気の向くままに, ジョージ・オーウェル

1944年6月30日 ドイツの無人飛行機、ロマン主義的なナショナリスト、英語の二つのサンプル、ジャック・ロンドン


ドイツの無人飛行機ナチス・ドイツが開発したV1飛行爆弾を指す。は「とても不自然に見える」(生身の飛行士が落とす爆弾は一見したところ実に自然だ)という広く言われている訴えはさておき、私が気づいたところでは、一部のジャーナリストはそれを野蛮、非人道的、「民間人への無差別攻撃」であると言って非難しているようだ。

過去二年にわたって私たちがドイツ人たちにおこなってきた事の後ではこれは少々馬鹿げているように思えるが、それが何であれ新しい兵器に対する普通の人間の反応はそうしたものだ。毒ガス、機関銃、潜水艦、火薬、さらには石弓さえ当時は同じように非難された。あらゆる兵器は自分自身がそれを導入するまではアンフェアに思えるものだ。しかし無人飛行機、飛行爆弾、その正式名称が何であるかはさておき、それが並外れて不愉快な代物であることを私は否定しようとは思わない。他のほとんどの投射体と異なって、そいつは考える時間を与えてくるからだ。迫り来る低くうなるような騒音が聞こえた時に最初に起きる反応はどんなものだろう? その騒音が止んでくれるよう望むのは避けられない。その爆弾が無事に頭上を通り過ぎ、エンジンが止まる前に離れた場所へと音が遠ざかってくれるよう欲するだろう。言い換えれば、そいつが別の誰かのところに落ちてくれるよう望んでいるのだ。砲弾や通常の爆弾を避ける時もそれは同じだが――違うのはそうした場合には身を潜める余裕は五秒しかなく、人間の底無しの利己心について思いを巡らせる時間は無いことだ。


より極端でロマン主義的なナショナリストには自分の理想化する国家に属していない傾向があることを全くの偶然のせいにはできない。祖国la patrieや「父祖の地」についての訴えを基盤にする指導者たちが全くの外国人、あるいは大帝国の辺境地の出身であることはときおりある。わかりやすい例はオーストリア人であるヒトラー、コルシカ島人であるナポレオンだが、他にも大勢いる。イギリスの好戦的愛国主義ジンゴイズムの始祖と言われることもある人物であるディズレーリベンジャミン・ディズレーリ初代ビーコンズフィールド伯爵(一八〇四年十二月二十一日-一八八一年四月十九日)。イギリスの政治家、小説家。保守党首として二期にわたってイギリス首相を務めた。はスペイン系ユダヤ人であり、反抗的なイギリス人が自身をブリトン人と名乗るよう仕向けているビーヴァーブルック卿はカナダ人である。イギリス帝国はその大部分がアイルランド人とスコットランド人によって築き上げられていて、現在の最も頑迷なナショナリスト・帝国主義者はしばしばアルスターアイルランド島北東部の地方を指す名称。出身だ。現代におけるロマン主義的な愛国主義の主要な主唱者であるチャーチルでさえ半分はアメリカ人なのだ。だがたんなる活動家だけでなく、ナショナリズムの理論家たちさえもまたしばしば外国人なのだ。例えば後にナチスがその多くの着想を取り込んだ汎ゲルマン主義はその大部分が非ドイツ人の産物である。例を挙げればイギリス人であるヒューストン・チェンバレン、フランス人であるゴビノーアルテュール・ド・ゴビノー(一八一六年七月十四日-一八八二年十月十三日)。フランスの作家、外交官。だ。ラドヤード・キップリングはイギリス人だったが、その出自はかなりあやしい。彼はアングロ・インディアンという珍しい生い立ちで(彼の父親はボンベイ美術館の学芸員だ)、幼少期の初め頃をインドで過ごし、身長が低くとても黒い肌の色をしていたためにアジアの血が流れているのではないかという不当な疑いを彼に招いた。私は常々思うのだが、もしこの国にヒトラーが現れるとしたらそれはアルスター出身者か、南アフリカ人、マルタ島人、ユーラシア人、あるいはアメリカ人かもしれないが――いずれにせよ、イングランド人ではないだろう。


英語の二つのサンプル

一.エリザベス朝の英語

While the pages are at their banqueting, I keep their mules, and to someone I cut the stirrup-leather of the mounting side, till it hangs by a thin strap or thread, that when the great puff-guts of the counsellor or some other hath taken his swing to get up, he may fall flat on his side like a porker, and so furnish the spectators with more than a hundred francs’ worth of laughter. But I laugh yet further, to think how at his homecoming the master-page is to be swinged like green rye, which makes me not to repent what I have bestowed in feasting them.

