲しい。

ダイヤモンドの粒が飾る
草原の低い土盛り
朝には涙が流されたが
その嘆きは、しかし汝のためではない

お気の毒に、大将! こうした詩は明らかに若者のために書かれたものだろう。そしてお決まりの性にまつわる悲観主義(必ず少女が死んだり他の誰かと結婚したりする)はパブリックスクールへと追い集められ、女性を決して手に入れることができない何かのように考えがちな少年たちにとってまるで叡智のように思われたのだ。ハウスマンが少女たちに対して同じように訴えかけたことがあるかどうかは疑問だ。彼の詩では女性からの視点は考慮されていない。女性は誘うように少し前を歩き、ときに人を転ばせるただのニンフ、セイレーン、気まぐれな半人の生き物なのだ。

とは言え、もし彼にもうひとつの文体、冒涜的で無律法主義的で「シニカル」な文体がなければハウスマンが一九二〇年当時の若者をあれほど深く惹きつけることもなかっただろう。世代間で絶えず起きる戦いは世界大戦末期においては並外れて熾烈なものだった。それは一部には戦争それ自体のためであり、また一部にはロシア革命の間接的影響だったが、いずれにせよ知識人たちの悪戦苦闘はその時代には避けて通ることのできないものだった。おそらくイングランドでの生活が戦争によってさえもほとんど乱されることのないほど安楽で安全なものであったためだろうが、八十年代かそれより以前に思想を形作られた多くの人々はそれをまったく変えないまま一九二〇年代まで生きてきていた。一方で、より若い世代に関して言えば彼らは公的な信念が砂の城のように崩れ去ってしまうのではないかと憂いていたのである。例えば宗教的信仰の低下は眼を見張るほどだった。数年の間、老若間の対立は現実の憎悪と呼べる水準にまで達していた。年長者がいまだ一九一四年のスローガンを叫んでいるのに気がついて戦争世代の左派は虐殺行為からこっそり抜け出し、それより少し若い世代の少年たちは汚れた心の独身教師の下で苦しんでいた。こうした状況のために、言外の性的反抗と神への個人的怒りを手にしていたハウスマンは魅力を持ったのだ。彼が愛国的だったことは間違いないが、それは無害な昔ながらのやり方、つまり鉄のヘルメットと「皇帝カイザーを吊せ」というよりは赤いコートと「女王陛下万歳ゴッド・セーブ・ザ・クイーン」というような調子でのことだった。また彼は十分に満足を与える程度には反キリスト的だった……激烈で反抗的な異教徒的態度とでも言うべきもの、人生は短く神々は人間に敵対しているという信念を抱いていて、それは若者たちに広まっていた傾向とまさに合致していた。そしてとりわけ、ほとんど完全に一音節の語で構成された魅力的で繊細な節回しがあった。

まるでたんなるプロパガンダ流布者、引用しやすい言葉の切れ端と格言を唱え続ける人間であるかのように私がハウスマンを論じているように見えるかもしれない。彼がそれ以上の存在であることは明らかだ。何年か前に彼が過大評価されていたからと言って現在、彼を過小評価する必要はない。とはいえ現在そう言えば面倒な事態になるだろうが、彼の詩(例えば「我が心の中へ、うずくそよ風」や「我が一団は前進しているのか?」)の多くは人気を失って長くは残りそうもない。しかし根本的には作家が好まれるか嫌われるかはその作家の持つ性質、「目標」、「メッセージ」によるのが常である。自らの最も深いところに根ざす信念に深刻な打撃を与える作品に対してはどのような長所だろうと見出すことが極めて難しいことがそれを証明している。そして完全に中立な作品など決して存在しないのだ。いくつかの性質はそれが韻文であろうと散文であろうと常にそれと識別できる。たとえそれが形式の決定や修辞表現の選択に過ぎなくてもである。とは言えハウスマンのように広く人気を獲得する詩人は概してまったくの格言家的作家なのだ。

戦争のあと、ハウスマンと自然詩人の後に続いて、まったく異なる性質の作家の一団が現れた……ジョイス、エリオット、パウンド、ローレンス、ウィンダム・ルイス、オルダス・ハクスリー、リットン・ストレイチーである。二十年代中盤から後半にかけては「運動ムーブメント」があった。それはここ数年のオーデンオーデン:ウィスタン・ヒュー・オーデン。イギリス出身のアメリカの詩人。、スペンダースペンダー:スティーブン・スペンダー。イギリスの詩人、批評家。の一団による「運動」と同じくらいはっきりそれとわかるものだった。この時期の才能ある作家全員をひとつのパターンに当てはめられるわけでないことは確かだ。例えばE・M・フォースターはその最高傑作を一九二三年ごろに書き上げているが本質的には戦前的だし、イェイツはそのどの段階においても二十年代に属しているようには見えない。いまだ存命の他の者、ムーア、コンラッド、ベネット、ウェルズ、ノーマン・ダグラスは戦争が起きる前の時代に自らを留め置いている。一方で、狭義の文学的意味においてはそこに「属している」とは言い難いものの、この一団に加えるべき作家のひとりがサマセット・モームである。もちろん年代が厳密に合っているわけではない。こうした作家のほとんどは戦争前にはすでに作品を出版していたが、現在作品を書いている比較的若い人々が恐慌後の世代であるのと同じ意味において彼らを戦争後の世代として分類できるのだ。もちろんのことだが同時に、こうした人々の「運動」があったことを理解していなくとも当時の文芸誌のほとんどは読み通すことができるだろう。ほとんどの時代にも増して当時、文学的ジャーナリズムの有力者は先の時代はまだ終わりを迎えてはいないと装うことに熱心だった。スクワィアスクワィア:ジョン・コリングズ・スクワィア。イギリスの作家、編集者。ロンドン・マーキュリー誌を支配し、ギブスとウォルポールは貸出図書館の神々だった。存在するのは快活さと男らしさへの崇拝、ビールとクリケット、ヒース製パイプと単婚であり、「教養人ハイブロウ」を非難する記事を書けばいつでも数ギニーを稼ぐことができた。しかしそれでもやはり若者を捕らえたのはその嫌われ者の教養人たちだったのだ。ヨーロッパからの風が吹き荒れ、一九三〇年になるよりずっと前にそれはビールとクリケットの一派を吹き飛ばして丸裸にし、彼らに残されたものは爵位だけだった。

