気の向くままに, ジョージ・オーウェル

1944年4月14日 イギリスの出生率低下問題、ある村でのクリケットの試合、個人の不死という信仰


コモン・ウェルス誌の四月号ではイギリスの出生率低下問題について数段落が割かれていた。そこで語られていることのほとんどは真実だが、以下のような発言も漏らされている。

訳知り顔の者たちは低下の根本的な原因として避妊具や栄養問題、不妊症、利己心、経済的不安感などをやつぎばやに指摘する。しかしそれを裏付ける事実は無い。避妊具を違法化しているナチス・ドイツでは出生率が記録的な低水準に達しているが、一方でそうした制限のないソビエト連邦では人口が健全に増加を続けている……ペッカム実験が証明したように、生殖は友情と協力に特徴づけられた環境で刺激されるのだ……人生に意味と目的が取り戻されれば、生産の車輪は音を立てて回り続け、人生はただ忍耐を強いられるのではない冒険へと再び変わって赤ん坊が不足するなどということはもはや耳にしなくなるだろう。

どんな重要な問題だろうと、こうしたいいかげんなやり方で扱うのは一般の人々に対してフェアではない。上記に引用した文章でまず目を引くのはドイツの出生率を低下させたヒトラーの話だろう。しかしむしろ彼はワイマール共和政の間、出生率を前代未聞の水準にまで引き上げていたのである。戦争が始まる前にはここ何年かで初めて人口置換水準を上回る出生率となっていた。ドイツの出生率が壊滅的な下落を開始したのは一九四二年のことで、その原因の一端にドイツ人男性が家庭から連れ去られたことがあるのは間違いない。統計の数字はまだ得られていないが同じ時期のロシアの出生率もまた確実に低下しているはずである。

また革命以来のロシアの高い出生率の期間も目を引くだろう。しかしロシアの出生率は帝政時代も高いのだ。さらに常に最高の出生率の国々、つまりインドや中国、(少し下がるが)日本についても言及されていない。例えば南インドの小作農の生活を「ただ忍耐を強いられるのではない冒険」と呼んだ時、それは正確な言い方だろうか?

この問題に関してまず間違いなく確実に言えることのひとつは高い出生率には低い生活水準がともなうことであり、逆もまたしかりということだ。これに反する例外はごくわずかしかない。言い換えれば問題は極めて複雑ということだ。常に言えることだができる限り学ぶことが極めて重要である。なぜなら現在の傾向が十年、あるいは遅くとも二十年の間に反転しなければ私たちの人口に破滅的な低下が起きるのだ。一部の人々のようにその反転を不可能と考えるべきではない。こうした傾向の変化は過去にはしばしば起きている。現在、専門家たちによれば今世紀の終わりには私たちの人口はほんの数百万人になっているだろうと予測されている実際には二〇〇〇年のイギリスの人口は約五九〇〇万人となっている。が、しかし一八七〇年には彼らは一九四〇年の人口が一億人になるだろうと予測していたのだ。再び人口置換水準に到達させるために私たちの出生率が、例えばムスタファ・ケマルが権力を奪取した後のトルコの出生率のような驚くべき上昇を果たす必要はない。とはいえ最初に必要なのはなぜ人口が増えたり減ったりするのかを理解することであり、一方で、高い出生率を社会主義の副産物と考えるのは子供を持たないローマ・カトリック神父の言うことを全て鵜呑みにするのと同じくらい非科学的なことである。


先々週の庶民院の様子について読みながら、私は自分が二十年以上前に目撃したあるささやかな出来事を思い出さずにはいられなかった。

ある村でのクリケットの試合でのことだ。一方のチームのキャプテンはその地方の地主で、とびぬけて金持ちだったことを脇においても虚栄心の強い子供じみた男であり、この試合に勝つことは彼にとってとても重要であると考えていた。彼のチームのメンバーは全て、あるいはほとんど全て彼の賃借人だった。

地主のチームが攻撃側だったが彼自身はアウトになってベンチに座っていた。バッツマンの一人がうっかり自陣側のウィケットを叩き、それとほとんど同じタイミングでボールがウィケットキーパーの手に収まった。「アウトじゃないぞ」即座に地主は言ってから隣にいた者との会話を続けた。しかし審判は「アウト」の判定を下してそのバッツマンはベンチに戻ろうと歩き出し、そこで何が起きているのかに地主が気づいた。地主の目に戻ってくるバッツマンの姿が飛び込んできて彼の顔がいくらか紅潮した。