(見習い騎士連中が宴会をしている間、私はやつらのラバを預かって、誰かさんの乗り込み側のあぶみ革を切って細い紐や糸で吊るしておくんです。すると大きく膨れた腹の顧問官やらが勢いをつけて乗ろうとする時に豚のように床に横倒しになるって寸法で、見ている者たちに百フラン以上の価値の爆笑を誘うってわけです。しかしさらに愉快なのは、戻ってきた時に見習い騎士の隊長が緑のライ麦のようにふらふらと揺れている様子なんです。それを思うとやつらへのもてなしに費やしたものも惜しくはないですよ)

(トマス・アーカートによるラブレーの翻訳)

二.現代アメリカ英語

The phase of detachment may be isolated from its political context and in the division of labour become an end in itself. Those who restrict themselves to work only such segments of intellectual endeavour may attempt to generalise them, making them the basis for political and personal orientation. Then the key problem is held to arise from the fact that social science lags behind physical science and technology, and political and social problems are a result of this deficiency and lag. Such a position is inadequate.

(孤立段階はその政治的文脈から単離され、分業制の中でそれ自体がひとつの目的へ変わるだろう。このような知的努力の区画でだけ働くよう自らを制限する者たちはそれらを一般化して政治的・私的な指向の基礎とするかもしれない。そして重要な問題は、社会科学が物理科学や技術に遅れをとっているという事実から生じるのであり、政治的・社会的問題はこの不備と遅れの結果であるとされるのだ。こうした立場は全く不当である)

(アメリカの高尚な雑誌)


一九四〇年のロンドン大空襲では他に代えの効かない千の作品を含む六百万冊の本が焼失したと言われている。そのほとんどは完全に失われたわけではないだろうが、どれほど多くの定番作品が現在では完全に絶版になっているかを知ると驚かされる。書店のショーウィンドウを覗けばわかるように紙類はすさまじいたわ言のために使われ、一方でエブリマンズ・ライブラリーといった復刻版文庫ではどこもその目録に大きな空白が生じている。ウェブスター辞典という実に有名な書籍さえ今や古本として出くわさなければ入手できないのだ。一年ほど前、ジャック・ロンドンについて放送しなければならない機会があった。取材を始めてみると私が一番欲しかった彼の作品の一群がロンドン図書館でさえ借りられないほど完璧に消え去っていることに私は気づいた。それらを入手するために私は最近ではなかなか利用が難しくなっている大英博物館図書室まで出かけなければならなかったのだ。これは私には大きな厄災に思われる。ジャック・ロンドンは誰かが労をとってその作品を再評価しなければ完全に忘れ去られてしまうかもしれない境界線上の作家だからだ。「鉄の踵」さえここ数年は目に見えて手に入れにくくなっていて、それが復刊されたのもただヒトラーが権力の座についたことで話題になったからに過ぎない……。

彼はだいたいにおいては「鉄の踵」で記憶されているが――全く異なる区分の――「白い牙」や「野性の呼び声」でも記憶されていて、そこで彼は動物に対する典型的なアングロ・サクソン的感傷を悪用している。しかしまた、ロンドンのスラム街を題材にした「どん底の人びと」やアメリカの渡り鳥労働者ホーボーを見事に描き出した「路上」、刑務所の場面が秀逸な「上着」といった作品もある。そして何よりもその短編小説である。調子の良い時――だいたいにおいてはアメリカの都市生活を扱っている時――のジャック・ロンドンは英語圏の人々がこれまで見た中で最高の短編小説家のひとりとなる。大きな荷物を持って逃げる二人の泥棒が同時に互いをストリキニーネで毒殺しようとする「大当たり」という物語が実に鮮明に私の記憶に残っている。死の床にあったレーニンが最後に読んだという「人生への愛」もまたすばらしい物語だし、ぼろぼろになった賞金稼ぎのボクサーの最後の戦いを描いた「一切れのステーキ」も良い。こうしたものやそれに類した物語はロンドンがその本質に持つ強い残忍性に恩恵を受けている。またそれこそが彼にファシズムの主観的理解という社会主義者が通常は持ち合わせていないものを与え、「鉄の踵」をある意味で本当の予言書にしているのである。


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