しかし、先に私が挙げた作家の一団について最初に気がつくことは彼らがひとつの集団には見えないということだ。さらに言えば彼らのうちの何人かは他の何人かと一緒にされることに強く反対するだろう。ローレンスとエリオットは実のところ反目していたし、ハックスリーはローレンスを崇拝していたがジョイスには嫌われていた。他の者のほとんどはハックスリー、ストレイチー、モームを下に見ていたし、ルイスは全員に対して次々に攻撃を仕掛けていた。彼の作家としての評判の大部分がこれらの攻撃に基づくものであったことは間違いない。しかしそれでもなお、いくらかの気質の類似が存在し、十年ほど前にははっきりとしなかったそれも今では十分に明瞭なものとなっている。それは何かと言えば将来の展望における悲観主義である。しかしここで悲観主義が何を意味しているのかを明らかにしておく必要があるだろう。

ジョージア朝時代の詩の基調が「自然の美しさ」であったとすれば、戦後の作家の基調は「悲観的な人生観」になるだろう。例えばハウスマンの詩の背後にある精神は悲惨ではなくたんなる不満であり、それは快楽主義的な失望である。君主たちについては例外としなければならないだろうがハーディについても同じことが言える。しかしジョイス、エリオットの一団が現れたのは時間的にもっと後のことで、清教徒主義は彼らの主たる敵対者ではなかった。彼らははじめから、先人がそのために戦っていた物事のほとんどを「見通す」ことができたのだ。彼らは全員「進歩」という概念に対して敵対的な性格をしている。進歩が起きていないというだけでなく、それは起きるべきでないと感じているのだ。この全体的な類似性を前提として、もちろんのことだが、私が名前を挙げた作家たちの間には才能の程度の違いと同じく手法の違いが存在する。エリオットの悲観主義の一部はキリスト教徒的悲観主義であり、それは人間の悲惨へのいくらかの冷淡を意味していた。また一部は西洋文明の退廃への嘆き(「私たちは空虚な人間であり、私たちは詰め物をされた人間である」などなど)、いわば神々の黄昏という感情であり、それはついには現代生活をそれそのものよりも悪く描くという困難な技を彼に成し遂げさせた。例えば闘士スウィーニーでのそれだ。ストレイチーについて言えば、それは暴露趣味とないまぜになったたんなる礼儀正しい十八世紀的懐疑論である。モームについて言えば、それは一種のストア派的諦観、スエズより東のどこかの立派な主君サヒーブの不屈の精神、まるでアントニヌス帝のように自らの責務を信じず、しかし続けていくことである。ローレンスは一見すると悲観主義的な作家には見えない。なぜならディケンズがそうであったように彼は「改心」の男であり、もし小さな違いに目を向ければそれだけでこの時・この場所の生活はまったく問題のないものになるだろうと常に主張していたからだ。しかし彼が要求していることは私たちの機械化された文明からの脱却であり、それは到底起こりそうもないことである。それゆえに彼の現代に対する憤激は今一度、過去の理想化へと向きを変えるが今度のそれは問題の起き得ない神話的過去、青銅器時代となるのである。彼が私たちでなくエトルリア人(彼の中のエトルリア人)を好むとき、彼に同意せずにいるのは難しいが、結局のところ、それは一種の敗北主義である。なぜならそれは世界が向かう方向ではないからだ。彼が絶えず指し示すそうした種類の生活、簡潔な神秘……性、大地、炎、水、血……を中心に回る生活は成就される見込みのない試みに過ぎない。つまり彼が生み出せるのはある方向に物事が進んで欲しいという願望だけなのだが、明らかにその方向に物事は進まないのだ。「寛容の波か、さもなくば死の波か」と彼は言う。しかしこちら側の水平線に寛容の波が見えないことは明らかである。それゆえに彼はメキシコへと逃れ、そして四十五歳で死んだ。死の波が動き出す数年前のことだ。またしても私がこうした人々について、まるで芸術家でなく「メッセージ」を巧みに伝えるプロパガンダ宣伝者かのごとく語っているように見えることだろう。そして今度もまた彼ら全員がそれ以上の存在であることは明らかである。例えばユリシーズをたんに現代生活への激しい嫌悪感、パウンドの言葉を借りれば「汚れたデイリー・メール紙の時代」を描き出しただけのものに過ぎないと見るのは馬鹿げたことだ。ジョイスは実のところほとんどの作家以上に「純粋な芸術家」である。しかしユリシーズはたんに語の並べ方をかじっただけの者には書き得ないものだ。それは人生に対する特殊な洞察、自身の信仰を失ったカトリック教徒の洞察の産物なのだ。ジョイスが言っているのは「神無き人生がここにある。ただそれに目を向けよ!」ということであり、彼の技術的な革新は確かに重要ではあるがそれはまず第一にこの目的のために供されているのである。

