職業としての科学 マックス・ウェーバー

内的な条件―個人的資質


職業としての科学の系統化とは対照的に、いまや内なる事柄は、なによりも、科学がかつてなく、そして未来永劫つづくであろう専門分化過程に突入しているという事実によって条件づけられています。外面的のみならず、内面的にも、個々人が厳格な専門家でなければ、その分野でなにがしか真に完全なものをなし得る確たる自覚をもちえないほどの事態にいたっています。われわれが時おり取り組むような、そして社会学者が繰り返し取り組まねばならないような、隣接分野と重なりあうあらゆる研究においてできることといえば、隣の専門家に、彼自身の専門性からすると容易には思いつかないだろう有益な質問をするのが関の山だという、あきらめまじりの現実を背負わされます。どうしても自分自身の仕事は不完全なものに留まらざるをえません。厳格な専門化によってのみ、科学者は完全に自覚的になることができ、人生で一度、そしてたぶんそれっきりのこととして、後に残るなにかを成し遂げられます。真に決定的で優れた業績とは、今日ではつねに専門的な業績です。そしていわば目隠しをつけた状態で、みずからの魂の命運が本稿のこの部分を正しく読めるかどうかにかかっているということが理解できない者は、科学からは身を引いた方がよいでしょう。決して科学の「個人的経験」などできないでしょうから。部外者にあざ笑われる、この奇妙な陶酔なしに。この情熱なしに、「生に没入するには数千年を要し、さらに数千年を沈黙のうちに待たねばならない」---あなたがこれを判読できるかどうか次第で。さもなければ、あなたには科学の天分などありえませんから、なにか別のことをすべきでしょう。情熱的献身をもってことにあたることができないのであれば、ひとにとっての人としての価値などなにもありません。

とはいえ、どんなに誠実で深かろうが、そんな情熱をいくら集めても科学的な結果は絞り出せないのが事実というものです。もちろん、情熱は決定的な「霊感」の前提条件です。最近若者のあいだでは、科学はまさしく「工場で」そうであるように、「心と魂」ではなく、冷徹な頭脳のみを使う計算上の、研究所や統計的な書類処理装置が仕立て上げた計算上の問題になっているという考えがはびこっています。まずなにより、そういう風評には、工場や研究所で実際に起きていることのはっきりとした認識が欠けています。もしもなにがしか価値のあるものを成し遂げようというのならば、どのような場合にも、なんらかのアイディアが誰かの心に生じる必要があり、かつそれは正しいものでなければなりません。そして、そういう直観は強制されて出てくるものではありません。

それは冷静なる計算とは無縁のものです。確かに、計算もまた必要不可欠な前提ではあります。たとえば、社会学者にしてみれば、たとえ年をとっていたとしても、頭の中で数万の、ことによると一度に数カ月かかるような、まったくありふれた計算をすることを、この上なく好ましいことと思うべきです。たとえ最終的に得られる結果がしばしば実際に些細なものであっても、もしなにかを明らかにしたいと望むのであれば、不純にも、この作業を機械の助手に完全に任せっきりにはできません。しかし、もし計算の方向性について、そして計算の途中に出てきためぼしい結果の意味について、なにも「アイディア」が心に浮かばなかったとしたら、この小さな結果でさえ生まれなかったでしょう。

ふつう、そういう「アイディア」は、たいへん熱心な仕事の土壌の上に醸成されますが、いつもそうだというわけではありません。科学的には、素人のアイディアが専門家とまったく同じか、あるいはより重要な意味をもつことがあります。最高の仮説や洞察の多くは、まったくの素人によるものです。ヘルムホルツがロベルトマイヤーについて語ったように、素人が専門家と異なるのは、もっぱら堅固で信頼性のおける仕事処理ができない点においてです、したがって素人はふつう、アイディアの意味するところを自在に手にとり、評価し、汲み取る立場にはありません。アイディアは仕事の代わりにはなりません。逆に、仕事はアイディアの代わりにはなりませんし、情熱が無力なように、アイディアを駆り出すこともできません。アイディアというものは、情熱と仕事、とりわけ両者あいそろってはじめて、導き出されるものです。

