たくさんの投書を受け取った。いくつかは実に乱暴なもので、ヴェラ・ブリテン嬢の反爆撃パンフレットについての私の発言を非難している。さらなるコメントの必要がありそうな点が二つある。
まず初めは、実に広く言われるようになっているある非難、つまりイギリスこそが市民に対する組織的爆撃を実行した最初の国であるという非難についてだ。いったい誰がこれを言い出したのか、過去数十年の歴史を振り返っても私には見当もつかない。現在の戦争で最初におこなわれたのは――私の記憶が正しければ宣戦布告の数時間前だったはずだが――ドイツによるワルシャワへの爆撃だった。ドイツ人たちはこの都市に激しい爆撃と砲撃をおこない、ポーランド人たちによれば同時に七百ヶ所で火の手が上がったという。彼らはワルシャワの破壊をフィルムに収めて「炎の洗礼」とタイトルを付け、中立国を脅すために世界中に送りつけた。
この出来事の数年前にはヒトラーによってスペインに送り込まれたコンドル軍団が次々にスペインの都市を爆撃した。一九三八年にはバルセロナでの「静かなる急襲」が数日のうちに数千の人々を殺害した。それ以前にはイタリア人たちが全く無防備なアビシニア人たちを爆撃し、その戦果を何かとてつもなく愉快なものであるかのように誇っていた。ブルーノ・ムッソリーニは新聞記事を書いているが、その中でアビシニア人たちへの爆撃を「バラのようにいきおいよく花開いた」と表現し、「とても愉快」と語っている。また日本人たちは一九三一年から後、とりわけ一九三七年以来、人口が密集した中国の都市を爆撃している。対空砲や戦闘機はもちろん、空襲警報の用意さえない場所である。
私は、黒に黒を足せば白になるだとか、イギリスの記録がとりわけ優れているだとか主張しているわけではない。一九二〇年頃から後の無数の「小規模な戦争」でイギリス空軍は、やり返す力をほとんど、あるいは全く持たないアフガニスタン人やインド人、アラブ人に爆弾を落としてきた。しかしパニックを引き起こす目的での、人口が密集した都市部への大規模爆撃がイギリスの発明であるというのは端的に言って真実ではない。こうした行ないを始めたのはファシスト国家であり、空戦が有利に働く場合には彼らは自分たちの目標を実にはっきりと公言したのである。
取り上げなければならないもうひとつのことは、オウムの鳴き声のように繰り返される「女性や子供たちの殺害」という叫びについてだ。以前にも指摘したがここで繰り返しておく必要があるだろう。さまざまな人々が殺されることは若い男性だけが殺されることよりもおそらくはいくらかましである。もしドイツ人たちが公表している数字が正しく、本当に私たちが空爆によって百二十万の一般市民を殺害しているとしても、この失われた命はロシア戦線やアフリカ、イタリアでそれにともなって失われたものと比べればドイツ民族にとってはおそらくはいくらか害が少ないはずだ。
戦時にはどんな国でも最善の努力を尽くして自国の子供たちを守ろうとする。そして空襲で殺された子供の数は全人口に占める子供のパーセンテージとおそらく一致しないだろう。女性が同じくらい守られているとは言えないが、女性の殺害に対する非難の叫びは、もし全体に対する殺害を受け入れているのだとすれば全く感傷的なものだ。なぜ男性よりも女性を殺すことの方が悪いと言えるのだろう? この議論は普通、女性を殺すことは子供を生み育てる者を殺すことだが一方で男性はずっと簡単に代わりが見つかる、という風に進む。しかしこれは、人類は動物と同じように繁殖交配させられるという考えに基づいた誤りである。その背後にあるのは、ちょうど金賞を取った雄羊が数千匹もの雌羊を受精させるのと同じように、一人の男性は非常に多くの女性を受精させられるのだから、男性の命の損失は相対的には重要性が低いという考え方だ。しかしながら人類は家畜ではない。戦争によって起きた大虐殺で女性が余るほど生き残れば、そうした女性の大部分は子供を持つことを差し控える。生物学的な観点から見て、男性の命は女性と同じくらい重要なのだ。
