気の向くままに, ジョージ・オーウェル

1944年6月2日 プロパガンダ、短編小説の復活、バビロニア人の結婚風習


ロンドンでの暮らしを語る、一九四二年中頃のイタリアのラジオからの抜粋:

昨日は卵一つに五シリング、じゃがいも一キログラムに一スターリング・ポンドかかった。米は闇市からさえ消え失せ、エンドウ豆は富豪の特権へ変わっている。市場に砂糖は無いが、法外な値段を出せばまだわずかばかりは見つかる。

いつの日か、どのプロパガンダが信じられていたかについて大規模で入念な科学的調査がおこなわれるだろう。例えば先のようなファシストのラジオ放送の典型例にはどのような効果があるのか? それを真に受けたイタリア人であれば誰もがイギリスは数週間以内に崩壊するに違いないと考えたことだろう。崩壊が起きなかった時、自分を騙した当局への信頼を彼が失ったと思うのが当然だろう。しかし実際の反応がそうしたものだったかは定かではない。いずれにせよ、実に長い期間にわたって人々は明らかな嘘によって平静を保っていた。これはその日その日で何が言われていたかを単に忘れていたからかもしれないし、こうした繰り返されるプロパガンダの爆撃にさらされてあらゆる物事に麻痺していたからかもしれない。

物事が悪化している時に真実を告げることは明らかに得策であるように思える一方で、プロパガンダに一貫性を持たせることが得策であるかは定かでない。イギリスのプロパガンダは自己矛盾を避けるための努力によってかなりの妨げを受けている。例えばボーア人とインド人の両方が満足するようなやり方で人種問題について議論することはほとんど不可能である。ドイツ人たちはこうした些事に心を悩ませることはない。彼らは全員に対してその人が聞きたがっているであろうと彼らが考えることを告げ――おそらくは正しいだろうが――誰も他人の問題など興味はないと見なしている。時にはそのさまざまなラジオ局が互いに非難し合うことさえある。

中流階級をターゲットにしたものでは、ファシストは、「モスクワから資金援助されている」と言って偽の左派労働者による挑戦に注意するよう聞き手に警告することも時にあった。

もしこうした調査がおこなわれるのであれば、その調査が扱わなければならないもうひとつのことは名前の持つ摩訶不思議な性質である。物事は別の名前で呼べば別のものになるとほとんど全ての人間が感じている。だからこそスペイン内戦が勃発した時、BBCはフランコ支持者に対して「反乱者」という名前を生み出したのだ。これによって彼らが反抗者であるという事実が覆い隠された。反抗という言葉には敬意の響きがあるからだ。アビシニア戦争の間、ハイレ・セラシエハイレ・セラシエ(一八九二年七月二十三日-一九七五年八月二七日)。エチオピア帝国の皇帝。は味方からは「皇帝」、敵方からは「ネグスエチオピア・セム諸語で「王」を意味する称号」と呼ばれた。カトリック教徒は「ローマ・カトリック」と呼ばれることにひどく腹を立てる。トロツキストは自分たちのことを「ボリシェヴィキ・レーニン主義者」と称しているが、敵対者たちはこの名前を拒否している。外国の征服者から解放されたり、民族革命を経験した国々はまず間違いなく国名を変え、一部の国々にはそれぞれ別の意味合いを持つ一連の非常に多くの名前がある。こうしたためにUSSRは(中立的、あるいは短く呼ぶ時には)ロシアやUSSRと呼ばれ、(友好的に呼ぶ時には)ソビエト・ロシア、(極めて友好的に呼ぶ時には)ソビエト連邦と呼ばれる。また私たち自身の国が六つの名前で呼ばれているという事実は興味深い。この中で誰の気分も害さず、傷つけない唯一の名前は、古風で少々馬鹿げた名前である「アルビオン」だけである。