しかしこれらの作家全員を見て気がつくのは彼らの目標が実に漠然としていることである。現在における喫緊の問題、とりわけ狭い意味での政治についてはまったく関心が払われていない。私たちの目はローマ、ビザンチウム、モンパルナス、メキシコ、エトルリア人、潜在意識、太陽神経叢……あらゆる場所へと向けられているが、実際に物事が起きている場所だけはその例外なのだ。二十年代を振り返った時、ヨーロッパで起きたあらゆる重大な出来事がイギリスの知識人たちの関心をすり抜けていったことほど奇妙なことはない。例えばロシア革命はレーニンの死とウクライナ飢饉の間、イギリス人の意識から消えたも同然だった……おおよそ十年ほどの間のことだ。そうした年月を通してロシアと言えばトルストイ、ドストエフスキー、そしてタクシーを運転する亡命貴族なのだった。イタリアと言えば画廊、史跡、教会、美術館であって黒シャツ隊ではないのだ。ドイツと言えば映画、裸体主義、精神分析学であってヒトラーではなく、一九三一年になるまで誰も彼のことを耳したことはなかった。「教養ある」界隈では、芸術のための芸術という目標が実質的に無意味への崇拝にまで拡張されていた。文学はただ単語の操作によってのみ構成されるものだった。作品をその主題から評価することは許しがたい罪であり、その主題を知るということさえもが趣を損なうとされていた。一九二八年頃だっただろうか、世界大戦以降にパンチ誌が生み出した実に愉快な三つのジョークのうちのひとつになるであろうものがあった。ひとりの鼻持ちならない若者がそのおばに自分は「執筆」をするつもりだと教える様子が描かれている。「それで何について書くつもりなんだい?」とおばが尋ねる。「おばさん」。若者は激しい口調で言うのだ。「何かについて書いたりはしないんだ。ただ書くのさ」。二十年代の最高の作家たちはこうした心情には同意しなかった。彼らの「目標」はほとんどの場合は十分に明らかなものだったが、たいていその「目標」は道徳・宗教・文化という路線に沿っていた。また政治的な用語に翻訳可能な場合にはそれは決して「左派的」と言えるようなものではなかった。さまざまな有り様ではあったが、この一団の作家全員の持つ傾向は保守的なものだったのだ。例えばルイスは「ボルシェヴィズム」の痕跡である魔女的な匂いに逆上することに数年を費やした。思いもよらぬ場所に彼はそれを見て取ることができたのだった。ヒトラーの芸術家に対する扱いの影響を受けてのことだろうが最近では彼はいくらか考えを変えている。しかし彼が左に向かって大きく舵を切る気がないであろうことはまず間違いない。パウンドはファシズム、少なくともイタリアにおけるそれを完全に支持しているように見える。エリオットは超然とした態度を保っているが、もし拳銃を突きつけられてファシズムともっと民主的な形態の社会主義のどちらかを選ぶよう迫られればおそらくファシズムを選ぶことだろう。ハックスリーはありがちな人生への絶望とともに歩みを始め、ローレンスの「黒い腹」の影響の下で人生崇拝と呼ばれる何かに取り組んだ後、最終的に平和主義へと到達した……これは擁護可能な立ち位置であり、現時点では立派なものであるが、おそらく長い目で見れば社会主義の拒絶をも含むことになるだろう。またそれが正統派カトリック教徒が受け入れるようなよくある種類のものではないとは言え、この一団の作家のほとんどがカトリック教会に対していくらかの寛容を示していることは注目に値する。