先の戦争でイギリス帝国は百万近い男性を戦死によって失い、そのうち約四分の三はこの諸島の出身者である。そのほとんどは三十歳以下だったはずだ。もしこの若い男性全員がそれぞれ子供をたった一人でももうけていたら、今頃は二十歳前後の七十五万の人々が余計にいたはずなのだ。さらに被害の大きかったフランスでは先の戦争での大虐殺は完全には回復していないし、イギリスが完全に回復しているかも疑わしい。現在の戦争での犠牲者はまだ見積もれないが、先の戦争では一千万から二千万の若い男性が殺されている。もし次の戦争があれば、それは老いも若きも、健康な者もそうでない者も、男性も女性も公平に殺す飛行爆弾やロケット、その他の長距離射程兵器によるものになり、過去の戦争よりもヨーロッパ文明に与える損害は小さくなるだろう。
私への投書者たちの考えに反して、それが味方のものであれ敵方のものであれ、私は空襲に熱狂などしていない。この国の他の大勢の人々と同じように爆撃には全くうんざりしている。しかし、道具としての軍を受け入れながらその一方であれやこれやの個別の兵器に対して金切り声をあげたり、戦争を非難したりする一方で戦争を避けがたいものにするような社会を維持しようと望む偽善にははっきりと異議を唱える。
一九四〇年の日記に私は、商業広告は一年以内に壁から消えるだろうと記している。当時はまず間違いなくそうなると思われたのだが、一年後、あるいは二年後になってこの消失は実際に起こり始めたようだ。とはいえ私が予測していたよりはずっとゆっくりとしている。広告は数の面でも大きさの面でも縮小を続け、さまざまな省庁の発表が壁でも新聞でもますます広告に取って代わっている。こうした兆候だけから判断すれば、商業主義は間違いなく下り坂にあると言えるだろう。
しかしながら過去二年の間に商業広告はその馬鹿馬鹿しさと俗物根性をそのままに、次第に戻って来つつある。ここ最近では、私が思うにイギリスの広告で最も不快なのは「地主階級の若者」のモチーフとP・G・ウッドハウス風の会話文が付いたローズ社のライム・ジュースのものである。
「今朝の私はベストな状態ではないな、ジェンキンス。昨夜は浮かれ騒ぎすぎた。君の若き主人は赤いワインにも黄色いウィスキーにも付き合った。俗に言う、頭が鈍っている状態だよ。医者だったらどんな処方をすると思うかね、ジェンキンス?」
「差し出がましい言い方をすれば、旦那様、ローズ社のライム・ジュースをいくらか入れたソーダ水の一杯でよろしくなるかと思いますね」
「それだ、ジェンキンス! 君はいつだって私の案内人で哲学者で友人だ」などなど
例えばそこら中の映画館にこの広告が現れたとしよう。映画館の常連は、自分が忠実な年寄りの召使いを連れた上流社会の若者であるような密かな空想の生活を多かれ少なかれ思い描き、何か劇的な社会変化という展望は頭の隅に追いやられてしまうと思っていいだろう。
また、こぎれいで艶やかな髪のおかげでダフネ(ダフネ・ピアソン(一九一一年五月二十五日-二〇〇〇年七月二十五日)。非戦闘部門では最高位とされるジョージ十字勲章を授与された。当時、この勲章を授与された女性は十三人しかいない。)が女性補助空軍内でどのように昇進したかを教えるヘアトニックの広告もある。しかしこれは猥雑であると同時に誤解を与えかねないものである。なぜなら女性補助空軍にしろ、補助地方義勇軍や王立婦人海軍にしろ、私は将校の一団とすれ違った時に「いずれにせよ、女性部隊での昇進に容姿は関係しない」と思わなかったことはほとんど、あるいは全く無いからだ。