気の向くままに, ジョージ・オーウェル

1944年4月21日 彼らはBBCニュースを聞く、新聞のポスター、外国の言葉や言い回し


今週のトリビューン紙への投書で、ある人がとても激しく私を非難している。BBCは日刊紙よりも優れた情報源であり、一般の人々もそう見なしていると私が言った件についてだ。彼が言うような、ニュース速報が流れてきた時に「そいつを消せ!」と叫ぶ普通の労働者など私は一度たりとも目にしたことがない。

とはいえこうした話はよく聞く。だがそれよりもさらによく目にするのはニュース速報が始まっても少しもざわめきが小さくなることなくパブでダーツや音楽といったものを楽しむ客だ。しかし私は、誰もがBBCを好んでいるだとか、それを興味深くて成熟していて民主的かつ進歩的だと考えているだとか主張しているわけではない。私が言っているのは人々がそれを比較的健全な情報源と見なしているということだけだ。何か疑わしいニュース記事を見た時、人々がそれを信じ込まずにラジオで確認できるまで待つのを私は何度も目にした。社会調査でも同様の傾向が見て取れる――つまりラジオと比べて新聞の評判は低下しているのだ。

前に言ったことを繰り返しておこう――私の経験からするとBBCは比較的真実に近く、何よりもまずニュースへの責任ある態度を持ち、たんに「話題性」があるからといって嘘を広めたりはしない。もちろん真実でない発言は絶えず放送されていて誰でもその例を挙げられるだろう。しかしほとんどの場合、それは全くの過失によるものであって、BBCが犯す罪は直接的なプロパガンダによるものよりも物議をかもすあらゆるものを避けることによるものの方がずっと多い。そしてまた――我らが投書者の指摘とは異なり――その海外における名声は比較的高いのである。交戦国のラジオの中でどれが最も真実に近いと思うかを誰でもいいからヨーロッパからの難民に聞いてみるといい。またアジアでも、さらにはイギリスのプロパガンダを聞こうとせず、イギリスの娯楽番組でさえめったに聞こうとしないほど人々が敵対的なインドでさえ、真実に近いと信じているからこそ彼らはBBCニュースを聞くのだ。

仮にBBCがイギリス政府の嘘を伝えていたとしても、それを他から選り分ける努力はしているはずだ。例えばほとんどの新聞は真実かどうかを問うこと無く、数度に渡る、日本の艦隊全てを撃沈したというアメリカの主張を報道し続けている。私の知る限りではBBCはこうした事実や信頼できない特定の他の情報源に対してかなり早くから疑念の態度を示していた。ドイツのラジオの他には裏付けのない記事――イギリスにとって都合の悪い記事――を新聞が掲載していることに私は一度ならず気づいたことがある。「話題性」があり、ちょうど良い「小記事」になるからだ。

新聞で何か明らかに真実でないものを目にして「その情報をどこから得たのか?」と電話で尋ねたとしよう。普通は「申し訳ありませんが何々さんは席を外していて」という決まり文句ではぐらかされる。粘り強く尋ねて次第にわかってくるのは、その記事には何の根拠も無いがちょっと良いニュースに見えたので掲載されたということなのだ。名誉毀損に関わることを別にすれば、名前や日付、図表、その他の詳細に関する正確さについて誰かが頭を悩ますと平均的ジャーナリストは驚き、さらには軽蔑さえする。さらに日刊紙の記者であれば誰でも、この職業の最も重要な秘訣のひとつは何もニュースが無い時にニュースがあるように見せかける技術であると教えてくれるだろう。


一九四〇年五月の終わりに近づく頃、紙資源の節約のために新聞のポスターが禁止された。しかし数紙はその後もときおりポスターの掲示を続けた。取り調べでわかったのは彼らが古いものを使っていたことだ。「機甲パンツァー師団が大きく撤退」だとか「フランス軍は確固とした態勢を維持」だとかいった見出しは繰り返し使えたのだ。その後、新聞の売り子が自前のポスターを黒板とチョークで提供する時期になると、その手で書かれるポスターは比較的落ち着いた、真実に近いものへと変わっていった。これから買おうとしている新聞の実際に掲載されている内容について言及するようになり、普通そこで選ばれるのは現実のニュースであって扇情的なたわごとの断片ではなかった。大文字のSを逆向きに書くこともしばしばな新聞の売り子の方が大金持ちであるその雇い主よりもニュースとは何かについての優れた考えと一般の人々に対する責任感を持ち合わせていたのだ。

