ウォルター・ローリー卿(ウォルター・ローリー(一五五四年-一六一八年十月二十九日)。イギリスの軍人、探検家、作家。イングランド女王であるエリザベス一世の寵臣だったことで知られる。)がロンドン塔に収監された時、彼の頭の中は世界史を書くことでいっぱいだった。彼の独房の窓の下でとある労働者たちの間の小競り合いが起きて、そのうちの一人が殺された時には彼は第一巻を書き終え、第二巻に取りかかっているところだった。入念な取り調べがおこなわれ、また実際に起きたことを彼が目にしていたにも関わらず、ウォルター卿にはその争いが何を巡るものだったのかを明らかにすることは決してできなかった。この話自体は真実でないかもしれないが、次のことは間違いのないことだ――それからすぐに彼は自分が書いたものを焼き払って自分の計画を放棄したと言われているのだ。
この話が過去十年の間に何度、私の頭に浮かんだかわからないが、その度にローリーはおそらく間違っていたという思いが決まってわき上がる。当時の研究における困難さ、とりわけ囚われている中で研究をおこなう困難さを考慮しても、おそらく彼であれば現実の出来事の経過にある程度は即した世界史を生み出すことができただろう。つい最近になるまで歴史書に記録された主要な出来事はたいていは確かに起きていたことだった。一〇六六年のヘースティングズの戦い、コロンブスのアメリカ発見、ヘンリー八世に六人の妻がいたことなどはまず間違いなく真実である。その事実が気に食わなかろうと「事実は真実である」と認める限り一定程度の真実というものはあり得るのだ。例えば先の戦争の時期に至ってさえ、ブリタニカ百科事典はさまざまな会戦についての記事を部分的にはドイツの情報源に基づいて編集していた。事実の一部――例えば犠牲者の数――は中立なものと見られていて、実質的には誰もがそれを受け入れていた。こんなことは現在ではあり得ないだろう。現在の戦争のナチ版と非ナチ版は互いに似ても似つかないだろうし、そのどちらが最終的に歴史書に載るかは証拠に基づいた方法によってではなく戦場で決まることだろう。
スペイン内戦の間、私自身が、この戦争の真の歴史は決して書かれず、書くこともできないだろうととても強く感じていた。正確な数値や何が起きていたのかについての客観的な説明は全く存在しなかった。スペイン政府がまだ存在し、さまざまな共和派の派閥が互いに嘘をささやき、敵が比較的小物だった一九三七年でさえ私がそう感じていたとしたら、いったい現在、事態をどの様に証言すればよいと言うのか? たとえフランコ(フランシスコ・フランコ(一八九二年十二月四日-一九七五年十一月二十日)。スペインの軍人、政治家、独裁者。一九三六年のスペイン内戦時に反乱軍側の指導者となり、内戦に勝利した後は晩年までスペインで独裁体制を敷いた。)が打ち倒されたとしても、未来の歴史家はどのような記録を頼りにすればよいのか? またもしフランコか彼によく似た者が権力の座に留まれば、その戦史は現在生きている何百万もの人間が嘘だと知っている多くの「事実」から構成されることだろう。例えばその「事実」のひとつは大勢のロシア軍がスペインにいたというものだ。そんな軍隊はいなかったという確かな証拠が豊富に存在する。しかしフランコが権力の座に留まってファシズムが完全に生き延びれば、このロシア軍は歴史書の中に入り込み、将来の小学生たちはそれを信じることになるだろう。そうやって実利的な目的のために嘘も真実となるのだ。
こうしたことは常に起こっている。何百万もの実例の中から、偶然にも検証可能なものをひとつ選んで示そう。一九四一年の一時期と一九四二年の間、ドイツ空軍がロシアで忙しく動き回っていた頃のことだが、ドイツのラジオは自国の聴衆をロンドンに対する壊滅的空襲の話で楽しませていた。現在、私たちはそんな空襲は起きていないことを知っている。しかしもしドイツがイギリスを征服したらその知識が何の役に立つだろうか? 未来の歴史家にとってはその空襲は起きていたのだろうか、それとも起きていなかったのだろうか? 答えはこうだ。もしヒトラーが生き延びればそれは起きたことになる、もし彼が倒されれば起きていないことになる。過去十年か二十年の間の無数の他の出来事についても同じだ。シオン賢者の議定書(一八九〇年代に登場した、ユダヤ人が世界支配するという陰謀論を説く内容の偽造文書。)は本物なのだろうか? トロツキーはナチスと陰謀を企てたのか? バトル・オブ・ブリテンでドイツの航空機は何機撃墜されたのだろうか? ヨーロッパは「新秩序(ヒトラーの演説で説かれたナチス・ドイツによるヨーロッパ支配構想を指す。「ヨーロッパ新秩序」とも呼ばれる。)」を歓迎しているのか? どの場合でも真実として万人が受け入れられる答えを得ることは絶対にできない。それぞれの場合で互いに全く矛盾する多くの答えが得られ、そのうちのひとつが物理的な闘争の結果として最終的に選ばれるのだ。歴史は勝者によって書かれる。
つまるところ私たちが勝利を求めるのは私たちがこの戦争に勝てば敵よりも少ない嘘で済ませることができるからだ。全体主義の真に驚くべき点は「残虐行為」を犯すということではなく、客観的真実という概念に攻撃を仕掛けていることなのである。全体主義は未来と同様に過去も操作すると言っている。戦争によって促進されているひどい嘘と独善に反して、こうした思考習慣がイギリスで育っているとは実のところ私は考えていない。状況を総合的に判断すれば、報道は、わずかだが戦前よりも自由度を増していると言わざるを得ない。私自身の経験から言えば十年前には出版できなかったであろうものが出版できるようなっていると思う。この戦争では戦争反対者が虐待されることはおそらく先の戦争の時よりも少なくなっているし、公共の場での不人気な意見の表明はまず間違いなく安全になっている。従って自由主義的な思考習慣、つまり真実とは自身の外側にあって発見されるものであって、人間ごとに作り上げることができるようなものではないという考え方が生き延びる希望はある。しかしそれでも私は未来の歴史家の仕事をうらやみはしない。現在の戦争の犠牲者が数百万人の範囲に収まるかさえ推定できないというのは、現代においても奇妙な説明ではないだろうか?
