数日前、一人の西アフリカ人が手紙で、ロンドンのあるダンスホールが最近、「有色人種立ち入り禁止」となったことを私たちに知らせてきた。どうやら顧客のうちで大きな割合を占めるアメリカ兵の歓心を買うためにそうなったらしい。そのダンスホールの支配人に電話したところ次のような回答が返ってきた。(a)「有色人種立ち入り禁止」措置は取り止めになった。(b)そもそも全く強制的なものではない。しかし情報提供者の非難には一定の根拠があると思ったほうがいいだろう。最近、似たような出来事が続いている。例えば先週あった治安裁判所での裁判では、この国で働く西インド出身の黒人がホーム・ガードの制服を着ている時に歓楽施設への入場を拒絶されたという事実が明らかにされた。またインド人や黒人といった人々が「有色人種は受け入れない」と言われてホテルから宿泊を拒まれる例も多くある。
こうした種類の出来事に目を光らせ、ひとたびそれが起きたらできるだけ大騒ぎすることが極めて重要だ。これは騒動を起こすことによって何かしらの解決を図ることができる問題のひとつなのだ。この国には有色人種に対する法的障壁といったものは存在しないし、さらに言えば肌の色に関する人々の好悪も極めて少ない(インドでの私たちの行いが示す通り、これはイギリスの人々が本質的に善良ということではない。イギリス自体に肌の色による人種問題が存在しないという事実によるものだ)。
やっかい事は決まって同じやり方で起きる。ホテル、レストランといった場所には金払いがよく、インド人や黒人との付き合いを嫌う人々がよく出入りする。彼らは店の経営者に対して、有色人種を立ち入り禁止にしなければ別のところに行くと言うのだ。そうした人間は極めて少ないし、経営者は彼らの意見に同意はしないだろうが、金払いのいい顧客を見逃すことは経営者にとっては難しいので有色人種の立ち入り禁止が図られるのだ。こうした出来事は世論が注意を払い、有色人種が侮辱された場合には相手がどんな権力者だろうが不満の声が上がるようになれば起きようはずもないものだ。立証可能な、肌の色による差別の実例を知った者は誰であれ常にそれをおおやけにすべきだ。さもなければ私たちの中に存在するごくわずかな割合の肌の色に偏見を持つ俗物が無数の悪さをおこない、イギリスの人々はそれに対する汚名を着せられることになる。全体として見ればそれはいわれのないものなのだ。
一九二〇年代、アメリカ人旅行客がタバコの売店やブリキの小便器と同じくらいパリの景観の一部となっていた頃には有色人種立ち入り禁止の兆しはフランスにさえ現われはじめていた。アメリカ人たちは湯水のように金を使い、レストラン経営者やそれに類した人々は彼らを無視することができなかったのだ。ある夜のことだ。とある非常に有名なカフェでのダンスパーティーで、何人かのアメリカ人たちがそこにエジプト人の女性を連れた黒人がいることに文句をつけた。弱々しい抗議が起きた後、その店の経営者は要求を受け入れ、その黒人は追い出された。
翌朝、ひどい騒動が巻き起こり、カフェの経営者は政府の高官の前に引きずり出されて告訴すると脅された。無礼を働かれた黒人はハイチの大使だったのだ。こうした種類の人々であればたいていは償いを受けることもできるだろう。しかし私たちのほとんどは大使となるような幸運には恵まれていないし、ごく普通のインド人や黒人、中国人がしみったれた侮辱から身を守ることができるとすればそれは他のごく普通の人々が進んで彼らの味方になって働きかける場合だけなのだ。
今週のトリビューン紙を読んだ者であれば気づくように「ドイツが必要としている物」を書評しているレジナルド・レイノルズ氏は、イギリス軍が民間人の人質を盾にして進軍しているという話を繰り返していて、自身もそれを信じているようである。彼が根拠としているのは日付の定かでないニューズ・クロニクル紙からの引用である。
