大笑いしたい人に勧めたい一冊の本がある。出版されたのは数十年前だが、最近になってようやく私はそれを手に入れることに成功した。I・A・リチャーズの「実践批評」である。
内容のほとんどは文芸批評の一般原則について考察したものだが、リチャーズ氏がケンブリッジ大学で英語講座の教え子を使っておこなったある実験――そう言っていいものだろう――についての記述があるのだ。さまざまな志願者、本当の学生ではないがイギリス文学に興味を持っていると思われる人々も参加している。十三の詩を示してそれを批評するよう彼らに頼む。詩の作者は明かされておらず、平均的な読者がひと目見てそれとわかるほど有名な者は一人もいない。従ってよくある俗物根性によってややこしくされたものとは違う文芸批評の標本を得ることができるのだ。
優越感に浸ることも、その必要もない。なぜならこの本では読者自身がこの実験を試せるように配慮されているからだ。作者名の付けられていない詩は最後にまとめられていて、その作者の名前は後になるまで目に入らないようにされた折り返しページにある。私が目星をつけられた作者は二人しかいなかったことも同時に言い添えておこう。一人はすでに知っている者で、他のほとんどはここ二、三十年のものだろうと年代を推定できたが、二つへまをし、ひとつの例では一九二〇年代に書かれた詩をシェリー(パーシー・ビッシュ・シェリー(一七九二年八月四日-一八二二年七月八日)。イギリスの詩人。「フランケンシュタイン」で知られる小説家メアリー・シェリーの夫でもある。)のものだと思い込んだ。しかしそれでもリチャーズ博士によって記録されたコメントのいくつかには驚かされた。それによれば自身を詩の愛好家だと説明した多くの人々には優れた詩と劣った詩を見分ける力が、犬が算数をおこなう力ほども無かったのだ。
例えばアルフレッド・ノイズによる全く嘘くさい大言壮語の一作が大絶賛されている。批評した者の一人はそれをキーツに匹敵すると言っているのだ。「ウッドバイン・ウィリー」による「牧師の未完の詩集」からの感傷的なバラッドも実に高い評価を受けている。一方で、ジョン・ダンによる見事なソネットは明らかに冷ややかに受け取られている。リチャーズ博士の記録によれば好意的な批評をしたのは三人だけで、冷ややかで敵対的なものは一ダースほどもあった。批評者の一人は軽蔑したようにこの詩は「賛美歌としてはいいのではないか」と言っているし、別の者は「嫌悪感の他には何の感想も浮かばない」と発言している。当時はダンへの評価は最高潮で、この実験に参加した人々のほとんどが彼の名を見れば平身低頭したことは疑いない。D・H・ローレンスの詩「ピアノ」は大勢に冷笑されていて、ごく少数に褒められている。ジェラード・マンリ・ホプキンスの短い詩も同じだ。批評者の一人は「これまで読んだ中で最もひどい詩」と断言しているし、別の者の批評は「ナンセンス!」の一言だ。
しかしこうした若い学生のまずい判断を責める前に思い出してほしい。かつて、たいして説得力のない十八世紀の偽の日記をどこかの誰かが出版した時に貴族院の司書であるエドマンド・ゴス卿は一瞬でそれに騙されたのだ。パリの芸術批評家でも同じような話がある。どの「派閥」だったかは忘れたが、その批評家はある絵に熱狂した。後になってわかったのだがその絵は尻尾に絵筆をくくりつけられたロバが描いたものだったのだ。
「私たちは味方となる鳥を滅ぼしつつある」という見出しの下でニューズ・クロニクル紙は書いている。「益鳥は人間の無知に苦しめられている。チョウゲンボウやメンフクロウには無分別な迫害が加えられているのだ。私たちのために働いてくれる鳥はこの二種類に留まらない」
残念ながらこれは無知だけによるものではない。猛禽類のほとんどはイングランドの敵、すなわちキジの敵として殺されている。ヤマウズラとは違ってキジはイングランドにそう多くはない。手入れのされていない森林地帯や本来責任を負うべき欠点だらけの狩猟法はそのままに、キジの卵や雛を食べているのではないかと疑われているあらゆる鳥と動物が組織的に一掃されているのだ。戦争前、ハートフォードシャーの近くの私の住む村で私は、猟場番人が守る「食料庫」の周りに伸びるフェンスの近くをよく通ったものだ。金網にはオコジョやイタチ、クマネズミ、ハリネズミ、カケス、フクロウ、チョウゲンボウ、ハイタカの死骸がぶらさがっていた。クマネズミ、そしておそらくはカケスを除けば、こうした生き物は全て農業に有益である。オコジョはウサギを追い払うし、イタチはハツカネズミを食べる。チョウゲンボウとハイタカも同様だし、フクロウもクマネズミを食べる。メンフクロウは一年に千匹から二千匹のクマネズミとハツカネズミを駆除すると見積もられている。しかし、ラドヤード・キップリングが適切にも「諸州の領主」と評したこの何の役にも立たない鳥のために殺されているのだ。
短編小説コンテストの結果発表は延期せざるを得なかったが、来週には優勝作品の発表をおこなうつもりだ。上位入賞者についても続く二週で発表できればと思っている。
その次の週には英語の短編小説についての私の意見を述べるつもりだが、さしあたって言っておきたいのは送られてきた中の五、六百作品ほど、つまり大部分は私の評価では実にひどいものだったということだ。予想以上に多くのコンテスト参加者が語るべき物語を持っていたが、その大部分がその物語の骨格だけしか書かかないままそれを小話にしてしまい、そこには登場人物の利害も無く、たいていはぞんざいなやり方で書かれていた。送られてきた投稿作品の一部はもう少しましな書かれ方をしていたが、面白みも展開も無いものだった――実際のところ物語というよりは草稿である。うんざりするほど多くの作品がユートピアを題材にしたり、天国が舞台だったり、幽霊だの魔法だのそれに類したものを持ち込んでいた。とはいえ、現実の人間についての物語や何か事件が起きる物語を一八〇〇ワードに収まるように書くのが簡単でないことは私も認めるし、現代の雑誌が再びヴィクトリア朝時代の厚さまで膨れ上がるまでは、英語短編小説に改善がもたらされるとも思ってはいない。