気の向くままに, ジョージ・オーウェル

1944年7月21日 サミュエル・バトラー、不変的な人間の特性、頭の体操をひとつ


サミュエル・バトラーの「雑記録」の一冊を見つけた。第一集の完全版で一九二一年にジョナサン・ケープ社によって出版されたものだ。二十年の歳月と数度のビルマの雨季という厳しい条件を経て、ともかくもそれは存在し、喜ぶべきことである。今では入手が難しくなっている著名な書籍の一冊なのだ。ケープの版は後にトラベラーズ文庫で要約版が出されているが、これは不満の残る要約で、一九三四年に出版された第二集には価値のあるものはあまり収録されていない。この第一集で読むことができるのは、ダーダネルス海峡でおこなわれたトルコの役人とバトラーの対談や、産みたての卵を買う方法についての説明、船酔いした司祭の写真を撮ろうという努力といった旅路でのささやかな話だが、それらは彼の主要な作品よりもずっと価値のあるものだ。

バトラーの主な思想は現在ではさして重要なものでもなく、また誤って力説されるようなものでもないように思える。生物学者はともかく、いったい誰が今さらダーウィンの進化論とバトラーの支持するラマルクの進化論のどちらが正しいかを気にするだろうか? かつてと比較すれば進化に関する問題全体の重要性は低下しているが、それはヴィクトリア朝時代の人間と異なって、私たちは、獣の子孫であることが人間の尊厳を汚すとは感じなくなっているためだ。一方でバトラーは、現在の私たちにとっては致命的に重要に思える物事について軽々しいジョークをよく言っている。例えば次のようなものだ。

人種上の主要分類と亜分類は今や黒人やチェルケス人、マレー人、アメリカ先住民族の中ではなく、金持ちと貧乏人の中に探し求められている。この人間の二種の間にある肉体的構造の違いはいわゆる人間種族の間にあるものよりもはるかに大きい。金持ちはいつだろうとその気になればニュージーランドからイングランドへ行くことができる。もう一方の者の足は目に見えない運命によってある狭い限界を超えて彼を運ぶことができないのである。金持ちも貧乏人もいまだこの物事の道理を理解できていないし、P&Oイギリスの船舶会社。ペニンシュラ・アンド・オリエンタル・スチーム・ナビゲーション・カンパニー。の船の一部を自身の性質に追加できる人はそうできない人よりもはるかに高度に組織化された存在であると認められないでいる。

バトラーの作品には同じような文章が無数にある。それらをマルクス主義的に解釈するのは容易だろうが、重要なのはバトラー自身はそうしていないことだ。キリスト教信仰や家制度に巧妙な攻撃を仕掛けているにも関わらず、結局のところ、彼の物の見方は保守主義者のそれなのだ。貧困は汚らわしいことで、それゆえ、貧しさに関心を払うべきではない――これこそが彼の態度である。このために「万人の道」の結末は不自然で不十分なものとなり、それまでの部分の写実主義と強いコントラストをなしている。

バトラーの作品は実に古びているが、メレディスやカーライルといった、より真剣な同時代人の作品よりもずっとましで、それは一部には彼が自分の目を使うことや些末なことを喜ぶ力を決して失わなかったためであり、また一部には狭義における技術的な意味で彼が実にうまく著作をしているためだ。バトラーの散文をメレディスのねじれやスティーブンソンの気取りと比較すれば、賢しげにせずにシンプルにすることによってどれほど大きな長所を得られるかに気がつくだろう。この問題に関するバトラーの考えは引用するだけの価値がある。