さて、民間人の人質を盾にした進軍という話は戦争プロパガンダの歴史の中でもとりわけ古くからある定番だ。ドイツ人たちは一九一四年、そして一九四〇年にもそれをおこなったと非難されている。しかし、仮にそれがドイツ人たちについての話だったとしたらレイノルズ氏はその話を信じただろうか? 実に疑わしいと私は思う。「残虐行為のでっちあげ」として直ちに退けただろう。偶然にも彼の引用元であるニューズ・クロニクル紙は、先週、もうひとつの伝統的な残虐行為についてノルマンディーから報告している――ガソリンをかけられた女性たちが燃やされたと言うのだ(これは過去三十年の戦争の中で次第に定番になっていった話だ。女性たちが修道女であれば完璧である。ニューズ・クロニクル紙は彼女たちが教師だったことにしているが、これはおそらく次に優れた設定だろう)。レイノルズ氏がこの話も退けるであろうことに私は多少の自信がある。戦争反対者の視点から見て真実であったり、少なくとも信頼できるとされるのは、そうした話が私たち自身の陣営についてのものである時だけなのだ。ちょうど頑迷な保守主義者にとっては敵の陣営についてのものだけが真実になるのと同じだ。
こうした戦争反対者の態度が頑迷な保守主義者のそれと比べて多少なりともましなのかどうか、私は疑問に思うし、本質的に両者には違いが無いとさえ考えている。ここ数年の間、多くの平和主義者やその他の戦争反対者が私に断言したのは、ナチの残虐行為――強制収容所やガス室を積んだトラック、ゴム警棒、ヒマシ油やその他の物――の話は全てイギリス政府のついた全くの嘘であるということだった。あるいは、嘘でないにせよ、私たちだって全く同じことをしていると言うのだ。敵に関して言われていることは全て「戦争プロパガンダ」であり、一九一四年から一九一八年の経験からわかるように戦争プロパガンダは絶対に真実でないというわけだ。
一九一四年から一九一八年の間にどれほどの嘘があったのかは神のみぞ知るだが、今回は根本的な違いが存在することを私は強く主張したい。今回、残虐行為の訴えは戦争が始まってからされたわけではないのだ。それどころか一九三三年から一九三九年の期間にもそうした訴えは大量にされていた。当時、文明世界全体がファシスト国家でおこなわれている事を恐怖しつつ傍観していた。こうした話は、イギリス政府から発せられたものでも、あるいは別のどこかの政府から発せられたものでもないのだ。
そうした話を信じて伝えたのはどこの国でも社会主義者や共産主義者だった。大部分の平和主義者を含め、ヨーロッパの左派は強制収容所やユダヤ人迫害やその他全てを信じていた。またファシスト国家から逃れた何十万もの難民もそれを信じていた。従って、仮にナチの非道についての話が全て全て嘘だとするなら、私たちは次の二つのうちのどちらかを認めなければならなくなる。(a)一九三三年から一九三九年の期間に数千万の社会主義者と数十万の難民は強制収容所に関する集団幻覚にかかっていた。あるいは(b)平時には残虐行為が起きていたが、戦争が始まるやいなや、それは止まった。
どちらも信じ難く、ナチに対する訴えは基本的には真実であると私は言いたい。ナチズムは全く並外れて邪悪なものであり、近年では全く並び立つ物の無い非道の原因に他ならない。釈明すべき多くの罪を犯してきたイギリス帝国主義よりも間違いなくずっとひどいものだ。こうした事実を受け入れないのはたんに現実から目を背けているだけのように私には思える。
不信が軽信に変わることもある。「ベッドフォード公爵(ラッセル・ヘイスティング第十二代目ベッドフォード公爵(一八八八年十二月二十一日-一九五三年十月九日)。極右政治家として知られる。)は」、ある若い平和主義者は私に書き送ってきた。「ヒトラーが善良な人物だとわかっていて――そして実際そうなのだと私は断言しますが――彼にできる最善を尽くすためにヒトラーと話し合いたいと望んでいます」全く反対に私は、ヒトラーが善良な人物ではなく、その根拠となる大量の証拠が存在すると言いたい。もちろん、ベッドフォード公爵が正しい報告を受けているのかどうかは私にはわからない。しかし仮にそうなら、彼の物の見方はV1飛行爆弾に抗議の声を上げながら、その一方で数百万のインド人の飢餓は気にも留めない馬鹿なデイリー・テレグラフ紙の購読者のそれと大差ないだろう。