トリビューン紙に掲載されたアーサー・ケストラーの最近の記事を読んで私は、戦争の後、紙が豊富になって金銭を払うに足る他の物が存在するようになった時に、あの書籍詐欺は再び以前のように盛んになるのだろうかと考えさせられた。
他の者と同様に出版社にも生活があるので彼らが自分たちの商品を宣伝することを責めるわけにはいかないが、戦争の前、広告と批評の間の区別があいまいだったことは文筆業の実に恥ずべき特徴だった。「センセーショナル」な広告は一九二〇年代のどこかで始まり、できるだけ多くの紙面を確保して、できるだけ多くの賛辞を費やす競争は激烈なものになっていった。出版社の広告は多くの新聞の重要な収入源へと育っていったのだ。いくつかの有名紙の文芸欄は一握りほどの出版社に実質的に所有されている。こうした出版社はあらゆる重要な仕事に自身の手先を送り込んでいるのだ。こうした卑劣漢は称賛を大量生産している――「名作」「珠玉」「不朽」などなど――まるで大量の自動ピアノである。適切な出版社から出た本はまず間違いなく好意的な書評を得て、さらには勤勉な貸本屋が参考にするであろう「推薦」リストに載り、次の日にはその店に並ぶ。
もしいくつかの異なる出版社から本を出版したことがあれば、広告の圧力がどれほど強力であるかはすぐにわかる。恒常的に巨額を広告に費やしている大手出版社から出た本は五十から七十五ほどの書評を得るだろう。小さな出版社から出た本はわずか二十ほどだ。私の知っている例のひとつに、とある理由で小説を出版しようと思い立った神学系の出版人の例がある。彼は宣伝にかなりの額の金銭を費やした。この本はイングランド全体で四つだけ書評を得たが、そのひとつの長文の書評は自動車の業界紙に掲載されたものだった。その書評はうまいこと機会を捉えて、この小説で描かれている田舎を舞台にした部分は自動車旅行のお供に最適だろうと指摘して見せたのだ。この男は詐欺の一味ではない。彼の広告は文芸紙の定期的な収入源にはなりそうもなかったので、文芸誌はたんに彼は無視したのだ。
評判のいい文芸紙であっても広告を完全に無視することはできない。書評者に次のような定型文が付けられた本が送られてくるのは実によくあることだ。いわく「もし少しでも良さそうであればこの本の書評を書いてください。もしそうでなければ返送してください。たんにけなすだけの書評を印刷することに価値があるとは思いません」
ごく自然なことだが、書評で得る一ギニーかそこらが来週の家賃となる人間はその本を送り返そうとはしない。その本に対する個人的見解がどうであれ、彼は何か褒めるところを見つけるだろうと当てにされているのだ。
アメリカでは雇われ書評家は支払いを受けて批評する本を読んでいるという建前さえ一部放棄されている。一部の出版社かも知れないが、出版社は書評の写しと書評家が何を言うべきか指示する短い要約を付けて送ってくるのだ。私自身のある小説の例だが、以前、出版社が登場人物の一人の名前の綴り間違いをした。すると同じ綴り間違いがさまざまな書評に現れたのだ。批評家と言われる者たちはその本のページをめくることさえしなかった――それにも関わらず彼らのほとんどが天まで持ち上げるような称賛をしたのだ。
この国の政治界隈でよく使われる言い回しに「~の術中にはまる」というものがある。これは気まずい真実を静めるためのある種のまじないか呪文のようなものだ。何か邪悪な敵の「術中にはまっている」とあれこれ言われた時にはただちに黙ることが自分の義務だとわかる。
例えば、イギリス帝国主義について何か不利なことを言えば、それはゲッベルス博士の術中にはまっていることになる。スターリンを批判すれば、タブレット紙やデイリー・テレグラフ紙の術中にはまっていることになる。蒋介石を批判すれば、汪兆銘の術中にはまっていることになる――などなど、無限に続けられる。
客観的に見てこうした非難は真実であることが多い。相争っている党派の一方を一時的にでも手助けせずに、もう一方を非難するのはいつであっても難しい。ガンジーの発言のいくつかは日本人にとっては実に都合が良いものだろう。極端な保守主義者は反ロシアであれば何でも飛びつき、それが右派の情報源でなくトロツキストからのものなのではないかと気にしたりしないことがある。小説家の煙幕の背後で攻撃へと進むアメリカ帝国主義者はイギリス帝国の不名誉な出来事を細大漏らさず常に見張っている。そしてもしあなたがロンドンのスラム街について何か真実を書けば、まず間違いなく一週間後にはナチのラジオでそれが繰り返し放送されるのを耳にするだろう。しかしそれではどうすべきなのだろう? スラム街など無いふりをするのか?
広報宣伝やプロパガンダに少しでも関わったことのある者であれば誰しも、真実を告げれば敵に攻撃材料を与えるという理由で極めて重要な問題について嘘をつくよう促された経験に思い当たるだろう。例えばスペイン内戦の間、政府側での意見の不一致については左派の報道機関で一度も適切な検討がおこなわれなかった。そこには根本的な原則についての問題も関わっていたというのにだ。共産主義者と無政府主義者の間の争いについて議論しても、赤軍は互いに殺し合っていると言う機会をデイリー・メール紙に与えるだけだと諭されるのだ。その結果は左派の理念が全体的に弱くなっただけだった。人々が口をつぐんだことでデイリー・メール紙は恐ろしげな記事をいくつか逃しただろうが、非常に重要な教訓のいくつかが学ばれること無く失われ、私たちは今日に至るまでこの事実に苦しめられているのだ。