商務省がズボン裾の折り返し禁止令(第二次世界大戦時に布や革などの物資不足を解消するためにイギリス政府が設けた規制のひとつ。CC41(Controlled Commodity 1941)として知られる。)を解除しようとしているという公示がされていた頃、仕立て屋の広告のひとつが「我々が勝ち取ろうとしている自由の最初のひとつ」という文句でこれを歓迎していた。
もし私たちが本当にズボンの裾の折り返しのために戦っているのだとしたら私は枢軸国側につきたくなるところだ。ズボンの折り返しと言えば埃を集める他には何の役にも立たず、その埃を払う時にときおり六ペンス硬貨が見つかることを除けば何も良いところは無い。しかしこの仕立て屋の喜びに満ちた喝采の根底にはもうひとつの思いが横たわっている。もう少しでドイツは終わりを迎える、この戦争も半分が終わり、配給も緩和され、再びお高くとまった衣服も盛んになるだろうと考えているのだ。私はこうした希望には与しない。食料配給は早いところやめられるに越したことはないと私も思うが、衣服配給は最後のディナージャケットが虫食いでだめになり葬儀屋さえもがシルクハットを捨てるまで続くところを目にしたいと思っている。五年の間、国全体が染められた戦闘服を身にまとうところを目しようとも、それによって俗物根性と妬みの大繁殖地のひとつが消し去られるのであれば気にもならないだろう。衣服配給は民主主義的な精神から考え出されたものではないが、それでも民主主義的な効果を持っている。貧しい者があまりいい服を着ていないのであれば金持ちも一応は粗末な姿をするのだ。そして私たちの社会で真の構造変化が起きていない以上、ひどい欠乏の結果としての機械的な水平化作用は無いよりはましなのである。
クリスマスにある人からもらった一冊の「インゴールズビーの伝説(一八四〇年代にイギリスで出版された神話や伝説、幽霊物語、詩などを集めた書籍。トーマス・インゴールズビー名義で出版されたが、実際の著者はイギリス国教会の牧師リチャード・ハリス・バーハム。)」にはクルシャンク(アイザック・クルシャンク(一七六四年十月十四日-一八一一年)。スコットランドの風刺画家。)による挿絵が付いてた。それを見て私は、イギリスで滑稽画を書くことが廃れてしまったのはなぜだろうかと考え込んでしまった。滑稽詩が廃れた理由であれば簡単に説明できる。バーハムまさにその人やフッド(トーマス・フッド(一七九九年五月二十三日-一八四五年五月三日)。イギリスの詩人、ユーモア作家。)、サッカレー、その他の十九世紀初期から中期にかけての作家は優れた軽妙な詩、次のような文体のもの(チャールズ・スチュアート・カルヴァリーの詩「Ode-'On A Distant Prospect' Of Making A Fortune」の一節。)を書くことができた。
かつては幸福な子供、喜びを歌った
日がな一日、緑の芝生の上で
衣服も着心地悪くなく
少しきつめの青の服
それは全体的には生活――中流階級の生活――が気楽なもので、生まれてから死ぬまでを少年らしい物の考え方で過ごすことができたからだ。ときおり見られる、クラフ(アーサー・ヒュー・クラフ(一八一九年一月一日-一八六一年十一月十三日)。イギリスの詩人、教育家。)の「金持ちになるのはなんと喜ばしいことか」だとか「セイウチと大工」のようなものを別にすれば、十九世紀の英語の滑稽詩にはなんの思想も無い。しかし画家に関しては全く話が別だ。リーチ(ウィリアム・ジョン・リーチ(一八八一年四月十日-一九六八年七月十六日)。アイルランドの画家。)やクルシャンク、そしてホガース(ウィリアム・ホガース(一六九七年十一月十日-一七六四年十月二十六日)。イギリスの画家。)にまでさかのぼって延びる長い列をなす画家たちの魅力はその知的な残忍さにあるのだ。パンチ誌は、もし現在新しく描かれたものだったなら「ハンドリー・クロス(一八四〇年代にイギリスで出版されたロバート・スミス・サーティーズによる小説。)」に付けられたリーチの挿絵を掲載したりはしないだろう。過激すぎるからだ。なんと上流階級の姿を労働階級と同じくらい醜く描いてるのである! それらは愉快ではあるが、パンチ誌の愉快さとは異なる。いったいどうして私たちは一八六〇年頃の快活さと残忍さの両方を失ってしまったのだろうか? また、階級憎悪がこれほど激しく、政治熱がナポレオン戦争の頃と同じくらい前面に現れている現在において、なぜそれを表現できる漫画家がめったに見られないのだろうか?