気の向くままに, ジョージ・オーウェル

1944年7月28日 貧しい人々の道徳的優越、古代の奴隷、一等客車と三等客車、問題となるのは文学的価値だけ


何年か前、少年週刊誌についての記事の中で私は女性誌――しばしば「恋愛本」と呼ばれるペグズ・ペーパー誌一九一九年から一九四〇年にかけて出版されていた労働階級の女性向け雑誌。ロマンス小説が多く掲載されていた。のような安雑誌――について何気なくいくつかの発言をした。そのことで私はいつにも増して多くの投書を受け取った。ラッキー・スター誌、ゴールデン・スター誌、ペグズ・ペーパー誌、シークレット誌、オラクル誌、その他多くの類似雑誌で働いたり寄稿したりしている女性からの長い投書である。その主な論点は、こうした雑誌の目的は裕福の幻想を作り出すことだという私の発言は間違っているというものだった。そこに掲載されている小説は「決してシンデレラ・ストーリーではなく」、「上役との結婚」というモチーフを利用などしていないと言うのだ。投書者はこう付け加えている。

失業についても触れられています――それも実に頻繁に……確かに失業手当や労働組合については触れられません。後者に関しては、こうした女性誌を出している大規模な出版社には労働組合が無いという事実が影響しているのでしょう。体制を批判したり、現実の状況を明らかにするために階級闘争を描くことが絶対に許されないことや、社会主義者の言葉には決して触れられないこと――こうしたことは全て確かに真実です。しかし階級意識が全く欠如しているわけではないことは興味深い事実として付け加えられます。金持ちはしばしばケチで、冷酷で、詐欺師まがいの金儲けの上手い人物として描かれます。金持ちや無職の恋人はほとんど必ずと言っていいほど結婚指輪無しでの結婚を企み、少女は力強く仕事熱心な油に汚れた手によって救い出されるのです。自動車に乗った男たちは全体的には「悪漢」で、仕立ての良い高価なスーツを着た男たちはほとんど常に詐欺師です。こうした小説のほとんどでの理想は、銀行支店長の妻になって豊かな収入を得ることではなく、「良い」暮らしなのです。貧しかろうが正直で優しい夫と赤ん坊、そして「慎ましやかな家」での暮らしです。こうした小説は、少なくとも正直で幸福なら慎ましい暮らしは実はそれほど悪くないこと、そして金持ちは面倒事と間違った友人をもたらすことを描こうとしているのです。貧しい人々には、手の届く範囲にある望ましい道徳的価値が与えられているのです。

ここで私は色々とコメントできるが、貧しい人々の道徳的優越が労働組合や社会主義に言及しないことと結びつけられている問題について取り上げたいと思う。これが意図的な方針であることは疑いようがない。女性誌のひとつで私はまさに炭鉱でのストライキを扱った小説を読んだことがあるが、その中でさえ、労働組合主義との関係については言及されていなかった。ソビエト連邦が今回の戦争に参戦した時、こうした雑誌のひとつは「彼女のソビエトの恋人」というタイトルの連載を早々に売り出したが、その中でマルクス主義が大々的に登場しはしなかったことは了解いただけるだろう。

実のところ、貧しい人々の道徳的優越についてのこうした話は支配階級が考え出した現実逃避の最も致命的な形態のひとつなのだ。虐げられ、騙されていようとも、神の視点から見ればあなたは迫害者よりも優れていて、現実生活ではあなたを打ち負かしている人々へ常に勝利し続けるという空想生活を映画や雑誌では楽しめる。大勢の人々の心に訴えかけようと試みれば、どんな芸術形態であっても、金持ちが貧乏人を負かすといった内容のものはまずあり得ない。金持ちは普通は「悪」であり、その陰謀は必ずや打ち砕かれるのだ。「善良な貧しい者が悪辣な金持ちを打ち負かす」というものこそ多くの人々が認める定型で、たとえ私たちがそこに何か大きな誤りがあると感じたところでそれは変わらない。映画でも安雑誌と同様にこれは目にでき、とりわけ古いサイレント映画では最もわかりやすく目にできる。こうしたサイレント映画は土地から土地へ旅して実に多様な観客を魅了した。映画を見るであろう大多数の人々は貧しく、従って貧しい者をヒーローにするのは賢明なことだった。映画界の大物や出版界の権力者といった者たちは、富は邪悪だと指摘することで自身の大量の富を蓄えたのである。

