気の向くままに, ジョージ・オーウェル

1944年8月4日 戦時の精神構造、柵は不必要、ロンドンの子供たち、モスリンのベール


飽和爆撃に関して、私とは全く意見を異にするある投書者は自分が決して平和主義者でないことを付け加えた。彼が言うところでは「フン族Hunを打ち負かさなければならない」ことを自分は理解しているそうだ。ただ私たちが現在使っている野蛮な方法に反対しているだけだと言う。

さて、私には人々の上に爆弾を落とすことの方が彼らを「フン族」と呼ぶことよりもずっと害が少ないように思える。避けられることなら人が死や負傷を強いろうとはしないことは明らかだが、ただ殺すかどうかだけが問題なのだとは私には感じられない。百年以内に私たちは全員死ぬだろうし、私たちのほとんどは「自然死」として知られるあの浅ましい恐怖によってそうなるのだ。真に邪悪な物とは平和な生活が不可能になるような振る舞いなのである。戦争は文明の構造に損害を与えるが、それは戦争が引き起こす破壊によってでもなく(戦争の正味の影響は全体で見れば世界の生産能力を増加させさえしているかもしれない)、人間に対する殺戮によってでもなく、憎悪と不誠実を促進することによってなのだ。敵を銃撃したところで最も深い意味においては相手に不当を働いていることにはならない。しかし相手を憎み、相手についての嘘をでっちあげてそれを信じるよう子供たちを育て、将来の戦争を不可避にするような不当な和平案を強く要求すれば、ひとつの世代を腐敗させるだけでなく、人間性そのものに打撃を与えることになる。

戦争ヒステリーの影響が最も少ない人間は戦闘中の兵士であるという観察結果からもこれはわかる。あらゆる人間の中で、敵を憎み、偽りのプロパガンダを鵜呑みにし、報復的な和平案を要求する傾向が最も少ないのが彼らなのだ。兵士のほとんど全員――これは平時の職業軍人にも当てはまる――が戦争に対しては分別ある態度を取る。それが吐き気を催すものであり、同時に、しばしば必要となるものであろうことを彼らは理解しているのだ。これは文民には難しいことだ。なぜならこうした兵士の客観的態度は、少なくともその一部は完全な疲労、危険による緊張、自身の属する軍事機構との不断の摩擦によるものだからだ。安全で栄養豊富な文民はもっとずっと感情に富んでいて、それを誰か他の者――愛国者であれば敵、平和主義者であれば味方――を憎むことに使う。しかしこの戦時の精神構造はそれに対抗して克服することが可能なものだ。ちょうど銃弾の恐怖が克服可能であるのと同じことだ。問題はピース・プレッジ・ユニオン一九三四年に設立されたイギリスの平和主義組織にしてもネヴァー・アゲイン・ソサエティーにしても、この戦時の精神構造を見た時にそれとは理解できないことだ。一方で、今回の戦争で「フン族」と言った蔑称が多くの人々の人気を博していないことは良い兆しであるように私には思われる。

私が常々思う、先の戦争で最も衝撃的な行為のひとつは誰かを殺そうと狙っての物ではなく――反対に、大勢の命を救ったであろう物である。カポレットで大攻勢をかける前、ドイツ人たちは偽の社会主義プロパガンダのビラをイタリア軍へばらまいた。そこには、ドイツ兵は彼らの将校を撃つのであってイタリアの同志とは仲良くするつもりであるなどと書かれていた。多くのイタリア人は騙され、ドイツ人と仲良くするためにやって来て、捕虜となった――そしておそらくはその単純さをあざ笑われたのだろうと思う。これは高度に知的で人間的な戦争方法であるという擁護を私は聞いたことがある――もしできるだけ多くの味方を救うことが唯一の目的であるならそうだろう。しかしそれでも、こうした策略はたんなる暴力行為によっては決してなし得ないやり方で人間的連帯の深い根底に傷を負わせるものなのだ。