自分の文体に対してわずかでも関心を払う者で、読みやすい文章を書く作家を私は一人も知らない。プラトンはひとつの文で七十回も言いよどんでいると言えば、なぜ私が彼を嫌っているのかを説明するのには十分だろう。人は明確で簡潔で耳ざわりよく書くことに多大な労力を払うものだし、またそうすべきだ。ひとつの文を三度も四度も書き直すこともあるだろう――余計なことを書くのは全く書き直しをしないよりずっと悪い。大きな労力を払って自分が同じことを何度も繰り返していないことを確認し、できるだけ読者が理解できるように主題の配置を決め、余分な言葉を切り詰め、さらには関係の無い話は控える。そして、どの場合においても、自分自身の文体ではなく読者の読みやすさについて考えるのだ……私は自分の文体に関心を払ったことは無いし、それについて考えたことも無く、文体があるのか無いのかも知らないし、また知りたいとも思わないことは記しておきたい。ただ普通に、シンプルで率直であろうとしているだけだ。自分と読者に損害を与えることなく自身の文体について熟考できる人間がいるとは私には信じられないのだ。

とはいえ実に彼らしいが、バトラーは、自分は手書きの文字がうまくなるようにかなりの努力をしていることを付け足している。


社会主義者が直面する覚悟をしなければならないのが、キリスト教護教論者とジェームズ・バーナムといった新悲観主義者の両方から絶えず持ち出されている、いわゆる「人間本性」の不変性についての議論だ。人間が完璧になり得ると考えているからと言って――私はこれには根拠が無いと思うが――社会主義者は非難され、さらには人間の歴史が実のところ強欲と略奪と圧制の長い物語であることを指摘されている。人間は絶えず隣人を出し抜こうとし、常に自身と家族のためにできるだけ多くの財産を独占しようとすると言われている。人間の本性は罪深いものであり、議会での法律制定によって高潔なものにすることなどできない。従って経済的搾取をある範囲に制御できたとしても、階級無き社会は永遠に実現不可能なのだ。

私が思うに、この議論は石器時代のものだというのがこれに対する適切な回答だ。この議論は有形財が常に絶望的なまでに欠乏していることを前提としている。人類の権力欲は確かに深刻な問題であるが、この富への欲求が不変的な人間の特性であると考える理由は無い。経済的問題において私たちが利己的なのは私たち全員が恐るべき貧困状態の中で生きているためだ。しかし生活必需品の欠乏が解消すれば、誰も公平な取り分を超えてそれを強奪しようとはしない。例えば空気を買い占めようという者などいないではないか。物乞いも大富豪も自分が呼吸できるだけの空気で満足している。あるいは水もそうだ。この国では私たちが水不足で困ることはない。それどころか多すぎるほどだ。とりわけ祝日にはそうだ。その結果として水が私たちの意識に上ることはめったにない。しかし北アフリカのような乾燥した国々では水不足によってどれほどの妬み、どれほどの憎しみ、どれほどのひどい犯罪が起きていることか! 他のあらゆる種類の財産についても同じことが言える。それらを十分に作り出せば――容易にそうなるだろうが――仮定されているような人類の貪欲の本能が数世代以内には消え去らないと考える理由は無いのだ。そして全くのところ、人間本性が決して変わらないのだとしたら、なぜ私たちはもはや食人の風習をおこなわず、さらにはそれをおこないたいとも思わなくなっているのだろうか?


頭の体操をひとつ。

ある実業家は七時三十分にロンドンを出発する郊外行き列車でいつも帰宅している。ある晩、仕事を始めたばかりの夜間警備員が彼を呼び止めて言った。「失礼ですが、今夜はいつもの電車に乗らないよう忠告します。昨晩、その電車が事故を起こして乗客の半分が亡くなる夢を見たんです。なんて迷信深いとお思いでしょうが、どうしても警告と思わずにはいられないんです」

これが印象に残ってこの実業家は少し待って後の電車に乗った。翌朝、新聞を開くと案の定、あの電車が大破して大勢の人間が亡くなったことを彼は知った。その日の晩、彼は夜間警備員のところへ行ってこう言った。「昨日の忠告に感謝したい。君は私の命を救ってくれた。お礼に三十ポンドを進呈したい。加えて、君は解雇されることもお知らせしておこう。今日から一週間の解雇予告期間を与える」

これは恩知らずな行動だが、この実業家には確かにその権利がある。なぜか?


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