「善良な貧しい者が悪辣な金持ちを打ち負かす」という定型は全くのところ「想像は楽しく実現は難しいパイ・イン・ザ・スカイ」の巧妙な言い換えである。階級闘争の昇華なのだ。自分のことを金持ち詐欺師を殴りつける「力強く仕事熱心な油に汚れた手」であると夢見ている間は現実的事実は忘れられてしまう。これは金持ちになる空想にも増して巧妙なやり方である。しかし実に興味深いことだが、こうした女性誌にも現実はまさに入り込んでいる。掲載されている小説ではなく、読者投稿欄、とりわけ無料健康相談をする雑誌のそれを介してである。そこでは、「苦しむ者」「九人の子の母」「常に便秘」といったペンネームを名乗る中年女性によって書かれた、悲惨な「痛む足」や痔疾の話を読むことができる。こうした投書をそのすぐ隣に並べられた恋愛小説と見比べると、現代生活において取るに足らない白昼夢がどれほど大きな役割を演じているかを理解できる。


ちょうどアーサー・ケストラーの小説「剣闘士たち」を読んでいるところだ。これは紀元前七十年頃にスパルタクスの下で起きた奴隷反乱を描いている。彼の最高傑作のひとつとは言えないが、いずれにせよ、古代の奴隷反乱を描いたあらゆる小説はカルタゴの傭兵たちの反乱を描いたフローベールの傑作小説「サランボー」に比肩しなければならないという困難に直面する。しかし、この小説が私の頭に想起させるのはわずかでも名の知られた奴隷の数がどれほど少ないかということだ。私自身、知っているのは三人の奴隷の名に過ぎない――スパルタクスその人、奴隷だったと伝えられる比類なきアイソーポス、ローマの富豪が召使いとともに好んで連れた教育のある奴隷の一人である哲学者エピクテトスだ。他の者は全員、名前さえ出てこない。例えば私たちは――少なくとも私は――ピラミッドを建てた無数の人間の名をひとつとして知らない。スパルタクスはこれまでで最も広く知られている奴隷だろう。五千年かそれ以上の間、文明は奴隷制の上に安住していた。しかし奴隷の名が残る時でさえそれは「悪しき者に手向かうなマタイによる福音書五章三十九節」という命令に従わずに、暴力的反乱を起こしたためなのだ。ここに平和主義者たちが学ぶべき道徳があるように私は思う。


ぞっとするような列車の混雑(十人が定員の客車に十六人がいることも最近ではごく当たり前になっている)にも関わらず、一等客車と三等客車の区分けが確かに戻って来つつあることに私は気づいた。今回の戦争の始め頃には一時期そうしたものはほとんど消え去っていた。三等客車が人でいっぱいで乗れない場合には当然のように一等客車に乗ったし、それで何も尋ねられなかったのだ。今では運賃の差額を支払わずに済ますことはできない――少なくとも座席に座る場合には――列車で他に乗る場所が全く見つけられない場合でもそうなのだ(ずっと立っているなら三等客車の乗車券で一等客車に乗ることはできるように思う)。数年前なら鉄道会社はこうした区分けをあえて強制しようともしなかっただろう。こうした小さな兆し(別の例を挙げれば防虫剤臭い夜会服が姿を見せ始めていることだ)から上流階級の連中がどれだけ自信を取り戻したか、どれだけ横柄な態度をとっても安全と感じているかを推し量ることができる。


私たちは先週「オバデヤ・ホーンブルックのささやかな黙示録」と題された反戦詩についての非常に攻撃的な投書の一部を掲載した。そこには「あなた方がこれを掲載したことに驚いている」という論評が添えられていた。他の投書や個人的に受けた論評も同様のものだった。私は、読者諸氏と同様、「オバデヤ・ホーンブルック」に賛同はしないが、それは彼が書いたものを掲載しない理由としては不十分なものである。あらゆる新聞には編集方針があり、政治欄では多かれ少なかれその他を排除することでその編集方針が表明されるものだ。そうでなければおかしいだろう。しかし紙面の最後の文芸欄では話は別だ。もちろん、そこであっても、その新聞が支持するものへの直接的攻撃に紙面を割こうとする新聞はないだろう。例えば私たちは反ユダヤ主義を称賛する記事を印刷しようとは思わない。しかし必要最小限の合意があれば、問題となるのは文学的価値だけである。

それにまた、現在の戦争は何はともあれ思想の自由を支持する戦争なのである。私たちが敵対者よりも道徳的に優っているだとか、イギリス帝国主義がナチズムよりもひどいと言うのは言葉が過ぎると主張したいわけでは決してない。しかしそこには簡単に片付けられない違いが存在する。イギリスでは比較的自由に好きなことを言ったり出版したりできるのだ。イギリス帝国における最もひどい土地、つまりインドにおいてさえ、全体主義国よりもずっと大きな表現の自由がある。私はそれが真実であり続けて欲しいし、評判の悪い意見にときおりは耳を傾けることでそうなる手助けができると考えているのだ。


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