私が見るところでは、ロンドンの街区には次々に柵――それが木製であることは確かだがそれでも柵は柵だ――が戻ってきつつある。そのためにその街区の法で認められた居住者は自分たちの大事な要所を再び利用できるようになり、貧民の子供たちを閉め出すことができるようになっている。

公園や街区を囲んでいた柵が取り除かれた時、その目的のひとつはくず鉄を集めることだったが、同時にまたこうした撤去は民主的な意思表示であるようにも感じられたものだ。ずっと多くの緑地が今では公共に開かれ、閉園時間に厳しい顔をした公園番につきまとわれる代わりに、いつまでも公園に留まることができるようになった。また、こうした柵は不必要であるだけでなく、ひどく醜いことにも気づかされた。開放されたことで公園への印象は改善され、心地よさを手に入れ、以前には決して無いほどにほとんど田園的なものとなったのである。そしてもしこうした柵が永久に消え失せれば、さらなる改善が起きるだろう。イングランドには馴染まない、いつもくすんだようになっている――少なくともロンドンではそうだ――月桂樹やイボタノキの陰鬱な植え込みは掘り起こされ、花壇に置き換えられるだろう。柵と同様、そうした植え込みはただ人々を閉め出すためだけにそこに植えられているのだ。しかしお偉方は、他の多くの改革同様、なんとかこの改革を妨げようとしていて、労働力と木材の浪費にも関わらず、あらゆる場所にこの木製の柵が現れている。

私がホーム・ガードにいた頃、私たちはよく、鞭打ち刑が導入されればそれは悪い兆候だと言っていた。私が信じるところではそれはまだ起きていないが、あらゆるささいな社会兆候は同じ方向を指している。中でも最悪の兆候は――もし総選挙で保守党が勝てばほとんどすぐさま起きるだろうと私は予測しているのだが――ロンドンの通りに、葬儀屋や銀行の使い走りでもないのにシルクハットを被った者が再び現れることだろう。


私たちは長い間、マリー・パネートによる「ブランチ・ストリート」と言う非凡な書籍の書評をおこないたいと望んでいた――同時に私はこの書籍に関心を集める機会を得てもいた。著者は児童クラブの補助員であり(または過去、補助員だった)、彼女の本はロンドンの一部の子供たちがいまだそこで育つ、ほとんど野蛮とも言える状況について明らかにしている。とはいえ、こうした状況が戦争の結果としていくらかでも悪化しているのかどうかははっきりしない。私は――どこかには存在するだろうが私の知らない――戦争が子供たちに与えた影響についての当局の説明を読んでみたいと思っている。何十万もの都市部の子供たちが地方へ疎開させられて、多くは通学を数ヶ月にわたって中断し、またある者は爆撃による恐ろしい体験をし(今回の戦争の始め頃、ハートフォードシャーの村に疎開してきた八歳の少女は私に自分は七度の爆撃を経験したと断言した)、ある者は地下鉄の防空壕で眠り、それは時に長さにして一年近くに及んだのだ。都市部の子供たちがどの程度、田舎の生活に適応したのかを私は知りたい――彼らは鳥や動物への興味を育んだのか、それとも映画館へと戻ることを熱望したのか――そしてまた少年犯罪に目立った増加は無かったのか。パネート婦人の描く子供たちはまるでロシア革命の副作用である「反抗的な子供たち」の群れであるかのような印象を与える。


十八世紀、インド製のモスリン布が世界の驚異のひとつだった頃、インドの王の一人がルイ十五世の宮廷に使節団を送って貿易協定の交渉に当たらせた。彼は、ヨーロッパでは女性が政治に多大な影響を及ぼしていることに気がついていて、使節団は高価なモスリンのベールを持って行ってそれをルイの愛人に贈るよう指示されていた。不運なことに彼らの手にしていた情報は最新のものではなかった。ルイの移り気な愛情はその向かう先を変えてしまっていて、そのモスリンはすでに捨てられた愛人に贈られてしまったのだ。交渉は失敗に終わり、帰国した使節団は首をはねられた。

この物語に教訓があるのか私にはわからないが、私たちの国の外務省が好んで会合している種類の人々を見ると、私はこの話をよく思い出すのだ。


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