アイディアはわたしたちの都合のよいときに出てくるのではなく、アイディア自身が出たいときに出てくるものです。最もよいアイディアは、まったくイェーリングがいうように心に浮かびます。ソファーでタバコを吸っているときに。あるいはヘルムホルツが科学的厳格さをもって述べるように。緩やかに昇る通りを歩いているときに。ともかくそんなふうに。いずれにせよ、アイディアは机で沈思黙考し、探しているときではなく、予期せぬときに現れます。しかし、机で黙考し、情熱的献身をもって答を探さなかったならば、アイディアなど浮かぶものではありません。

おまけに、どういったものであれ、科学者はあらゆる科学的仕事にともなうリスクを冒さねばなりません。はたして「アイディア」は生まれるだろうか?優秀な研究者であっても、価値ある独自のアイディアがまったく浮かばないこともあります。これが科学だけのことで、たとえば研究所は企業の営業所とは異なるなどと思うのは大きな間違いです。「商才」のない、ということは、アイディアあるいは観念的な直観力のない商人や大資本家であれば、一生涯、事務員や技術職にとどまった方がよいでしょう。彼には決して、組織の中で真の創造性を発揮できないでしょうから。科学の分野における着想は、うぬぼれ学者が想うように、現代企業家による現実生活の問題処理に関する分野に比べて、よりきわだった役をなすというわけでは、決してありません。他方において、これもまた誤解されるのですが、科学における着想は、芸術の世界よりも小さな役割しか演じないというわけではありません。科学的に価値あるどんな結果に到達する場合にも、数学者は定規や計算機、あるいはほかの機械的手法にたよりながら、机に向かっていると思うのは子供じみた考えです。当然ながら、ワイエルシュトラスの数学的な想像力は芸術家の想像力とは、意味や結果において、かなり異なった方向性をもち、質的にも基本的に異なります。しかし、心理的なプロセスに違いはありません。それはともに(プラトンの「マニア」の意味での)熱狂であり「霊感」です。

ところで、科学的な霊感があるかどうかは、見えざる運命と「才能」によります。最後につけくわえるべき重要な点として、こういう明白な事実によって、とくに若者のあいだで、とてももっともな態度が人気を博し、彼らを今日、街角いたるところ、あらゆる雑誌を埋め尽くすカルトへと駆り立てています。これら崇拝の対象は「個人的人格」であり「個人的経験」です。両者はともに密接に関連しており、後者は前者の要素であり、それに属するものです。それが階級や地位に自覚的な個性にふさわしいという理由で、ひとびとは生を「体験」しようと自身をいためつけます。そしてもし、生を「体験」しそこなうならば、少なくともこの天性をもったふりをしなければなりません。以前、この「体験」は、単純に「センセーション」といいました。その方が、個性の実体は何であり、それが何を意味するかについての、より適切な概念をあたえていたと思います。

みなさん。科学の分野では、目の前の仕事にひとり仕える者のみが個性をもちえます。そしてこれは科学の分野に限ったことではありません。わたしは、仕事に、そして仕事のみに仕える以外になにかをした偉大な芸術家を知りません。芸術に関するかぎり、ゲーテクラスの個性をもってしても、気ままに「生」を芸術作品に捧げるのは好ましいことではありません。仮にこの点に疑いをさしはさむとしても、あえてそのような自由をみずから享楽してみるにはゲーテのようにならねばなりません。少なくとも、だれしもこれだけは認めるでしょう。千年にひとり現れるかという、ゲーテのようなひとでさえ、自由きままは報われません。政治の世界でも事は同じですが、きょうはそれについては議論しません。しかしとにかく、科学の世界では、みずから身を捧げるテーマの指揮をとり、舞台にあがり「体験」を通じてみずからを本物にしようとしつつ、どうしたら自分が単なる「専門家」以上のものだと証明できるだろう、どうしたら形式的にも内容的にも、いまだかつて、ほかの誰も言っていないことを言えるだろう、そんなことを尋ねるようなひとに「個性」などはありえません。今日では、そういうふるまいは、よくみられる現象であり、そういうひとは、いつもちょっとした印象を与えはするものの、結局は品位を落すだけにすぎません。そうではなく、仕事への心からの献身、そしてそれだけが、科学者を彼が仕える課題の高みと尊厳へと引き上げるはずです。そしてこの点においては、芸術家となんら変わるところはありません。


<< 前へ 目次 次へ >>
©2002 岡部拓也. この版権表示を残す限りにおいてこの翻訳は商業利用を含む複製、再配布が自由に認められる。プロジェクト杉田玄白 (http://www.genpaku.org/) 正式参加作品。