「どういうことだ!」彼が叫ぶ。「アウトと言われたのか? 馬鹿げている! 絶対にアウトじゃない」そう言って立ち上がると彼は手を口の周りに当てて審判に向かって叫んだ。「おい、なんでアウトにしたんだ? 絶対にアウトじゃないぞ!」

バッツマンは立ち止まった。審判は少しためらってから、バッツマンをウィケットへ呼び戻し、試合は続いていった。

当時、私は幼い少年で、この出来事は私がそれまで目にしたものの中で最も衝撃的なものに思えた。時が経って世知にさとくなった今であれば、私の反応は、あの審判も地主の賃借人なのかと尋ねるだけで終わったことだろう。


キリスト教についてのさまざまな発言を理由に「マルヴァーンのたいまつ「The Malvern Torch」キリスト教産業者会(Industrial Christian Fellowship)発行。」でC・A・スミス氏と私を非難しているシドニー・ダーク氏がひどく怒りを爆発させているのは、個人の不死という信仰は衰退していると私が示唆したためだ。「賭けてもいいが」彼は言う。「世論調査をおこなえば(イギリス人口の)七十五パーセントは漠然と死後の生を信じていると認めるだろう」同じ週のうちに別の場所でダーク氏は八十五パーセントと数字を変えて同じことを書いている。

さて、私が気がついたところによればそれがどのような素性の者であれ、個人の不死を信じていると認める者に出会うことは極めて稀だ。しかしそれでも、もし皆にこの質問をして鉛筆と紙を手渡せばかなり多くの者(ダーク氏のようにパーセンテージを挙げることはしない)が死後に「何か」が存在する可能性を認めることはおおいにあり得ると私は思う。ダーク氏が見逃しているのはそうした信仰には私たちの祖先にとってはあった実在性が無いことなのである。来世を、例えばオーストラリアの実在と同じくらい固く信じていると思える者に出会ったことが私は一度も無い。最近に関して言えば文字通り皆無である。来世への信仰がもし本当にあれば、それは言われているような日頃の行ないへの影響を持ったりはしないはずだ。死後に無限の生活が続くと期待していたら、今の私たちの生活など全く取るに足らないことに思えるだろう! ほとんどのキリスト教徒は地獄の存在を信じていると公言している。しかし自分が癌であることを恐れるのと同じくらい地獄を恐れているように思えるキリスト教徒と出会ったことがあるだろうか? 非常に敬虔なキリスト教徒でさえ地獄についての冗談を口にするだろう。彼らはハンセン病や顔を焼き払われたイギリス空軍パイロットについての冗談は言わないはずだ。題材にするには痛まし過ぎるからだ。ここで私の頭に浮かんだ、晩年のG・K・チェスタートンのこれはオーウェルの思い違いでチェスタートンが創刊した「G.K.’s Weekly」誌に掲載された、「A. M. Currie」という人物による詩であると後に投書で指摘されている。ちょっとした八行詩トリオレを挙げておこう。

父さん魂売るとはなんとも残念
朝食時には体が焦げ始め
お金は便利、だけど概してものは言わない
父さん魂売るとはなんとも残念
踏ん張る時にはまるで石炭男爵
値下がりしても食い下がる
父さん魂売るとはなんとも残念
朝食時には体が焦げ始め

カトリック教徒のチェスタートンはおそらく地獄を信じていると言ったはずだ。もし隣家の住人が火事で焼け死んでいたら彼はそれを滑稽詩にしようとは思わなかっただろうが、それでも何百万年間も油で煮られる人物を冗談にすることはできたのだ。こうした信仰は現実感を持っていないと言わざるを得ない。サミュエル・バトラーの音楽銀行サミュエル・バトラーの小説「エレホン」に登場する、商品の売買には使えない紙幣を発行する銀行。教会と免罪符を風刺したもの。にあるお金同様、まがい物の通貨なのだ。


近頃トリビューン紙のオフィスに入って来ると最初に目に飛び込んでくるのは、山積みになった大量の原稿とその下からときおりちらりと見える鼻先だ。短編小説コンテストの投稿作品と格闘する私である。作品への反応は通常、寛大と呼ばれるものだ。コンテストの応募は三月三十一日に締め切られたが、結果の発表は数週間はできないだろう。優勝作品については四月二十八日の号で発表できればと思っている。


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