悲観主義と反動的考えの間の心理的関係が十分はっきりとしたものであることに疑う余地はない。はっきりしないのはなぜ二十年代の優れた作家たちの大部分が悲観主義的なのかということだ。なぜ決まって退廃的感覚、頭蓋骨とサボテン、失われた信仰とあり得ない文明への切望なのか? それは結局、こうした人々が並外れて安楽な時代に著作をしているからではないのか? 「宇宙的絶望」が花開くのはまさにこうした時代なのだ。付け加えておけば空腹な人々は決して全世界に対して絶望することはないし、全世界について考えることさえない。一九一〇年から一九三〇年までの全期間を通してそれは豊かな時代だった。戦時でさえ、もし連合国のひとつに住む非戦闘員であったなら肉体的には耐え得るものだった。二十年代について言えばそれは不労所得生活の知識人たちの黄金時代であり、世界がいまだだかつて目にしたことのないほど無責任な時代だった。世界大戦は終わり、新たな全体主義国家は姿を現していなかった。あらゆる明文化された道徳的、宗教的タブーは消え去り、現金がうなっていた。大流行していたのは「幻滅」だ。年収五百ポンドが確実な者は誰しもが趣味人へと変わり、「生の倦怠TAEDIUM VITAE」の習得を始めた。色男と色女の時代、軽薄な絶望、裏庭のハムレット、夜明けまでの安い往復切符の時代だったのだ。たわいのない物語といった、この時期のあまり有名でないいくつかの特徴的な小説では人生への絶望が自己憐憫の蒸気の上がる蒸し風呂の域にまで達していた。当時の最高の作家たちでさえ、オリンピアの神々にも似たあまりに超然とした態度、差し迫った実際的な問題との関係を絶とうというそのあまりにあからさまな姿勢については断罪されることだろう。彼らは人生を極めて包括的に見ていて、それはその前後の時期の者たちよりもずっと徹底したものだった。しかし彼らは望遠鏡の間違った側からそれを見ていたのだ。しかしそのことが彼らの作品の、作品としての価値を損なっているわけではない。芸術作品に対する第一の試練は生き残ることである。一九一〇年から一九三〇年までの時期に書かれたものの大多数が生き残り、またこれからも生き残っていくように見えることは事実なのである。ユリシーズ人間の絆、ローレンスの初期の作品の大部分、とりわけ彼の短編、そして一九三〇年ごろまでに書かれたエリオットの詩の実質全てについて考えた時に頭に上るのは、現在書かれているものでこれほどまで長い時間に耐えるものがあるだろうかということだ。

しかしまさに唐突に一九三〇年から一九三五年において何かが起きた。文学的風土が変化したのだ。新しい作家の一団、オーデンやスペンダーといった者たちが姿を現した。こうした作家たちは技術的には先人からなにがしかを受け継いでいたが、その「傾向」はまったく異なるものだった。私たちは突然、神々の黄昏から抜け出し、いわば素足の膝小僧と全員での合唱というボーイスカウトのような空気へと突入していったのだ。典型的な文筆業の人間は教会に傾倒する教養ある国外追放者であることを止め、共産主義に傾倒する血気盛んな男子学生へと姿を変えた。二十年代の作家たちの基調を「悲観的な人生観」とすれば、新たな作家たちの基調は「真剣な目的」となるだろう。

この二つの学派の間の違いはルイス・マクニース氏の著作、現代詩でかなり詳しく議論されている。もちろん、この著作は全体的には若い方の集団の視点から書かれていて、当然のように自分たちの規範の方が優れているとされている。マクニースによればそれは以下のようになる。

新たな署名[注記:一九三二年出版(原著者注)]の詩人たちはイェイツともエリオットとも異なり、感情的で熱烈な党支持者である。イェイツは欲望と憎悪に背を向けようとした。エリオットは深く腰を下ろし、倦怠と皮肉に満ちた自己憐憫と共に他の人々の感情を観察した……一方でオーデン、スペンダー、デイ・ルイスの詩全体は自分たちが自身の欲望と憎悪を持っていること、さらには何物かは欲望され、他の何物かは憎悪されるべきであると考えていることを言外に示している。

さらに続けてこう語られる。

新たな署名の詩人たちは知識や発言に関してギリシャ的嗜好へと揺れ戻っている。つまりまず初めに必要なのは語るべき何かを手にすることであり、その後でそれを可能な限りの言葉を尽くして語るべきなのだ。

言い換えれば「目的」が戻ってきたのだ。比較的若い作家たちは「政治へと足を踏み入れた」のだった。すでに私が指摘したように実際のところはエリオットとその仲間たちはマクニース氏が示して見せているほどには非党派的というわけではなかった。しかしそれでも二十年代において文学は現在よりも技術に重きを置き、主題を軽視していたことはおおまかに言えば真実である。

この集団の主導的人物はオーデン、スペンダー、デイ・ルイス、マクニースであり、多少なりとも同じ傾向を持った作家のリストは長いものとなる。イシャーウッド、ジョン・レイマン、アーサー・カルダー・マーシャル、エドワード・アップワード、アリー・ブラウン、フィリップ・ヘンダーソン、まだまだ続けられる。すでに述べたように私は彼らをその傾向に従って単純にひとまとめにして扱っている。才能という意味では非常に大きな多様性があることは明らかである。しかしこれらの作家をジョイス、エリオット世代と比較すれば、どれだけ簡単に彼らが集団を成すかについてただちに了解できるだろう。技術面については一緒にできるほど似通っていて、政治面についてはほとんど判別不可能である。そして互いの作品に対する批評は決まって(控えめに言っても)好意的なのだ。二十年代の卓越した作家たちは極めて多様な出自を持っていた。彼らのうちの何人かはよくあるイギリスの工場付属学校に通い(ついでに言えばローレンスを別にすれば、彼らのうちの最も優れた者たちは非イングランド人だった)、またほとんどの者はどこかの時点で貧困や養育放棄、さらにはまごうことなき迫害と戦っている。一方で比較的若い作家たちはほとんど全員がパブリックスクール、大学、ブルームズベリー出版社というパターンに簡単に当てはめることができる。プロレタリアとしての出自を持つ何人かはまず初めに奨学金によって、次にロンドン「カルチャー」に漂白されることによって人生の早い時期に社会階級の変化とでも言うべきものを経ている。この一団の作家の何人かはたんにパブリックスクールの学生であっただけでなく、後にはその教師になっていることは重要な意味を持つだろう。何年か前、私はオーデンを「根性なしのキップリングのようなもの」と評したことがある。批評としては見ればこれはまったく無価値なもので、たんなる悪意ある発言に過ぎないことは確かだ。しかしオーデンの作品、とりわけ初期の作品には高揚した雰囲気……キップリングの「もし」やニューボルトの「集中せよ、集中せよ、勝負のときだ!」と極めてよく似た何か……が絶えずつきまとっているように思えるのだ。例えば「今や君たちは出発せんとしている、自分次第だ、少年たち」といったような詩を見てみよう。まさにボーイスカウトの隊長、自慰の危険について語る手短で率直な説教の調子そのものではないか。意図的なパロディーの要素があることは間違いないが、同時にそれは意図したよりもずっと強い類似を見せている。そしてもちろんのことだが、これらの作家のほとんどに共通する極めて道徳家ぶった調子は解放のしるしである。「純粋芸術」を船の外に投げ捨てることで彼らは自身を嘲笑される恐怖から自由にし、自身の視野を大きく広げたのだ。例えばマルクス主義の予言的側面は詩にとって新しい題材になり、大きな可能性を持つようになった。