我らが投書者はイギリスの新聞の愚かさについて責めを負わされるべきはその経営者ではなく一般の人々とジャーナリストであると考えている。知的な新聞が儲からないのは一般の人々が馬鹿話を欲しているせいだと彼は主張している。本当にそうなのか私には確信が無い。ここしばらくの間、馬鹿話のほとんどは消え失せていたが新聞の発行部数は減っていない。しかし――私も言っているように――ジャーナリストにも責任の一端があることについては強く同意する。自身の職の評判を貶めることを許しながらそれを承知で、手っ取り早く金を儲けていると言ってノースクリフのような者たちを責めるのは臭いからといってスカンクを責めるようなものだと私は思う。


英語の謎のひとつは、最大級の語彙が存在していながらなぜ常に外国の言葉や言い回しを借用し続けているのかということだ。例えば袋小路を指す時に「cul de sac」と言うことにどんな意味があるのだろうか? それ以外にも全く必然性の無いフランス語の言い回しとしては「joie de vivre(生きる喜び)」「amour propre(自尊心)」「reculer pour mieux sauter(高く跳ぶための助走)」「raison d’etre(存在意義)」「vis-a-vis(相対して)」「tete-a-tete(顔をつき合わせて)」「au pied de la lettre(手紙で)」「esprit de corps(団結心)」といったものがある。他にも何ダースもある。必然性の無い借用はラテン語からもされているし(とはいえ「i.e.」や「e.g.」といった便利な略語の場合もあるが)、今回の戦争が始まってからは「Gleichschaltung(強制的同一化)」「Lebensraum(生存圏)」「Weltanschauung(世界観)」「Wehrmacht(ドイツ国防軍)」「Panzerdivisionen(機甲師団)」といったドイツ語の言葉がおおいにはびこって、実に自由放埒に飛び交っている。ほとんど全ての場合で同等の英語の言葉がすでに存在しているか、容易に造語できる状態にある。また意味も理解せずにアメリカの俗語的言い回しを借りる傾向もある。例えば、「barking up the wrong tree(間違った木に吠えかける)猟犬が獲物のいない木に吠える様子から「見当違いをしていること」を意味する慣用句。」という表現は実に広く使われているが、尋ねてみるととほとんどの人々はその語源も正確な意味も知らないことがわかる。

ときには外国の言葉を借りる必要もあるが、そうした場合には私たちの祖先がやっていたようにその発音を英語化すべきだ。もし本当に「café」という言葉が必要なのであれば(私たちは二百年にわたって「coffee house」という言葉でうまくやってきたのだが)、それは「caffay」と綴られるか「cayfe」と発音されるべきである。「Garage」は「garridge」と発音されるべきである。私たちの話し言葉を外国の発音のかけらで散らかし、特定の言語をたまたま学んでいなかった人間にとって極めて退屈なものにすることに何の意味があるというのか?

ギリシャ起源の造語を見つけることができた時に私たちのほとんどがイギリス起源の言葉を全く使わなくなるのはなぜなのだろうか? その良い例をイギリスの花の名前の急速な消失に見ることができる。二十年前まで「snapdragon(キンギョソウ)」と広く呼ばれていたものは今では「antirrhinum」と呼ばれている。辞書の助け無しでは誰一人として綴ることのできない言葉だ。「Forget-me-nots(ワスレナグサ)」は「myosotis」と呼ばれることがますます多くなっている。他にも多くの名前、「Red Hot Poker」や「Mind Your Own Business」「Love Lies Sleeping」「London Pride」が消えていき、植物学の教科書から取り出された無色透明なギリシャ語名が好まれるようになっている。この話題についてはあまり長々と続けない方が良いだろう。前回このコラムで花について言及した時にはある腹を立てた女性が「花はブルジョア的だ」と言うために投書してきた。しかし「calendula」が好まれて「marigold(マリーゴールド)」が消え、すてきで小さな「Cheddar Pink(チェダーピンク)」がその名前を失ってたんなる「Dianthus Caesius」に変わることは英語の未来にとって良い兆候であるようには私には思えないのだ。


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