短編小説コンテストの参加作品の中をもがき進みながら、私は、英語の短編小説は全て同じ長さに切り詰められてしまうのだという無力感にまたもや襲われた。過去の偉大な短編小説はどれもおおよそ千五百ワードから二万ワードの長さを持っていた。例えばモーパッサンの小説のほとんどはとても短いが、二つの名作「脂肪の塊」と「テリエ館」は明らかに長いものだった。ポーの小説も非常によく似ている。D・H・ローレンスの「イングランド、我がイングランド」、ジョイスの「死者たち」、コンラッドの「青春」、そしてヘンリー・ジェイムズの小説の多くは、現代イギリスのどの定期刊行物からしてもおそらく長過ぎると見なされるだろう。メリメの「カルメン」のような小説もそうだ。こうしたものは「長短編」小説という分類に属していて、この国ではほとんど絶滅している。それらが存在する余地がないためだ。雑誌には長すぎるし、本として出版するには短すぎるのだ。もちろん複数の短編小説を収めた本を出版することはできるが、普通こうした本は全く売れないのでそうしたことは頻繁にはおこなわれない。

ほとんどあらゆる長さの小説を掲載するだけの余地があった十九世紀の分厚い雑誌を復活させられれば、短編小説の復活の助けとなることはまず間違いないだろう。しかし問題は、現代のイングランドではどんなものであれ知的な内容の月刊誌、季刊誌は割に合わないことだ。おそらくはこれまで私たちが手にした中で最良の文芸誌であろうクライテリオン誌一九二二年創刊のイギリスの文芸雑誌でさえ、廃刊までの十六年間は赤字だった。

なぜか? 人々がそのために七シリングと六ペンスを払おうとは思わないからだ。たんなる雑誌にそんな額を払おうとは思わないのだ。しかし、それではなぜクライテリオン誌よりも薄く、ましてや価値の低い一冊の小説に同じだけの額を払うのだろう? それはその小説に直接、支払っているわけではないからだ。平均的な人間はペンギン・ブックスを別にすれば新しい本は絶対に買わない。しかし貸本屋に二ペンス払うことで気づかない間に実にたくさんの本を買っているのだ。本を借りるのと同じように文芸誌を貸本屋で借りることができれば、こうした雑誌は商業的な仕事になり、執筆者にもっと支払いができるようになるばかりかその厚みも増すことだろう。執筆者と出版社の生活を支えているのは本の売り買いではなく本の貸し借りなのであり、この貸本屋の仕組みを雑誌にまで広げてはいけないもっともな理由は無いように思える。月刊誌を復活させれば――あるいは週刊新聞の厚みを四分の一インチ増やせば――短編小説を復活させられるだろう。そしてついでながら、余裕が無いせいで形ばかりの要約にまで落ちぶれている書評も再び芸術作品に変わることだろう。エディンバラ誌一八〇二年創刊のイギリスの文芸雑誌クォータリー誌一八〇九年創刊のイギリスの文芸雑誌の時代のように。


先週、マトリモニアル・ポスト誌を読んだ後で私はペンギン版の「ヘロドトス」を少しめくってみた。バビロニア人の結婚風習についてのある一節をぼんやりと思い出したからだ。

一年に一度、それぞれの村で結婚の年頃の少女が一ヶ所に集められ、男たちは彼女たちを囲むように円になって立つ。それから布告官がその乙女たちを一人ずつ呼び出して競売にかけるのだ。それは最も美しい少女から始められる。彼女が少なくない金額で売られると、彼女の次に美しい者の競売が始まる……。この風習はさらにこう続く。美しい乙女を全てかたづけると布告官は次に最も醜い者を呼び出して男たちに示し、できるだけ少ない額の結婚持参金で彼女を引き受ける者は誰かいないかと尋ねる。そして最も少ない額を提示した男が彼女を引き受けるのだ。結婚持参金は美しい乙女たちに払われた金銭から提供される。つまり美しい少女が醜い少女に持参金を払うのである。

この風習は実にうまく機能していたようでヘロドトス古代ギリシャの歴史家で、しばしば「歴史の父」とも呼ばれる。正確な生没年は不明だが紀元前四八〇年前後に生まれ、紀元前四二〇年頃に亡くなったとされる。はこれに大きな関心を抱いている。とはいえ、彼はこう付け加えている。他の良い風習と同様にこの風習は紀元前四五〇年頃にはすでに廃れてしまった、と。


©2023 H. Tsubota. クリエイティブ・コモンズ・ライセンス 表示-非営利-継承 4.0 国際