我らは何者でもなく
我らは暗闇の中に崩れ落ち
打ちのめされるだろう
しかし思う、この暗闇の中
我ら秘めたるイデアの車軸を抱きしめる
その生気に満ちた陽光の車輪は未来において最高速度で回転する

(スペンダー、審判官の裁判

しかしそれと同時に、マルクス化されることによって文学は民衆から遠ざかっていった。時間的な違いを考慮してもオーデンとスペンダーは、ローレンスはもちろん、ジョイスとエリオットと比べても人気作家とはほど遠い状況だった。先に述べたように、こうした傾向と縁のない現代作家も大勢いるが、それがどのようなものかについてはあまり疑問の余地はない。三十年代中頃から後半にかけてオーデン、スペンダーとその仲間たちはひとつの「運動」を形成していて、それはちょうど二十年代のジョイス、エリオットとその仲間たちと同じだった。そしてその運動は共産主義と呼ばれる極めて不明瞭なものの方向を向いていた。一九三四年か一九三五年には多少なりとも「左派的」でない者は文学界においては変わり者と見られていたし、さらに一、二年経つと特定のテーマについての絶対的に欠かさざるDE RIGUEURひと揃いの意見が形作られるほどの左派的正統性が育まれた。こうした思想は勢力の拡大を始め(エドワード・アップワードなどを参照)作家は活動的「左派」であるのが当然で、さもなくば評価に値しないという状況へと変わっていった。一九三五年から一九三九年の間に共産党は四十代以下の作家にとってほとんど抵抗できない魅力を持つに至った。誰それが「加入した」と聞くのは、その数年前にローマ・カトリックが流行った時に誰それが「聖体拝領を受けた」と聞くのと同じようにありきたりなことになっていた。実際のところ、約三年ほどの間、イギリス文学の主流は多かれ少なかれ共産主義者の直接的な支配下にあったのだ。どうしてそのようなことが可能だったのだろうか? そしてまた「共産主義」という言葉は何を意味するのだろうか? まず二つ目の質問から答えた方がいいだろう。

西ヨーロッパの共産主義運動は資本主義に対する暴力的打倒の運動として始まり、数年のうちにロシアの外交政策の道具へと堕していった。世界大戦の後に続いたこの革命の興奮がおさまっていった時期に関して言えばおそらくこれは避けがたいことだった。私の知る限りでは英語でこの問題の歴史を包括的に書いた唯一の作品がフランツ・ボルケナウの世界共産党史である。その結論もさることながらボルケナウの指摘する事実が明らかにするのは、もし産業化された国々に何かしらの革命的感情が存在していたなら共産主義は決して現在のような路線に沿って発展することはなかっただろうということだ。例えばイングランドにおいて、そのような感情が過去数年間において存在しなかったことは明らかである。あらゆる過激主義的党派の、哀れを誘う党員の顔ぶれがこれを明確に示している。つまり、当然の帰結であるが、イギリスの共産主義運動はロシアに精神的に従属している人々にコントロールされ、ロシアの利益に従ってイギリスの外交政策を操るという他には何ら現実的目標を持たなかったのである。もちろんそのような目標をおおやけに認めるわけにはいかず、そのために共産党は極めて奇妙な特性を持つに至った。声の大きな共産主義者は実質的には国際主義的社会主義者のポーズをとったロシアの広報官となったのだ。こうしたポーズは平時であれば容易に維持できるが危機の瞬間にはそれが難しいものへと変わる。なぜなら他の大国と同様、もはやソビエト連邦は外交政策において誠実な態度を取らなくなるからだ。同盟、前線の変更など、武力外交競争の一部としてしか意味をなさないこれらを国際主義的社会主義の言葉で説明し、正当化しなければならない。スターリンが仲間を取り替えるたびに「マルクス主義」を新しい形に打ち直さなければならないのだ。これは唐突で乱暴な「路線」変更、粛清、糾弾、党文学の体系的破壊といったものを必然的にともなう。実のところ全ての共産主義者はいつであろうと自身の最も基礎的な信念を変更する責任を負っているのだ。さもなくば党を去る他ない。月曜日には疑問の余地の無かった教義も火曜日には忌むべき異端に変わり得るというわけだ。過去十年の間にこれは少なくとも三回起こっている。それが起きた後にはどの西側の国々でも共産党は決まって不安定になり、たいていひどく小さくなっている。実のところ長期にわたって党員を続けているのはロシアの官僚と自身を同一視している内輪の知識人たち、そしてそれよりもわずかに多い、必ずしもロシアの政治を理解しないままソビエト・ロシアに忠誠心を抱く労働階級の人々なのだ。「路線」変更のたびに多くの者が加わり、また多くの者が去るが、それ以外での党への出入りはわずかしかない。

一九三〇年当時のイギリス共産党はかろうじて合法な、ちっぽけな組織であり、その主な活動は労働党を中傷することだった。しかし一九三五年頃にはヨーロッパの容貌は変わり、それと共に左派の政治も変わった。ヒトラーは権力の座へと上って再軍備を開始し、ロシアの五カ年計画は成功し、ロシアは巨大な軍事国家としての姿を再びあらわにした。外から見た限りでのヒトラーの三つの攻撃目標はイギリス、フランス、ソビエト連邦であり、この三カ国はある種の不安定な和解RAPPROCHEMENTを強いられることになった。これはつまりイギリスやフランスの共産主義者は良き愛国者、帝国主義者となることを余儀なくされたということ……すなわち過去十五年にわたって非難していたまさにそれらを擁護しなければならなくなったということだ。コミンテルンのスローガンは突如として赤からピンクへと色合いを変えた。「世界革命」と「社会ファシズム」は「民主主義の防衛」と「ヒトラーの阻止」へ道を譲った。一九三五年から一九三九年の間は反ファシズムと人民戦線の時代となり、レフトブッククラブの全盛期となり、赤い公爵夫人たち赤い公爵夫人たち:アトール公爵キャサリン・スチュワート・マレー、エレン・ウィルキンソン、エレナー・ラスボーンらを指すと思われる。と「寛大なる」主席司祭たちがスペイン戦争の戦場を視察旅行し、ウィンストン・チャーチルがデイリー・ワーカー紙のお気に入りとなるような時代となった。もちろんその後もまた別の「路線」変更があった。しかし私がここで言いたい重要なことは、比較的若いイギリスの作家が共産主義へと引きつけられたのは「反ファシスト」段階の間においてのことだったということなのだ。

ファシズムと民主主義による激闘がそれ自体として人々を引きつけたことは疑いないが、いずれにせよこれらの路線変更は当時において必然的なものだった。レッセフェール自由放任主義的資本主義が終わりを告げ、ある種の再構築が必要とされていたことは明らかだった。一九三五年当時の世界において政治に対して無関心を貫くことは難しかった。しかしなぜこうした若者たちはロシアの共産主義などという縁もゆかりもないものへと向かっていったのだろう? なぜ作家たちは内心の誠実さを不可能にする社会主義の形態へと惹きつけられなければならなかったのだろう? それに対する説明は実のところ、不況以前、ヒトラー以前からすでにはっきりとしていたものの中にある。中流階級の失業である。

失業はたんに仕事が無いというだけの問題ではない。ほとんどの人々は最悪の時期にあっても何らかの仕事を得ることはできる。厄介なのは一九三〇年頃においてはおそらく科学研究、芸術、左派政治の他には思慮ある人物が信じられる活動が存在しなかったということなのだ。西洋文明がその絶頂へ到達したことが暴き出され、「幻滅」が広大な範囲に広まっていた。今や軍人、牧師、株の仲買人、インドの役人、その他の何であれ、そのありきたりな中流階級的やり方での生活を貫けると当然のように考えられる者がいるだろうか? また私たちの祖父が従って生きた価値観のうちで真剣に受け止められるものがいくつあるだろうか? 愛国心、信仰、帝国、家族、結婚の神聖さ、母校の絆、家系、血統、高潔、規律……一般的な教育を受けた者であれば三分もあればそれらの多くを転倒させることができるだろう。しかし結局のところ、愛国心や信仰といったようなこうした根本にあるものを取り除くことで何を成し遂げられるというのか? 何か信じるものを必要とすること自体は必ずしも取り除けてはいないのだ。数年前には偽りの夜明けとでも言うべきものがあった。何人かの真に才能ある作家(イーヴリン・ウォー、クリストファー・ホリスなど)を含む無数の若い知識人たちがカトリック教会へと逃げ込んだのだ。こうした人々が選んだのがほとんど例外なくローマ教会であり、例えばイギリス国教会やギリシャ教会、あるいはプロテスタントの教派でなかったことは重要である。つまり彼らは世界的な組織がある教会、確固とした戒律があり、背後に権力と名声がある教会を選んだのだ。真に一流の才能の現代における唯一の改宗、つまりエリオットのそれはローマ・カトリックへのものではなくアングロ・カトリック、教会におけるトロツキズムの等価物へのものだったと指摘しておくことにはおそらく価値があるだろう。しかし三十年代の若い作家たちがなぜ共産党に群がったり、そこへ向かったのかについてはこれ以上の注意を向ける必要はないと思う。もし信じることのできる何かがあったとしよう。一方には教会、軍隊、正統、規律があり、一方には祖国、そして……少なくとも一九三五年あたりからは……総統があった。知性によって追放されたかに見えたあらゆる忠誠心と迷信が薄っぺらな偽装をまとって凄まじい勢いで舞い戻ってきたのだ。愛国心、信仰、帝国、軍事的栄光……一言で言えばロシアだ。父祖、王、指導者、英雄、救済者……一言で言えばスターリンだ。神……スターリンである。悪魔……ヒトラーである。天国……モスクワである。地獄……ベルリンである。全ての欠落は埋められた。すなわち、結局のところイギリスの知識人にとっての「共産主義」は十分に説明可能なものだったのだ。それは祖国なき者の愛国心だった。

しかしイギリスの知識人たちの間での近年のロシア崇拝に疑いなく貢献しているものがもうひとつある。それはイングランド自体での生活の穏やかさと安楽さだ。あらゆる不正があってもなおイングランドは人身保護令状の土地であり、イギリスの人々の圧倒的大多数は暴力や違法行為を経験したことがないのだ。そうした雰囲気の中で育てば、専制的な体制がどのようなものであるかを容易には想像できなくなる。三十年代のほとんど全ての重要作家は生焼けの解放状態である中流階級に属し、また若すぎたために世界大戦の実際的な記憶を持っていなかった。こうした種類の人々にとっては粛清や秘密警察、即決の処刑、裁判無しの投獄などといったものはあまりに縁遠すぎて恐怖も感じないのだ。彼らが全体主義を受け入れることができるのは自由主義の他には経験したことがないからなのだ。例えばオーデンの詩「スペイン」からの引用を見て欲しい(ついでに言えばこの詩はスペイン戦争について書かれた数少ないまともなもののひとつである)。

明日は若者たちのもの、爆弾のように炸裂する詩人たち
湖畔を巡る散歩、数週におよぶ完璧な交わり
明日は自転車レース
夏の夕べに郊外を通り抜けて。しかし今日は戦うのだ。

今日は慎重に死の可能性を高め
必要不可欠な殺人の罪を意識して受け入れる
今日は力を費やそう
単調ですぐに消えていくパンフレットと退屈な会議に

二番目の連はいわば「良き党員」生活の日々の簡潔なスケッチを意図したものだろう。午前中に一、二の政治的殺人、「ブルジョア」的な良心の呵責を押しこらえる十分間の幕間劇を演じ、それから急いで昼食をとって忙しい午後を過ごし、夜には壁にチョークで文字を書いたりチラシを配ったりするのだ。全てが実に啓発的だ。しかし「必要不可欠な殺人」というフレーズに注目して欲しい。殺人をせいぜい言葉としか捉えていない人間でなければ書くことのできないものだ。個人的には私は殺人をそう軽々しく口にしようとは思わない。私には殺害された者たちの無数の遺体を目にする機会が何度もあった……私が言っているのは戦場で殺された者たちのことではなく、殺害された者たちのことだ。それゆえ殺人が何を意味するのかについて私にはそれなりに考えがある……恐怖、憎しみ、慟哭する血縁者たち、検死、血、臭い。私にとって殺人とは何か避けるべきものなのだ。普通の人間であれば誰にとってもそうだ。ヒトラーとスターリンは殺人が必要不可欠であることを見出したが、彼らは自身の冷酷さを喧伝しなかったし、それを殺人とも呼ばなかった。それは「粛清」、「除去」、あるいはそれ以外の穏当な言い回しで呼ばれた。オーデン氏独特の道徳的虚無主義が可能になるのは、引き金が引かれる時に決まってどこか別の場所にいるような人物にとってだけだ。左派思想の実に多くは火が熱いということさえ知らない人々が火遊びをしているかのようなものである。一九三五年から一九三九年の間にイギリスの知識人が気持ち任せにおこなった戦争挑発行為はその大部分が個人的な義務免除の感覚に基づいたものだった。兵役が避けがたく、文学者であろうとも背嚢の重さを知っていたフランスではその態度はまったく違うものだった。

シリル・コノリー氏の最近の作品である嘱望の敵の終盤に興味深く、示唆に富む文章が載っている。この作品の序盤は概ね現在の文学に対する批評になっている。コノリー氏はまさにあの「運動」の作家たちの世代に属していて、彼らの価値観と彼の価値観には共通する点が多い。散文作家の中でも主として暴力を専門とする者たち……タフなアメリカの一派、ヘミングウェイなどを志向している者たち……を彼が称賛していることに気づいて私は興味深く思った。しかしながら作品の後半は自叙伝的なもので、一九一〇年から一九二〇年の間における予備校とイートンでの生活に対する魅力的で実に正確な説明から構成されている。コノリー氏は次のような発言で締めくくっている。

イートン校を卒業する時に私が感じたことを推し量るに、それは恒久的な青春の理論とでも呼ばれるべきものだった。すばらしいパブリックスクールで少年たちが経験する体験はあまりに強烈なために彼らの人生に影響を与え、その発達を停止させてしまうという理論である。

この文章の二番目の文を読んだ時には思わず印刷ミスを探してしまうかもしれない。おそらく脱字といったものは「無い」はずだ。しかしまったくあり得ないことだ! 彼がこんなことを言うなど! そして付け加えれば彼はたんに真実を語っているだけなのだ。ただそれは倒錯したものだ。「文化的」な中流階級の暮らしはその穏やかさの度を深め、振り返った時にパブリックスクールの教育……スノッブさのぬるま湯につかった五年間……がまったくの波乱万丈な時期であるように見えるほどにまで達したのだ。三十年代におけるほとんど全ての重要作家にとって嘱望の敵にあるコノリー氏の記録以上の出来事が起きたことがあるだろうか? 決まって同じパターンなのだ。パブリックスクール、大学、ちょっとした海外旅行、それからロンドンへ。飢え、困窮、孤独、放浪、戦争、監獄、迫害、肉体労働……言葉としてさえめったに目にすることはない。「正当な左派の人々」として知られる巨大な一派がロシア体制の粛清・策略の側面や第一次五カ年計画の恐怖をやすやすと見逃すであろうことはまったく驚くに値しない。彼らはあまりに光り輝いているために、それら全てが意味することを理解できないのだ。

一九三七年には知識人たち全体が精神的に戦時下状態に置かれた。左派思想は「反ファシズム」にまで狭窄していった。つまり否定と憎悪文学の激流がドイツへと向けられ、ドイツに友好的と目された政治家は報道から一掃されたのだ。私にとってスペイン戦争で真に恐ろしかったのは自分が目にした暴力でも、前線の後ろでの党の不和でさえもなかった。左派の内輪に世界大戦時のような精神的風潮がすぐさま再び現れたことなのだ。二十年の間、戦争ヒステリーなど自身とは無縁だと冷笑していたまさにその人々が一九一五年当時の精神的荒廃へと真っ直ぐに駆け戻った者たちだったのだ。あらゆるおなじみの戦時の愚行、つまりスパイ狩り、正統性の嗅ぎ回り(ふんふん、おまえは良き反ファシストかな?)、残虐な物語の受け売りがまるで中断されていた歳月などなかったかのように再び流行した。スペイン戦争が終わる前に、さらにはミュンヘン協定の前でさえ、比較的優れた左派作家の一部は落ち着かないそぶりを取り始めた。全体的に見ればオーデンもスペンダーも予期するほどにはスペイン戦争について調子のいいことを書いているわけではないが、以来、感情的な変化と失望、困惑が続いている。なぜなら実際の事態の進行が過去数年における左派正統を無意味なものに変えたためだ。しかし、はじめからそれらの大半が無価値であると判断するためにとてつもない洞察力が必要だったかと言うとそうではない。従って次に現れる正統が先のものよりもいくらかでも優れたものになるという保証はまったくないのだ。

全体的に言えば三十年代の文学史は、作家は政治にまったく関与すべきでないという考えを正当化するもののように思われる。政党の規律を部分的にであれ受け入れる作家であれば誰しも遅かれ早かれ選択を迫られる状況に直面することになる。規律に従うか、さもなくば口を閉じるかだ。もちろん規律に従いつつ著作を続けることも可能ではある……一応は。マルクス主義者であれば誰でも「ブルジョア的」思想の自由は幻に過ぎないことをやすやすと証明できる。しかしその証明が終わったところで、この「ブルジョア的」自由無しでは創作の力はしおれてしまうという心理的事実は残るのだ。未来においては全体主義文学が生まれる可能性もあるが、それは私達が現在想像できる何物ともまったく異なることだろう。私たちの知る文学は個人的なものであり、精神的誠実とできる限り少ない検閲を要求するものである。そしてこれは韻文よりも散文についてよりよく当てはまる。三十年代最高の作家が詩人であるのはおそらく偶然ではない。正統の持つ雰囲気は決まって散文を損ない、とりわけ、あらゆる文学の形態の中で最も無政府主義的なものである小説を完璧なまでに破壊する。ローマ・カトリック教徒に優れた作家が何人いるだろうか? 名前を挙げることのできる少数の作家がいたとしてもたいていは不敬虔なカトリック教徒なのだ。小説は事実上、芸術のプロテスタント的形態なのである。それは自由な嗜好、自律的個人による産物なのだ。過去百五十年のうち、想像力豊かな散文が一九三〇年ほど生まれなかった時期は十年もないだろう。優れた詩、優れた社会学的作品、珠玉のパンフレットはあったが、何らかの価値があるフィクションは実質的にまったくなかった。一九三三年以降、精神的風潮は次第にそれに反対する度を増していった。時代精神ツァイトガイストに感化されるだけの感受性がある者は誰もが同時に政治に巻き込まれた。もちろん全員が政治的大騒ぎに完全に加わったというわけではないが、実質的には全員がその周辺にいて、多かれ少なかれプロパガンダ・キャンペーンと卑しむべき論争に巻き込まれた。共産主義者とそれに近い者たちは文学批評において不釣り合いに大きな影響力を持っていた。レッテル貼りとスローガン、言い逃れの時代だったのだ。最もひどい時期には身動きの取れない小さな嘘の檻に自らを拘束するよう期待された。最も良い時期でもある種の自主的な検閲(「私はこれを口にすべきだろうか? 親ファシスト的ではないだろうか?」)がほぼ全ての者の頭の中で働いていた。優れた小説がこのような雰囲気の中で書かれるなどほとんどあり得ないことだ。「優れた小説は正統性を嗅ぎ回る者によっても、自身の非正統性に罪悪感を持つ者によっても書かれることはない。優れた小説は恐れを知らぬ人々によって書かれる」。ここでヘンリー・ミラーへと戻って来ることになる。


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